第3話 イエローカード

1.


 土曜日の朝。俺は朝飯を掻き込むと、家を出た。今日は学校のグラウンドで、サッカー部の練習試合があるんだ。隣の市の高校を迎えての強化試合だ。

 早く学校に着きたくて、自転車をいつもより早く漕ぎながら、学校へ向かう。頭の中にあるもやもやはいったん脇へ置いて、試合に集中しなきゃ。

 四つ角をいくつか曲がった時、深那美と行き会った。なんか最近、こいつとばったり出くわす、あるいはいつの間にか俺の背後にいることが多い気がする。

「また午後にな」と早口で言ってまた走り出すと、

「試合、見に行くからね~」

 またそんなことを大声で!

 しかめっ面をしながら自転車を漕いでいると、

「よぉ、洋太」

 チームメイトがあいさつもそこそこに並んできた。やけにニヤニヤしてるのは、もしかして。

「お前、籾井と付き合ってんの?」

 やっぱりか。

「ちげーよ! 時々たまたま一緒になるだけだっつーの」

「はいはい」

「んだよその言い方」

「だってよぉ、昨日の1時限目、仲良く保健室から帰ってきたじゃん」

 図星に言葉が詰まる。バラバラに帰ってくりゃよかったのか。

 俺はスピードアップで動揺を見せないようにして、後ろに声を投げた。

「付き合ってねぇって。俺には純がいるし」

「入院中だもんな。なんもできないの、辛いよな」

「してねぇっつーの。どっちとも」

 結局信じてもらえないまま、学校に到着してしまった。

 本格的なウォーミングアップに取りかかる。黙々とやってると、顧問が来て早々、俺に近づいてきた。

「お前、昨日ぶっ倒れたんだって? 大丈夫か?」

 お袋か? 余計なことしやがって。

 何事かと注目を集めながら仕方なく、かかりつけの医者に診察してもらったこと、週明けに学校を休んで精密検査に行くことを説明した。そして結論に力をこめる。

「とりあえず、大丈夫っすよ。念のためだし」

 だけど、そういうわけにはいかないらしい。俺は先発から外れてしまった。

「試合展開を見ながら、短い時間だけど使うから」

 そう言われて、内心のガッカリを押し隠してうなずく。今の俺は、レギュラーと控えの境界線上にいるんだ。ここでがんばって、3年の大会につなげておきたかったのに。

 試合開始のホイッスルと同時に、下級生たちが応援を始めた。と同時に、別方向からも小さな歓声が上がる。

 もちろんここはスタジアムじゃない。グラウンド脇にある芝生の生えた斜面に、部活開始前の生徒や対戦校の下級生たちが観戦している。歓声はそこから上がっていた。

 その数はだいたい60人くらい。対戦校は固まって気勢を上げているが、こっちの生徒はバラバラ。中には隅っこで独り離れて、大きな紙を広げてのぞき込んでいる女子生徒もいる。

(新聞読んでるのか?――って、深那美じゃんか!)

 あれか? 俺の部活が終わった後の標的でも捜してるのか?

 昨夜連絡を取り合って、午後はラベル探しをがんばることにしたのをまた思い出した。

 それを頭から振り払って、目の前の試合に意識を集中する。うちのチームは攻勢に出ていた。くそぅ、みんないい動きしてるなぁ。また胃がシカッとする。

 相手チームも守備ブロックを作って、こっちの攻撃を跳ね返す。ボールがあちこちに飛び交い、なかなか足元に収まらなくなった。

「ボールを落ち着かせろ! いったん下げて!」

 思わず声を張り上げると、ちょっとすっきりした。次に、コーチャーズボックスで仁王立ちしている顧問の背中を見つめ、念を送る。

 俺を使ってくれ。絶対突破してみせるから。

「危ない!」

 ベンチの仲間の声と、右から来る気配と。両方を感知した俺は振り向き、顔に激突する寸前でボールをキャッチした。

 そしてそのまま、凍りついた。

 2センチもないくらい目の前にある天然皮革の球体。その表面に、あのラベルが張ってあったから。

 そして、ボールボーイ役の下級生に催促されて返したボールの向こう、スタンドに悪魔的な笑みを見つけたから。


2.


 0-0のまま、ハーフタイム。俺はトイレに行く振りをして、スマホを引っつかむとダッシュした。

『もしもーし』

「あったぞ、ラベル」

『もーダメじゃん! ボール、どれか分かんなくなっちゃったし』

「分かるよ。今センターサークルに置いてある奴がそうだ」

『ちょっと持ってきて』

 ばか言ってんじゃねぇ。不審行動バリバリじゃんか。

「つか、誰もラベルに気づいてないぞ……もしかして、見えてないのか?」

「そだよ」

 あっさり言いやがって。

『だから言ったじゃん。宿命だって』

 その声は、なぜか突然哀しげになった。だが気を取り直したのか、また声高に戻る。

『あのボール、向こうの学校のだよね?』

「ああ」

 そうだ、試合が終わったら、もう対戦校と一緒にボールは帰っちまうんだ。

「どうする?」

『しようがないなあ。この深那美の悪魔的な頭脳を働かせた作戦を授けよう』

 悪魔的という言葉にドキッとして、次に偉そうな物言いにムカッと来た。

「んで? 始まっちまうから早くしろよ」

『蹴り出して。思いっきり』

「……はあ? 俺にわざとミスキックしろってのか?」

 ちょっと怒った口調で言っても、彼女は怯まなかった。

『サッカーの試合と純チャンの記憶。どっちが大切?』

「……お前、そこまでして俺にラベルを処理させたいわけ?」

『そう! あくまでも光の解放を目指すのだ! 悪魔だけに。ひっひっひっひっひっ』

 それは悪魔じゃなくて魔女じゃないか?

 スマホから聞こえてくるふざけた笑いを無視して、俺はベンチに戻った。

 後半のスタメンが発表される。俺の名前は、また無かった。

 ピッチに出て行く選手と、ベンチに戻る選手と。2つの流れのどちらにも乗れず、俺は唇を噛み締めた。

 試合にも出られず、純の記憶も救えず。

 ちくしょう……

 でも気がつくと、名前を呼ばれていた。顧問の声だ。

 顧問は俺の肩に手を置いて言った。

「いいか。同点なら、お前を15分過ぎに投入する。縦に突破して、ディフェンスを引き付けろ。あわよくばセンタリングを上げてこい」

「! 分かりました!」

 このまま、終わりじゃない。俺は今すぐにでもアップを始めたい衝動を抑えて、ベンチに座って前で両手を組んだ。

 落ち着いて試合を見なきゃいけない。ラベル付きボールの行方を追い続けることもしなきゃいけないんだ。

 後半は一転して、攻め込まれる時間が多い。点を取られたら、俺の出番はない。

 頼む。頼む。

 俺に出番をくれ。

 後半10分を過ぎて、俺にアップ開始の指令が来た。もうボールを目で追っている余裕は無い。

(頼むぜ、深那美)

 彼女がボールをちゃんと把握していることを念じながら、ピッチサイドを往復する。

 そしてついに、出番が来た。

 交替の選手とタッチしてフィールドに入りながら、斜面にいる彼女を見る。

 首を振ってる。てことは多分、今フィールドにあるボールじゃないんだろう。

 自分に課せられた役割をこなしつつ、ボールが変わると深那美を見る。それを繰り返して迎えた後半40分。

 双方の選手が焦りだす時間帯に、俺は別の意味で焦っていた。

 このままじゃ、タイムアップだ。ボールはどこなんだろう。どれが入れ替わっていないのか、もうさっぱり分からない。

 このままじゃ……

 敵サイドハーフがミスキックして、ボールが飛んでいく。ボールボーイがスローインのためタッチラインを出た選手に、手持ちのボールを転がして。

 もう癖になっちまった深那美への確認を行った俺は、嬉しさの余り疲れが吹っ飛んだ。

 彼女の両手は頭の上で結ばれて、マルを作っていたんだ。

「あれか。よし!」

 スローインと同時に、俺は仲間にサインを送った。

 俺にパスを出してくれ、と。

 目論見どおり、ロングパスが俺の前に打ち込まれる。

 反応良くダッシュしていた俺は、難なくボールに追いついた。トラップも成功。そして、敵のディフェンダーが走り寄ってくる。

 チャンスだ! いくぜ、学校の外へ!

 敵に詰め寄られて焦って、思いっきり吹かして遠くへ蹴り上げちまった――そうしようと足を振り上げた時、俺は見てしまった。

 ボールに付いたラベルが、ちょうど俺の足と接触する位置にあるのを。

 このまま蹴ったら、あの衝撃がまた来る……ッ!

 嫌だ嫌だ嫌だ!

 もうキックモーションに入っていた俺には、足首を捻ってラベルに当たらないようにするのが精一杯だった。


3.


「やあ、カードコレクター君。お疲れ」

「……誰のせいだと思ってんだ」

 俺は達成感と疲労感と、ついでに怒られたげんなり感が混ざった複雑な気持ちだった。

 俺が蹴ったボールは複雑な軌道を描いて、なんと敵ゴールに吸い込まれた。終了間際の先制点、しかもまず間違いなく決勝点を叩き出した高揚感に突き上げられながら、俺はミッションを忘れなかった。

 ゴールからコロコロと転がり出たボールに、その高揚感を上乗せして思いっきり蹴り上げたんだ。

 ボールは狙いどおり、フェンスを大きく越えて学校の外へ消えていった。

 やったぜ。

 そんな俺の耳はホイッスルの音を聞き、眼は続いてイエローカードを目の当たりにした。遅延行為ってやつだ。とほほ。

 試合はそのまま1-0でうちが勝った。だが、当然のことながら、顧問にガッチリ怒られ、そのまま相手チームへ謝罪に行かされた。

 おまけにボールを弁償だよ。無くなっちまったからな。

「大丈夫。ちゃんと確保したから」

 笑う深那美は、背負ったリュックサックを見せてくれた。

「そっか、光を解放したら、見つけたって言って返せばいいんじゃん。つかお前、そんなリュック持って来てたのか?」

 こいつ、このことを予測してたのか?

「んなわけないじゃん。ボールをいったん隠してから、家に取りに行ったの」

 ついでに私服に着替えまでして、ほんと女の子ってやつは……

(あれ? こいつん家、そんなに近いか?)

 ふと疑問が頭に浮かんだけど、まあとりあえず、

「カワイイ格好してんな、お前」

 一応褒めてやると、深那美はすごくうれしそうに笑った。

「ま、わたしはおめかししなきゃって思って。洋太君はどうせ学校のイモジャーだしぃ」

「甘いな」

 俺も肩から提げたドラムバッグを見せ付けた。

「どっかのトイレででも着替えるぜ」

「ちぇー」

「んだよその残念そうなツラぁ」

 結局、昼飯に入った店で着替えた。

「って、結局ジャージじゃん!」

「っせぇな、いいだろ別に」

 対面の深那美は、可愛くぷーと膨れた。

「せっかくのデートなのに」

「デートじゃねぇ、探索だ」

 そんな悲しそうな顔をしても、だめだ。

 純を悲しませない。あの時みたいに。そう心に誓ったんだ。

 ……あの時?

 なにか記憶にひっかかりを感じたが、深那美の引き起こした会話の洪水に押し流されてしまった。

 上気した顔の彼女は、ひたすらしゃべった。昼飯のメニューのこと、友達のこと、昔のこと。

「洋太君、昔はあんなくらいちっちゃかったのに」

 そう言う彼女の視線の先には、母親とお出かけしている幼児の姿があった。

 そのコロコロに着膨れさせられた格好について、ひとしきりしゃべったあと、深那美は身を乗り出してきた。

「ね、わたし、変わった?」

「……お前、今と全然違ったよな」

 ふふーんとふんぞり返る幼馴染を眺めながら、俺は昔をふと思い出した。

 木登りも、駆けっこも、ケンカも、全部一番だった女。

 それが小学生の時の深那美だった。

 今目の前でやっている、髪を整えるようにかき上げる仕草なんて、ただの一度も見たことが無い。

 4年も経つと、こんなに変わるもんなんだな。

(入学式のときは……たしかもっと短かったよな、髪……どうだったっけ?)

 その疑問を口にする前に、彼女は立ち上がった。

「さ、行こう」

 そのかけ声だけは昔と変わらず、俺は――まるで小学生の時のように――渋々という態度で従った。



 効率がいいから。

 『一緒に探そう』という深那美に、俺が下した判断だった。地図は2枚あるんだし。

 悲しそうな彼女は、そこから粘った。そして結局、3時にゴエティアというカフェで落ち合って、成果を話し合うことにさせられたのだった。

「さてと……」

 地図を広げて、電柱にもたれかかる。道往く人たちから顔と、なにより地図を隠すように。

 今日は徒歩で繁華街を探索することになっている。西半分の担当になった俺は、標的を3つ見つけた。

 でも、地図はこの市の全体を記したA1サイズのもの。繁華街なんて5センチ四方しかない。そこに、米粒大の赤い丸が3つ。

「どこにあるのかさっぱりワカラネェ……」

 そういえば深那美の奴、あの空き教室にラベルがあるって、なんで分かったんだろう?

 それはともかく、幸い、西半分にあるその3つとも動きが無い。しらみつぶしに探せば見つかるはず。

「じゃあ行くか。宝探し」

 その前に、ふと思いついてコンビ二に立ち寄る。大きな地図を眺めながら歩き回るのは不便なので、該当の場所だけをコピーしようと考えたんだ。

 先客のコピーを待つこと数分、ようやくコピーができた。できたんだけど……

「赤丸が写ってない……」

 慌てて地図を見直すと、ちゃんとあるじゃん。

 仕方なく赤ペンを買って、コピーに印をつけた。

 今、1時33分。さあ出発だ。



 それから1時間半捜し回って、俺は今、カフェ・ゴエティアにいる。

 そこは繁華街を北に少し外れたところにある、静かでおしゃれなカフェだった。

 客は俺と深那美以外には、いかにもなノートパソコンを片手で操作しつつカップを傾けてる、すかした男のみ。濃い色のサングラスまでかけた男がノーパソのキーを叩く音以外は、店内に流れるクラシック音楽しか聞こえてこない。

 俺も深那美も、ラベルを1つずつ見つけていた。問題はそれらが、通りに面したところに貼ってあること。

「夜中にこっそり?」

「それしかないよな」

 飲み物が運ばれてきたので押し黙り、女性店員が去るのを見送る。

「イヤラシイ」

「なにがだよ」

 視線を戻すと、深那美は膨れていた。

「洋太君って、お尻好きだよね?」

「んなわけねぇだろ」

「だって、いっつも女の子のお尻、目で追ってるでしょ? 一緒にいると分かるもん」

 昔、純にも同じことを言われたのを思い出した。そんなつもりは無い……つもりなのに。

 俺は声を大にして、でも物理的には小さな声で宣誓した。

「違う。神様に誓って」

「昨日の渡り廊下――」

 ギクッ

「見つめてたでしょ?」

 んなわけねぇだろと言う声は、蚊の鳴くような声になってしまった。

 話題を変えてやる!

「ラベルって、全部でいくつあるんだ?」

 頬を赤く染めて口をとんがらせていた深那美は、仕方がないといった表情で乗ってきてくれた。

「72」

「……マジ?!」

「ウッソ~」

 むかつく、こいつ。

「嘘つくなよ! ちょっと絶望しかけたじゃん!」

「わたしのお尻を見た仕返しだ!」

「見てねぇ! スカート越しじゃねぇか!」

「やっぱり見つめてんじゃん」

 敗北のカフェオレは、ミルクまで苦い。



 ラベルは全部で13枚。それが、あの黒幕に教えてもらった数字だそうだ。

 さらに、ラベルは全てこの市内に存在するとも。

 てことは、2枚処理したから、あと11枚か。

 地図を広げて眺めていた深那美が、首をかしげた。

「……10しかない」

 反対側からのぞいて、数えても、やっぱり10しかないじゃんか。

「おっかしいなぁ、昨日の夜数えたら11あったのに」

 さらに首をかしげてつぶやいた彼女に、俺は気づいたことを指摘してみた。

「なんかさ、ものすっげー勢いで動いてるやつ、あったじゃん? あれって、車か何かだよな、絶対」

「……てことは、今は市の外に出て行ってるってこと?」

「かもな」

 嫌な予感がする。

「それって、まさか追いかけていかなきゃいけないのか?」

 もし本当に車だとしたら、絶望的だ。俺は頭を抱えた。

「追いかけるもなにも、地図がこの街の分しかないし」

 同じく腕組みをして考え込んだ深那美が、もう一つあるとつぶやいた。

「どうしてあのボールにラベルがついてたんだろう?」

「そもそもなんでラベルなんだよって点はいいのかよ」

 突っ込まれた深那美はじっとりとした目で、俺を見すえた。

「そこを疑っちゃう? 事実じゃん。目の前の現実じゃん?」

 戦おうよ、現実と。

 そこまで言われてむかつくけど、俺も現実に焦点を合わせることにする。

「……そっか。今日対戦した高校、隣の市から来たんだもんな」

 じゃあ、なんで?

 疑問点を黒幕さんに訊いてみる。彼女のとりあえずの締めで、ゴエティアの会談は終わった。

 割り勘で払って外に出ると、北風に吹きつけられて思わず震えた。同じく震えた彼女が俺の腕を取る。

「さ、あとは人気のないところで」

「俺を襲うのか?」

「……襲っていい?」

「いいわけねぇだろ」

 深那美はなぜか、今日何回目かの悲しげな目をした。


4.


 家に帰ると、揚げ物の匂いがキッチンから漂ってきた。

「お帰り! 今日、決勝点入れたんだって? おめでとう!」

「……なんで知ってんだよ」

 試合後、俺の体調のことで部の顧問に電話した時に聞いたのだそうだ。

「お袋、余計なことすんなよな」

「なんで? 私はあなたのことが心配で……」

 俺はさらに抗議をしようとして、襟首を掴まれた。

「手を洗え。話はそれからだ」

「苦しいって! 離せ!」

 親父は意外にお節介だ。そしてマナーにうるさい。

 渋々洗面所で手を洗って戻ってきた俺は、親父の前を通って奥に座ろうとした。でもその時、親父の眼鏡越しの目に追われていることに気づいて、

「なんだよまた説教かよ!」

「ショーエン臭い」

「……は?」

 親父はすんすんと鼻を鳴らすと、

「ショーエン臭いな、お前」

「んだよショーエンって」

 親父は指でテーブルの上に『硝煙』と書くと、

「ガンパウダーの燃焼に伴って発生する煙だ。お前からその臭いがする」

 ギクッ

 俺は動揺を隠そうと表情を固め、親父をにらんだ。

 帰る途中で、人気のないところを選んで、あのボールに付いたラベルをマカロフで撃ったんだ。

 現場は確かに緩い向かい風だった。俺の横にいた深那美のショートカットが後ろに流れていたから。

 撃った時に銃口から出た煙を浴びて、その臭いがするということか。そう推測して、でも正直に言えるわけがない。

 親父は俺の沈黙を反抗と受け取ったようだ。目つきが鋭くなり、立ち上がろうとしたその時。

「はいはい、あなたもおかしなこと言ってないで、ご飯にしましょ」

 親父はお袋と俺を見比べる仕草をして、黙って座り手を合わせた。

 夕食は俺の好物、チキンカツだった。MVPですもの、とお袋は本当に嬉しそうだ。

 揚げたてのそれを腹いっぱい食べて、俺は幸せだった。

 ついでに夜の任務も成功させれば、さらにハッピーだ。

 でも、それを言い出すのは今はまずい。親父がまだキッチンにいるから。どんな言いがかりをつけてくるか分からない。

 ぐずぐずしているうちに、親父は缶ビールを2本片手に掴んで部屋に引き上げていった。

(チャンスだ!)

 親父は部屋で晩酌をする。そうすると、しばらくは出てこないんだ。

 俺はお袋に声をかけた。サッカー部の連れと、今日の試合の反省会をするからと。

「あら、どこでするの?」

「んーと、坂部の家の近くにある公園で。9時には戻るから」

 あえて市の反対側に家がある部員の名を出して、時間を稼ぐ。我ながら良い策だと思う。

 公園で騒いじゃダメよと母に言われながら、急いで靴を履いて外へ出た。



 引っつかんできたジャンバーに袖を通して、スマホを取り出す。ショートメッセージで深那美に出発を告げて、自転車に飛び乗った。

 ……おっと、ボールを忘れたぜ。

 今日の目的は、『この時間帯に、街にはどのくらいの人出があるのかを探ること』だ。発案は深那美。意外に頭が回るな、あいつ。

 俺は早く純の記憶を取り戻したい。でも、無理をして警察に捕まったりするのは絶対にだめだ。

 そのことを今日の帰り道、深那美に諭された。

 『男の子的には冒険したいかもしれないけど』って前置きで。

 自転車を漕ぎながら、じっと右手を見つめる。

 この手で、ピストルを撃って、彼女の記憶を取り戻す。

 要約してみると、すっげぇ大冒険だ。

 純に話したら、どんな顔するかな?

 ツレには……話せないか。ピストル撃ったなんて言ったら大騒ぎだもんな。純にもだけど。

「あ、じゃあ結局話せないのか……」

 残念な気持ちのまま自転車を走らせて10分ほど。俺が発見していたラベルの付近に自転車を止めて、確認しに行く。深那美はまだ来ていないようだ。

 ラベルは昼間に見つけた位置にあった。そして俺がこんなにマジマジと見つめてるのに、誰もラベルに気づかない。ちょうど俺の目の高さにべったり貼ってあるのに。

「マジ誰か捕まえて訊いてみてぇ……」

 そうつぶやいた時。

「はいそこの少年、両手を頭の後ろで組んで腹ばいになりなさい」

 ビクッとして声が出て、その次に引っかかった自分に腹が立って。

 俺は声の主、深那美をにらみつけた。

「だって、不審者ぽかったんだもん。壁の一点を見つめてブツブツ言ってさ」

 道往く人たちが、忍び笑いをしながら通り過ぎてゆく。くそっ、めっちゃカッコ悪いじゃん!

 そして、今日の結論も出た。

「この時間、人通りが多いね」「ああ、そうだな」

 こんな時間にここでマカロフを構えたりしたら、絶対通報される。

「でもよぉ、これ以上遅くは出られねぇよ」

「うんうん、健全でよろしい」

 突然の背後からの野太い声。それにビクッとして、でも今度は声が出ないほど驚いて。その原因は、

「ん? キミら、昨日の?」

 こんばんわおまわりさん、出現だよ。

「なんだ? またボール転がしたのか?」

 同僚の警官の口調は馬鹿にしてるみたいで、でも何か感づいているのだろうか。

 まあまあととりなしてくれた最初の警官が、何かに気づいたような目で俺を見た。鼻を鳴らして首を傾げる。

「キミ……」

「……なんすか?」

 まさか、親父の言ってた硝煙の臭いってやつか?

 今度はにらむわけにもいかず、でも変に逃げようとすれば怪しまれるだろう。

 そういう曖昧な態度をとった俺だったが、今度は同僚警官がとりなしてくれた。といっても、さっさと巡回を終わらせたいだけのようだが。

「じゃ、もう帰りなよ」

 2人ではーいと調子よく返事をして、

「帰るか?」

「とんでもない」

 俺たちは警官の巡回コースを見定めた。ほかの2つを確認に行って、また遭う可能性は低い。そう(希望的観測込みで)判断したのだ。

 ここから遠いほうのラベル目指して、自転車を走らせる。

「洋太君、影を走って。見つかる」

 深那美の指示を茶化す気にもなれず、たどり着いた場所。そこは実に静かな一軒家の塀だった。なんというか、西洋の要塞みたいな、いかにも分厚そうなコンクリート壁だ。

「急ご。もう1ヶ所のこともあるし」

「おう」

 静かに走り寄って、マカロフを受け取る。

「弾はもうロードしてあるから」

「ん」

 ラベルに銃口を押し当てて、引き金を引く。

 命中! って当たり前だけど、嬉しい気持ちはすぐに吹き飛んだ。

 一軒家の明かりという明かりが急に煌々と点き、複数の人がなにやら怒鳴りながら走ってくる足音が壁の向こうから聞こえてきたのだ!

「退却!」「ったりめぇだろ!」

 今日の試合で見せた全力疾走を、夜8時過ぎにまたやることになるなんて。

 打ち上がった光と言い知れぬ恐怖。その両方に背中を蹴飛ばされて、俺と深那美は自転車までダッシュすると、飛び乗って一目散に駆け出した。

 つか深那美、やっぱお前足速いのな。


5.


 結局、もう1ヶ所は銃撃できなかった。というか、近づくことすらできなかったのだ。

 時間を追うごとに増えるパトライト、鳴り響くサイレン。それを目の当たりにして、深那美の決断は早かった。

「今日はこれまで。明日は別の場所を探そうよ」

 じゃ、また明日。

 引き際も素早く、女子高生の自転車を漕ぐ姿が小さく――ならない。

「ほらそこ! お尻見つめない!」

「見つめてねぇっつーの」

 そんなバカ話を最後に、俺も別のルートで家に帰った。

 自転車を止め、階段を上がりながら、にやけと震えが同時にやってきて、同じマンションの住人に見られたら確実に不審者扱いだろう。

 その興奮も302号、つまり我が家の玄関をくぐる時には収まって、

「お帰り。お風呂早く入っちゃって」

 お袋の言葉に従って、脱衣所で服を脱いで洗濯籠に放り込んだ。

 足をお湯に入れる間際、

「あ、ジャージ……」

 ま、いっか。ショーエン臭いし。

 あきらめて、俺は肩までお湯に浸かると、大きく息を吐いた。

 純、今頃どうしてるのかな。

 記憶、戻ったのかな。

 もどってるといいな。

 つぶやきかけた風呂の天井から返ってきたのは、冷たい水滴だけだった。

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