妄想心中

「あら、雨だわ。」


 私の向かい側に座る彼女が窓の外を見ながら、ぽつりと零しました。手元ではコーヒーカップを撫でながら、目線は窓の外です。

 私は、「そうですね」と何の面白みもない言葉で返します。それでも彼女はにこやかに笑って、私を見つめました。

 彼女に言葉なんて必要ないようです。

 雨は降り続けました、ただひたすらに。時計が五時を指すころになっても、降りやみません。私の手元のお茶も、彼女の手元のコーヒーも、少し前に無くなってしまっていました。傘も持たない私は、そのまま店を出てしまえば濡れることになることを理解しています。近くにはコンビニはおろか駅すらないので、どうしようもありませんでした。悩んでいると。

「ああ」

 小さく彼女が声を上げて、スマホをポケットから取り出し、どこかへと電話をかけています。雨の音と共にコール音が聞こえて、どこかへとつながりました。相手は男性らしく、低く優しい声色で彼女に話しかけています。その男性に対して彼女が気安そうに話すことが少し、腹立たしく思いましたが、気にしないことにしました。気にしないことにしないと、私は嫉妬でどうにかなってしまいそうでしたから。

「じゃあ、いつものところだから迎えよろしくね。」

 そう言って彼女は、スマホをポケットへと戻します。そしてこちらを向いて、言いました。「今から迎えが来るからそれで一緒に帰りましょう。」、と。

 華やかな彼女の笑顔はとても心に刺さるものがあります。そんな笑顔で言われてしまっては、私は、頷くほかに選択肢など存在しません。力強く頷いて、彼女の追加のコーヒーとお茶を注文しました。


 しばらくして、追加の飲み物が終わる頃に、黒く塗られた長い車が喫茶店の前に止まります。これが彼女の迎えの車なのでしょう、彼女が会計札を手に取り、スマートに支払いをしてくれました。私が慌てて財布を取り出しているうちにです。差し出したお金は受け取られることはなかったので、お礼を言うしかありませんでした。

 黒く塗られた長い車からは、妙齢の執事が傘を取り出して降りてきて、彼女を濡れないようにして、乗り込ませました。バタン、とドアが重く閉まる音。私は乗せていただけませんでした。それはわかりきっていることです。ただ、わかっていないのは彼女だけでした。彼女はひどく焦った顔をして、なにやら抗議をしています。それでも運転手は、執事は、素知らぬ顔をして、黒く塗られた長い車は進みました。彼女と私の距離はどんどん遠くなっていきました。そうして、豆粒ほどになって肉眼で追うには難しいぐらいの距離になってからやっと私は。



 ―――



「…………、ああ」

 気づきました。先程のあまいあまい話は、自分の頭で考えたただの話だと。白いベッドの上で覚醒をします。そもそも話の整合性がありません。それに、私は学生でもなければ、今までの人生で彼女のような人にも会ったこともないというのに。

 所詮は拙い頭の中で考えた話です、なんてくだらない。ああ、でも、きっと、彼女のような人に出会えていたら人生はここまでひどいものにもならなかったのかもしれません。妄想の中でくらい彼女についていけたらよかったのに。なぜ現実のように理不尽なのでしょう。自分の妄想すらそうやっていないといけないのでしょうか。

 ああ。

 白い部屋にある窓を眺めます。眺めて眺めて、窓を開きました。縦に伸びた棒がわたしを阻みました。ここから飛ぶことはできないようになっています。白い部屋に備わった扉も開くことはできません。

「………」

 天が味方してくれているようです。普段なら開くことのないはずの扉はいとも簡単に開きました。なるべく音を立てずに扉を開けます。白くて明るい廊下は、しんと静まりかえって不気味さをこれでもかと押しつけてきました。震える足で一歩、部屋の外へと出ます。

 ひたり。床の冷たさが足の裏へと伝わりました。一歩、また一歩と進んでいきます。進む内にあの冷たさは気にならなくなっていくのです。やけに明るくて静かな廊下を進みます。聞こえるのは、自分の小さな足音だけ。

 階段を上り、上へ上へと向かいます。どれだけ上ったことでしょう。白い部屋にあった扉と似たような扉が目の前に現れました。



「おいで」


 彼女の声が扉の向こうから聞こえました。あれは妄想ではなかったのでしょうか。確かに今。彼女の声が聞こえたのです。現実だったのかもしれません。だから、彼女は運転手を執事を振り切ってここにいるのではないかと。私を見つけるために探し回ってくれたのではないでしょうか。そんな淡い期待が胸をよぎります。


「扉を開けて、おいで!」


 また彼女の声がします。なんだかひどく焦っているようでした。それは先程の彼女のようで、雨の日の彼女がリフレインします。ああ、早く開けなくては。そうは思っているのですが、足が進みません。

 それどころか床に倒れている始末です。床の冷たさが全身へと回ってくるようでした。それでも彼女の声が、ここを開けろというので、ずりずりと這いつくばるようにして扉へと向かいます。はしたないですが、致し方ありません。

 重たくなる体をなんとか持ち上げて、扉を開けました。

「ようやく逢えた、わたしのかわいいひと」

 夢で、妄想で、見た彼女と瓜二つの人がそこで微笑んでいました。蕩けるような声でわたしに語りかけます。

「歩けないのね。じゃあ、わたしにつかまってくださる?」

「ええ」

 彼女はこんな喋り方だっただろうか、とぼんやり頭の隅で考えます。ぐいと存外強い力で引っ張られて、そんな些細なことはどこかへ消え去りました。

 どこまでも青く続く空が、私たちを見下ろしています。枠のなくなった世界はとても広く、私たちなんてちっぽけなものに見えることでしょう。

 彼女は微笑んで、私を引っ張ります。そんな力強いのに細い腕は、空に浮かぶ雲のように白く、青空によく映えました。ぼんやりと眺めているとその視線に気づいたのか彼女は顔を赤らめます。

「そんなに見られては恥ずかしいわ」

「ご、ごめんなさい。あまりにきれいだから見とれてしまって」

「あら。嬉しいことを言ってくれるのね」

 彼女は照れくさそうに笑いながら言います。月のような優しい笑みでした。

「ねえ、ここからならよく見えるでしょう?」

 私を座らせて言います。ゆっくりと座って、そこから景色を見ます。確かによく見えましたが、まだ力が入らない私を押さえていてくれている、その、柔らかなもののせいで、返答に戸惑ってしまいました。



 彼女は私の目を見て、口を開きます。この目は一生忘れることはできないでしょう。一度取り込まれたら最後、というようなどこまでも暗い色をしていました。


「わたしと一緒にいきましょうか」


 どろり、と。暗い色があふれ出します。私は頷く以外の選択肢を持ち合わせておりませんでしたので、ひとつ、頷きました。彼女はゆるく笑います。

 それは、晴れやかな空の日のことでした。

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