第一章 婇

第一話 初恋

 私の名は、岡崎崇文と云いまして、大蔵省の事務官をしておりました。これでも猛勉強をして、田舎から友人の黑澤と云う男と共に大学へ這入る為に上京し、東亰の大学を出た身でした。大学を出るとともに大蔵省へ入省し、足掛け二年が経っておりました。私は二十五になる、大正九年の暮れの事です。

 私は友人の黑澤に誘われて、小さな喫茶店に這入りました。彼曰わく「最近新しい店を見つけた」と云うのです。(「新しい店」とは云っても、昨日今日出来た様な「新しい店」では無く、今迄の行き着けの店に飽きが来た黑澤が「新しい店」を見つけたのです。)

 喫茶店の名は「アリス」。中へ這入ると「いらっしゃいませ」と、愛想の良い、女給仕が迎えてくれました。年十五六くらいでしょう。桃割に髪を結い、五尺くらいのその背丈、そして、着物の上からでも解るその肉付きの良さは、まるで西洋人の様でした。

 十畳くらいの広さの店内には、丸テーブルと、角テーブルが合わせて六つ。その席の一つに着くなり黑澤が、私に耳打ちしました。

「如何だい?」

「如何だい?って、何の事だい?」

「惚けた事云うなよ。アノ子さ。アノ女給仕の子さ」

「アァ。随分と可愛らしい子じゃァないか。何だい?狙ってるのかい」

「馬鹿な事を云うなよ。俺には雪子が居るんだぜ?そんな事をするわけがないだろう?」

 黑澤は、雪子と云う許嫁がおりました。彼女を國元に残し、彼は上京の道を選んだのでした。そして経済的にも余裕が出来たら、こちらに呼んで一緒に暮らすと云うのが彼の夢なのです。

「君さ。君はアノ子の事を如何思うンだい?君はまだ独り身だろう?」

「いっ…イヤ…それはそうだが…」

 私は痛いところを突かれた気分でした。黑澤の云う通り、私は未だ独り身で、嫁を貰う予定などありませんでした。黑澤の様に國元に許嫁が居る訳でもなく、恋人が居る訳でもなく、私にそう云ったものは縁の無い話だと思って暮らして来たのですから、そんな處は突かれたくもありませんでした。

「君こそふざけた事を云うんじゃァないよ。見ず知らずの婦女子相手に、それを嫁の候補にするなんて、それは流石に不味いンじゃァないか?」

「ナァニ。今すぐにとは云わないさ。明日から毎日此処へ通いやァ良いだろう?そうして距離を縮めるのさ。それとも、好みじゃァ無いのかい?僕は彼女に会ってから、少なからず君を観察させてもらったよ。君の様子を見る限り、好みだと思うンだがな」

 それは図星でした。彼女を一目見たときから、こんな魅力的な女性を女給仕にしておくのはもったいないと迄思ったのですから。彼女は正しく私の好みの弩真ん中を射るような少女でした。ですが、そんな婦女子には必ずと云っても過言ではないほど、恋人が居るのです。

「しかし、向こうには既に―」

「既に。何ですか?」

 私の言葉を遮るように、先程の少女が顔を出しました。

「へっ?いっ…いや…」

 これは正しく不意打ちでした。そのおかげで私はおかしな声をあげたのでした。

「私が、如何かしたのですか?」

 少女は悪戯な笑みを浮かべました。この時、私は彼女の顔を初めてまともに見つめることができました。化粧っ気の無い、白磁の陶器の様な艶やかで沁み一つ無い白い肌。淡い色の紅を塗った唇。ほんのりと淡い赤色をした頬。パッチリとした大きな目。そして、ほんのりと甘い香が私の鼻をくすぐるのです。

「イヤ、ね。コイツが君とお近づきになりたいって云うのさ」

 黑澤はそう云いました。

「私は婇と云います。仲良くしてくださいね」

 婇はそう云って微笑みかけた。

「おっ…岡崎です。大蔵省で事務官をしてます」

「マァ。大蔵省なんですか?凄いわ岡崎さん。大蔵省務めだなんて」

 婇は目を輝かせてそう云いました。その顔は他の婦女子などは眼中に這入って来ないだろうと思う程、とても可愛らしく見えました。その刹那、彼女は私の初恋の相手となったのです。

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