第三話 「アリス」
「あっ。崇文さん。いらっしゃい。今日も来てくれたのね」
婇は私の事を「崇文さん」と呼ぶようになりました。それは、私をただの客ではなく、友達として認識してくれた証拠でした。
「ヤァ。婇ちゃん。又来たよ」
私はいつも通りに返しますが、どれだけ嬉しく思った事でしょう。私と彼女の距離が一気に縮まった心地がしました。
とある土曜の夜の事です。扨、夕飯の支度でもするかと思った矢先、食材が足りない事に気がついた私は、外食に行こうと考え、「アリス」に向かいました。
「アラ。崇文さん。随分と遅いお昼 だこと」
遅い時間に来るのを珍しくに思ったのか、婇は冗談めかしてそう云いました。
「イヤァ。夕飯の支度をしようと思ったら、食材が足りなくてね」
「マァ。それは大変だったわねェ。さ。早くお座りなさいな。何時ものでいいかしら?」
「アア。頼むよ」
「オカアサン。何時ものシチウお願い」
オカアサンと云うのは「アリス」の店主で、年四五〇歳くらいの中年の女性です。
私はいつも座っている席に座ると、カウンターの奥にいるオカアサンが手招きしました。
「お客が居ないんだ。こっちに来な」
私はお言葉に甘えてカウンターの席へ移りました。
「婇。お皿を持って来な」
「はい。オカアサン」
そう云われると、婇は奥へ皿を取りに行きました。
「岡崎さん。最近婇はアンタがお気に入りの様だ」
「そうなんですか?」
「婇は地方からの上京娘でね。ウチに住み込みで働いてンだが、アンタに逢ってから随分と明るくなったもんさ。ネェ。葉月」
そう云ってオカアサンは、店内の掃除をしていた葉月と呼ばれる女給仕に声をかけた。
「エエ。婇ちゃんはああ見えて、こっちに来た時はとっても怯えてたわ。何せ田舎から女一人で上京するなんて、とてもじゃないけど勇気が要るもの」
定めし、婇より一つか二つ上に見える彼女も田舎から上京してきた身なのでしょう。
「アノ子は都会に憧れて上京して来たんだけど、来たは良いが、何処も行く宛が無くてね。この店の前でウロウロしていた所を、ウチの店で引き取ったのさ」
この店の給仕は殆どが上京娘達で、それを引き取って、面倒を見てくれるので「オカアサン」と云う訳です。
「マァ。そう云う訳だ。これからも婇を宜しく頼むよ」
「こちらこそ。宜しくお願いします」
何時も何気に通っている喫茶店が、何処か居心地の良い場所の様に感じました。私も一人暮らしに寂しさを感じていたのかもしれません。それは、他にお客が居ない事もあるでしょう。いっそのこと、昼休みに通うのを止めてしまって、毎晩通う事にしようか。と、思った程です。
婇はようやく皿を持って来ました。もしかしたら、先程の話を立ち聞きしていたのかもしれませんが、私にそれを確かめる術はありませんし、ましてや、立ち聞きを咎める事も出来ませんし、咎める必要もありません。
「崇文さんはいつもシチウなのね。たまには他のメニューを頼んでみたら如何?」
婇はそう私に訊きました。
「そうだねェ。そろそろ春だしなァ。婇ちゃん。何かお勧めはあるかい?」
「そうねェ。ビーフコロッケーなんて如何?」
「それじゃァ、今度からそうしよかな」
私の「アリス」へ通う頻度はこの日を境に増えて行きました。
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