第二章

第二章

蘭の家。懍と、水穂がきている。

水穂「どうしたんだよ。いきなり人を呼び出してさ。何かあったの?」

蘭「いや、何かあったというわけではないんだが。」

水穂「じゃあ、何なんだ?」

蘭「杉ちゃんのことでさ。杉ちゃんが、健忘失語の男と、仲がいいのは知っていると思うけど。」

水穂「知っているよ。」

蘭「でも、彼の事を杉ちゃんが馬鹿吉と呼んでいるのは、ちょっと行き過ぎのような気がして、何とかやめてもらいたいと思っているんだけど、どうやったらやめてもらえるかなと思って。」

水穂「杉ちゃんのユーモアだから、変えるのは難しいんじゃないのか。」

蘭「そうだけど、明らかにかわいそうじゃないのかあなと。それに、まるで小さい子供みたいに、言葉とか、しぐさとか教え込んだりして、、、。」

水穂「それは、必要なことだから誰かがやっていかなきゃいけないだろ。そういうことをするんだったら、杉ちゃんは抜群の人材なんじゃないの。」

蘭「だけどさあ、人前であろうが、どこであろうが、平気でそういうことするから、恥ずかしくないのかなあと。」

水穂「いやいや、そういう感情が一番ダメなんだ。やっぱり必要なことは仕込んでいかなくちゃ。それだって、一種の愛情なんじゃないかなと思うんだよね。それが欠落すると、最終的には本当にダメな人間になるぞ。それは、うちの製鉄所に来ているひとを見ればよくわかりますよ。ねえ、教授。」

懍「ええ、そうですね。それに、大昔ですが、困難に負けないようにという願いを込めて、わざと子供に汚いものを名前として付けてしまった例もあったようです。それと同じだと解釈すればいいんじゃないですか。たぶん、杉三さんも、悪気があってそう呼んでいるわけではありませんよ。」

蘭「そうですね。杉ちゃんがなぜ、偏見もなく、恥ずかしくもなく、仲良くできるかよくわからないですよ。僕は、正直に言うと、彼と話していると、嫌になってきて、しまいにはいい加減にしろと言いたくなってくる。だって、僕たちみたいに、こうして文章を組み立てることが全くできないんだ。しゃべっても単語だけですからね。それだけ言われても、こっちはじゃあ何だとしか返答はできやしませんよ。通じなければ黙ってしまうし、ちょっとでも感情的になるとどもってしまって、何にも言えなくなってしまいますしね。杉ちゃんは、その裏に何かあるのだというけれど、僕は、そういう事は、読み取れないなあ。他人である僕でさえも、こうして苛立つんだから、ご家族はもっと大変だろうなと思いますよ。」

懍「確かに大変だとは思いますが、杉三さんもご家族も、それが当たり前だと思えるようになっているのだと思います。」

水穂「まあ、それはしかたないぞ。そんな風に面倒を避けているから、そういう風にしか感じられないんじゃないか。そうなるから、僕らのところにしわ寄せがよってくるんだよ。悪いけど、上には上がいるものでね、僕らは、単語だけであっても、意思表示ができるんだったら、それでいいと思いますよ。あいにく、もっとすごい子がうちの製鉄所にいるんだよね。お母様が、少しお休みをいただきたいからって預けていった子だけど、それ以降連絡がないから、捨てていったようなもんだよ。まだ若いのに、すでに、認知症のような状態になっている。こういわれても、ピンと来ないだろうが。」

蘭「どういうことだ?若いのに認知症?よく理解できないよ。」

懍「ええ、正式には、発達障害の一つかもしれませんが、別の障害と考えたほうがいいかもわからないですね。お母様は、重い自閉症とおっしゃっていましたが、それはたぶん違っていると思いますよ。」

蘭「どういうことですか。教授。」

懍「僕が若いころは、幼児痴呆症と呼んでいたものですが、今は、小児期崩壊性障害というそうです。」

水穂「恐ろしい単語ですね。もうちょっと、いい名前を付けてあげられなかったものか。」

蘭「なんですかそれは。」

懍「ええ、二歳から五歳くらいまでは正常に発達するものですが、ある日突然という感じで、それが全部なくなっていき、最終的には、何もできなくなってしまうというものですよ。具体的に言うと、言葉が言えないとか、用便の始末ができないとか、寝たきりになってしまう事さえあるそうです。もちろん、こういう障害を持った子を預かったのは初めてで、この知識も書物を読んで得ただけの話ですけどね。」

蘭「ひどいもんですね。人間にはそういうものがあるんですか。」

水穂「あるんだよ。なんでも10万人に一人しかかからないらしいけどね。でも、本当に、とんでもない子を送り付けてくれましたよね。そんなわけですから、言葉だって全く言えないし、排せつのほうは何とかできるけれど、成功することはまれ。鉄を作らせることだって完全にできないし。とても24歳とは思えないぞ。」

蘭「それはおそろしいな。ちなみに歩けるのか?」

水穂「ま、歩けるというか、びっこを引く。」

蘭「でも、日常的なことはできるだろ?」

水穂「まあ、興味は持ってくれるけど、実行するのは難しいと思うよ。」

蘭「それだったら、まだいいじゃないか。」

水穂「蘭は、わかってないな。」

蘭「わかってないって、わからないものはわからないよ。」

懍「まあねえ、きっと、その障害を理解するのは難しいと思いますよ。本人に会ってみないと、なんとも言えないでしょう。それよりも、蘭さんが相手にしている人物よりも、ずっと難しい方もいらっしゃるということだけは、覚えておいてくださいね。」

蘭「結局こうなるのかあ。僕が、相談したかったことは、どこかへいってしまったかなあ。」水穂「まあ、気にしないのが一番だと思う。少なくとも、蘭は他人なんだから、その人に線引きをすることも可能だよ。僕みたいに、直接かかわるとなると、杉ちゃんみたいにならざるを得ないと思うけどね。それが、答えなんじゃないのか。」

蘭「わかった。じゃあ、それを肝に銘じておく。お礼として、テーブルにある、寿司でも食べてくれよ。」

水穂「へえ、寿司か。出前でもしたのか?」

蘭「いや、昨日、杉ちゃんを訪ねてきた女性が、おいていったんだ。なんでも、すし屋の板長を目指しているらしいが、ひどいいじめにあっていたらしい。それで、すごいトラブルがあったらしく、それを杉ちゃんと、例の男が、解決してくれたらしいんだ。そのお礼に持ってきたんだよ。」

水穂「へえ、珍しいこともあるもんですね。じゃあ教授、せっかくですからいただいていきましょうか。」

懍「そうですね。どっちにしろ、お昼は駅前で食べようかなどと話していましたから、ちょうどいいでしょう。」

蘭「よかったです。もらいすぎて困っていたところです。どうぞ食べていってください。」

水穂「蘭も僕も食が細いからね、杉ちゃんみたいな大食漢ではないし、すぐ残るだろ。」

蘭は、テーブルの上に置いてあった、重箱を開ける。まだ、たくさんの寿司が入っている。

水穂と、懍は、蘭からもらった、割りばしを受け取って、

水穂「いただきます。」

懍「いただきます。」

と、それぞれ手を付ける。

水穂「あれ、意外とうまいじゃないか。寿司として形もちゃんと整っているし。」

懍「そうですね。女性が握ったとしては、味もしっかりしていますね。大体、板長になるのは男性が多いのですが、彼女は、見込みがありそうな女性ですね。」

蘭「きっと、彼女がいたら、喜ぶな。」

懍「そういえば、今うちの製鉄所の調理係が、指に怪我をしていて、十分な調理ができないのですよ。急きょ、出前を頼んだりして、しのいでいるのですが。もし、その女性が嫌でなければ、うちの調理係を手伝ってもらいたいものですよ。ちょっとお手伝い感覚で、うちへ来てくれると嬉しいですね。」

水穂「そうですね。調理係さんが負傷してしまうと、僕たちの料理も大変になりますしね。ぜひ、ここまでうまい寿司が作れるのなら、こっちへきてもらいたいですね。ちなみに僕は、せいぜいかっぱ巻きくらいしか食べられないですけど。」

懍「水穂さんがそうであっても、ほかの寮生は、寿司は大好きですしね。」

蘭「よろしかったら、連絡してみましょうか?僕、昨日、彼女の連絡先を教えてもらったんですよ。話しているときも、相当思い詰めていたようだったので、運試しのつもりで、教授のところへ手伝いに行けば、自信がつくかもしれませんしね。なんだか、かなりひどくいじめられているような感じでしたから、板長の下で働いても、意味がないようにも見えましたし。」

水穂「蘭は、困っている女性にはすぐに手を出すんだな。」

懍「そういうところは、杉三さんと、共通していますよね、蘭さんは。」

蘭「そうですか。結局、こうなってしまうのか。」

蘭は、スマートフォンを取り、ダイヤルを回す。


数日後。杉三の家。

重美「板長には、許可をもらってきました。お話したら板長は、とても喜んでくれました。外部で、料理を作ってくることも料理人にとって必要なことだから、しっかりやれといってくれましたよ。本当に、お役に立てる場所を作っていただいて、ありがとうございます。」

杉三「いいってことよ。なんだか、ひどくいじめられているみたいだから、たまには逃げてもいいんじゃないかなって、蘭も言っていたし。」

重美「そうですね。まあ、蓮子さんはもういないですけど、あのような騒動を起こしてしまったばかりですので、のこのこ出勤するのは、ちょっと怖いなあというか、そんな気持ちがないわけでもなかったんです。」

杉三「まあ、疲れを取ってくるつもりでさ、ちょっと、他のところで料理の仕事をするのも悪くないと思うよ。」

重美「ええ、ありがとうございます。蘭さんが、今日はいらっしゃらないのが、残念ではありますけど。」

杉三「ああ、彫る仕事があるんだって。だから、代わりに送ってやってと頼まれたんだよ。」

重美「失礼しました。よろしくお伝えください。」

杉三「わかったよ。」

重美「ありがとうございます。」

と、インターフォンが鳴って、水穂がドアを開ける。

水穂「杉ちゃん、迎えに来たよ。重美さんってどの人?」

重美「はい、私です。佐野重美です。初めまして。よろしくお願いします。」

と、玄関先に走っていく。

水穂「初めまして、磯野水穂です。なかなかかわいい職人さんじゃないですか。お約束の通り、製鉄所へきていただけますか?」

重美「はい、よろしくお願いします。」

杉三「頼むぞ。少なくともいじめたり、邪見に扱ったりしちゃだめだぞ。」

水穂「大丈夫だよ。製鉄所ではすくなくともそうやって扱う人はいないよ。調理係のおばちゃんも喜ぶぞ。じゃあ、のってください。」

藤吉郎「頑張れ。」

重美「はい、ありがとうございます。」

藤吉郎「あ、、、。」

杉三「馬鹿吉、礼を言われて答えを出すときには何というんだっけ?」

藤吉郎「ど、、、。」

杉三「はじめの句だけはおぼえてくれたらしいな。どういたしまして、だろうが。」

藤吉郎「どういたしまして。」

重美「よくできました、馬鹿吉さん。じゃあ、行ってきます。お二方とも、本当にありがとうございます!」

と、水穂と一緒に、迎えに来たタクシーに乗り込んでいく。

杉三「頑張れよ。」

手の甲を向けてバイバイする。


製鉄所。日本旅館のような建物の前に、立派な門があって、「青柳」という表札と、平仮名で「たたらせいてつ」と書かれた貼り紙がされている。

そこの前で、タクシーは止まる。

水穂「じゃあ、降りてください。」

重美「すごい立派な建物ですね。」

水穂「まあ、教授が建てたものですからね。」

運転手に金を渡して、水穂と重美はタクシーを降りる。

水穂「どうぞ。」

と、門を開ける。入ると火がバチバチと燃えている音。

重美「焚火でもしているのでしょうか。」

水穂「ええ、鉄を作っています。」

重美「鉄?」

水穂「そうですよ。それを通して、問題のある子たちに、立ち直ってもらおうというのが、教授の狙いなんです。それも、機械を使わない、昔ながらのやり方でね。」

重美「すごいですね。私、そういう昔ながらのものってすごく好きなんです。一度現場を見てみたかったんですよ。」

水穂「まあ、女性がかかわるのは難しいと言われていますが。」

重美「あれ、映画では女の人がやっていましたけど?」

水穂「あれですか。あれのせいで、僕たちは悪人呼ばわりされることが多くなりましたけどね。変な一面ばっかり書かないでもらいたいな。ヒットしたのはいいけれど、少なからず悪影響もありますよ。とりあえず、応接室に来てください。」

と、正面玄関の戸を開ける。

水穂「来ましたよ、教授。佐野重美さんです。」

声「ああ、いらっしゃい。どうぞ、お入りください。」

水穂「どうぞ。」

二人、応接室に入る。

懍「ようこそおいでくださいました。このたびは来ていただいてありがとうございます。主宰の青柳と申します。」

と、軽く敬礼する。

重美「初めまして。佐野重美です。精一杯お手伝いさせていただきますので、よろしくお願いします。」

懍「はい、どうぞよろしくお願いいたしますね。」

重美「私のようなもので、役に立つかどうかわかりませんが、私にできることなら、なんでもしますので。」

懍「まあ、そんなに固くならなくていいですよ。ちょうど、調理係の者が、指を骨折してしまって、料理に不自由していたところだったので、来ていただいて、助かります。蘭さんに分けてもらって、貴女が握ったお寿司を頂きましたが、非常によい味がしましたよ。」

重美「あ、ありがとうございます!私、そんなに料理の才能があったのでしょうか。」

懍「なければ、ここへお手伝いを頼んだりは致しませんよ。」

重美「そ、そうですか。ありがとうございます!」

懍「では、さっそく、厨房へ行って、調理係と一緒に何か作ってもらいましょうか。もう少ししたら、夕食の時間になりますからね。」

重美「わ、わかりました!じゃあ、一生懸命やらせていただきますので、よろしくお願いします!」

懍「はい。よろしくおねがいします。水穂さん、厨房へ連れて行ってあげてください。」

水穂「はい、わかりました、教授。じゃあ、こちらにいらしてください。」

と、応接室から、廊下へ、重美を連れていく。

廊下を歩いている重美と水穂。

重美「すごい方ですね。ものすごい威厳があって、お偉い先生なんだろうなあと思いました。」

水穂「まあ、そういわれますけど、結構気さくな方でもありますよ。」

重美「じゃあ、ここに入っている男性の方は全員鉄を作っているのですか?」

水穂「大体の子はそうなりますが、そうじゃない子もいます。体や心が不自由な方も多数いますので、そういう方は、ご自身の仕事をされたりとか。まあ、僕は、見ての通りですので、大体掃除とか、雑用をしていますけどね。」

二人、中庭の、前を通りかかる。

中庭で一人の若者が、空を見上げて立っている。

重美「あの方は、何をされているのですか?」

水穂「ああ、彼ですか。先月から、お母様の頼みでこちらでお預かりしていますけれども、彼に関しては、僕たちも困っていますね。一応、立って歩くのはできますが、非常に障害の重たい方なんですよ。」

重美「どんな障害なんですか?」

水穂「聞いたことのない単語かもしれませんが、小児期崩壊性障害というものだそうです。」

重美「なんだか、かわいそうな単語ですね。」

水穂「ええ、僕たちもこういうケースは初めてで、教授が書物を買ってきて、一生懸命扱い方を勉強していますけれども、何しろ、言及している書物も少ないんですよ。だから、僕たちも勘で扱うしかなくて、困っております。」

重美「具体的には、どういうものなんですか?」

水穂「ええ、書物によりますと、三歳から十歳くらいで発症するらしいのですが、ある時突然、それまで獲得してきた技術が、全部なくなっていき、最終的には、重度の自閉症と同じような形になる、と定義されています。でも、僕たちが見る限り、自閉症よりもひどいんじゃないのかな。」

重美「全部なくなっていくというのは、どういうことでしょうか。」

水穂「はい、お母様の話によれば、言葉もなくなっていき、排せつの処理もできなくなり、おもちゃで遊ぶのも、テレビゲームも何もできなくなってしまったそうです。今、24歳なんですが、排せつの処理こそ仕込んだらしいんですけど、それ以外は全くだめで、意志表示をすることだって難しい。本当に、彼のような人は、この先どうやって生きていけばいいのかと、考えると、お先真っ暗になりますね。」

重美「そうですか、、、。学校に行かせるとか、支援施設に行かせるとか、そういうことはできなかったのでしょうか。」

水穂「まあ、行かせることはできたとしても、成功することは、こういう障害を持つ人には、難しいんじゃないかな。」

重美「せめて、名前だけは知っておかなきゃならないと思うんですが。私も、少なからず、彼に目を合わせなければならないでしょう。」

水穂「ああ、名前ですか。彼の名前は、尾崎渚君です。ほかの寮生からは、なぎと呼ばれていますけど、はたして通じていますかね。本人がそれを理解しているのかは、不詳ですね。」

重美「わかりました。私も、その障害について、ちょっと、勉強してみます。」

水穂「ああ、ありがとうございます。まあ、重美さんは、調理係りのおばさんのお手伝いさんですから、彼と密接にかかわることは少ないでしょう。そんなに深刻に考えなくてもいいですよ。」

重美「でも、短期であっても、ここの一員となるわけですから、寮生さんたちのことは、しっかり把握しておかなければ。」

水穂「熱心な方ですな。僕も、見習わなければ。じゃあ、ここが厨房です。」

二人、厨房の中へ入っていく。

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