ヨモツヘグイ

桜河 朔

第1話

 目の前の青年は真っ白な冷たい手で私の手を引いている。廃墟のような商店街の中を、わき目も触れずに進んでいる。


 私は、名前をなくしてしまった。ここに来る途中でどこかに落としてきてしまったらしい。名前以外のことは何でも覚えているのだが、名前だけが思い出せない。私の手を引いて歩く彼の言葉を信じるならば、名前を見つけられないと、私はここから帰れなくなってしまうらしい。彼岸から此岸に帰るためには名前を見つけださなければいけない。


 ここに来たのは数時間前、仕事帰りの電車の中で寝過ごしてしまい、車掌に起こされた。降ろされた駅は閑散として、時刻表どころか駅名さえも見当たらなかった。帰る電車がいつ来るかわからないまま駅で電車を待つわけにはいかず、駅員を探すが、人っ子ひとり見当たらない。駅を出たところはまるで写真でしか見たことのないような廃墟だった。誰もいない街を彷徨いながら歩き、しばらくしたころに食べ物のにおいが鼻をくすぐった。おいしそうなにおいに誘われて行くと、寂れた路地に商店が連なっていた。においを頼りに店に入ったところで彼に会った。

「ここには君のような人が食べるものはないよ。」

そう言った彼はいきなり、私の手を掴むと店から連れ出した。彼の雰囲気にどことなく懐かしい感じがした。しかし彼の手はあまりにも冷たく、嫌な予感が胸をよぎった。

 手を引かれて歩くこと数分後、彼が商店街のはずれにある喫茶店の扉を押した。いらっしゃいと店の奥から年かさのある男の声がした。彼は入り口そばの席に私を座らせると、向かいに座るなりこう切り出した。

「自分の名前、わかる。」

なんて失礼な質問かと思ったが、答えようとしたところで言いごもってしまった。答えられない私を不審に思うことなく、彼は質問を重ねる。

「ここにきて何か食べた。」

私は首を横に振る。

「それなら、ここに来る前は。」

電車の中でなら、飴玉を一つ食べたと答えた。電車の中で、鞄の中身を取り落としてしまった老紳士を助けたときに、お礼として変わった色をした飴玉をもらったのだ。口寂しかった私は、もらった飴玉を食べた。その後居眠りをしてしまったようだ。それを聞いて彼はがっかりしたような声で言った。

「それだ、君はヨモツヘグイをした。それで、その老紳士とやらに名前を盗られたんだ。」

ヨモツヘグイとは聞きなれない言葉だ。

「彼岸の食べ物を食べることだよ。それをすると彼岸の誰かに名前を盗られて、此岸には帰れなくなる。君の場合、名前を取り返さないと此岸には帰れない。」

しかも、と彼は言葉を続ける。

「名前を盗った相手が、川を渡ってしまうと名前はもう取り返せない。」

川ってまさかと思っていると、考えを読んだように、「三途の川に決まってるでしょう。」と彼が言った。

「ここは、彼岸と此岸の間の場所、賽の河原のような場所だから。どっちの岸に行くにも名前が必要なんだよ。だけどたまに、死んだときにうっかり名前をなくしてくる奴らがいて、そういうやつらが、三途の川を渡るために、他人の名前を盗ってくるんだ。」

私はあわてて持ち物を全部探してみた。免許証に社員証、名前が書いてあるものはたくさん持っているはずだ。しかし、持っていた身分証のすべては名前がわからないように、黒く塗りつぶされて見えなくなっていた。頭から血の気が引く感覚があった。もう帰れない、泣きそうな私の頭に彼の冷たい手がそっと乗せられた。また懐かしい感じがした。

「大丈夫、まだここにきて短いから、どこかにあるかもしれない。」

そうして、彼と二人で名前を探すことになり、今に至る。彼はカナエと名乗った。そして私のことはナナシと呼ぶことになった。

「権兵衛のほうがよかった。」

不満そうな私に、カナエは笑いながら言った。権兵衛よりはナナシのほうがましだ。

それから、カナエと私は、廃屋のいろんなところを巡った。初対面のはずだが不思議と彼は信用できる気がした。彼に引かれて迷路のような廃墟の中を進んでいく。どんな根拠があるのかわからないが、彼は私をいろんな建物の前に連れていくとそのたびに見覚えがないか聞いてきた。しかし、私はそのどれにも心当たりがなかった。私が首を横に振ると、彼はすぐに次の場所に向かって行った。

「当てはないよ。ただナナシの見覚えのある場所にきっとナナシの名前はある。賽の河原は来た人の記憶に合わせてその姿を変える。だから、今見てきた建物は全部ナナシの記憶の中にあるものなんだ。思い出せないだけで、人は一度見たものは忘れないものだから。そして、ナナシの見覚えがある場所にはナナシの強い思いが詰まっているはずなんだ。だからきっとその場所に名前がある。」


 しばらくして廃墟を抜けて開けた場所に出た。そこには平屋が建っていた。ぼろぼろで、壁は朽ち果ててところどころ穴が開いている。平屋の前は広い砂地で段違いの鉄棒が並んでいた。私はこの平屋に見覚えがあるような気がした。それを聞いて彼は大きくうなずくとその中に入っていった。

 平屋はどうやら小学校のようだった。小さな机と椅子が部屋の中にいくつも残っている。黒板には授業科目が拙い漢字で書かれていた。私はそのすべてに見覚えがあった。誰もいない廃校のはずなのにどこからともなく子供たちの声が聞こえてきそうだった。不意に私はどうしても行きたいところが思い浮かんだ。行くべき場所が頭の中に浮かんだ。私はカナエを呼び止めた。着いてきてほしい場所があると伝えると。彼は微笑み何も言わず私についてきてくれた。迷うことなく目的の教室に着いた。平屋の小学校の一番端、六年生の教室だ。教室に足を踏み入れると廃校の景色は一変した。穴だらけの床はきれいな板張りに変わり、真新しい机が整然と並んでいる。青空は夕暮れのオレンジへと姿を変え、西日が教室染め上げていた。間違いない、ここは私の通っていた小学校だ。教室の後ろには沢山の絵が飾られていた。題名は『わたしの夢』だ。

堰を切ったように当時のことが思い出される。卒業間近の小学六年生の私は希望にあふれ、輝かしい将来をその画用紙に書いたのだ。一つ一つ絵を見ていく。どれも暖色の明るい絵ばかりだった。誰もが自分の夢に憧れ、叶うことを信じて疑ってはいなかった。いつからだろうか、夢を見ることをやめ、足元の現実だけに目を向けるようになったのは。やりたいことや、やってみたいことは、やらなければならないことに殺されて消えていく。そうして、いつの間にか私たちは、夢を見ることをあきらめてしまっていた。

一つの絵の前で足が止まった。沢山の洋服に囲まれて自慢げな顔をした女の子の絵。私の絵だ。不意に涙がこぼれた。このころはただ洋服が好きで、洋服を作る仕事に就きたいと夢見ていたのだ。洋裁関連の仕事に就いたものの、周りの才能に劣等感を覚え、打ちひしがれていた帰りの電車で私はここに来たのだ。画用紙には下手な字で自分の名前が書いてあった。やっと自分の名前を取り戻したのだ、夢に憧れ、希望を持っていたあの日の気持ちと一緒に。

「よかった、……ちゃんと見つかったでしょう。」

涙する私の後ろでカナエは優しくそういってまた私の頭を撫でた。私は同時に自分の横にある絵に気づいた。ロボットと車に囲まれた男の子の絵。描いた子の名前は黒く塗りつぶされいた。私はハッと後ろを振り返った。彼が歯を見せて笑っている。その笑顔にも私は見覚えがあった。

「これで帰れるよ。もう来たら駄目だからね。……ちゃん。」

急に足元がおぼつかなくなった。笑いながら手を振る彼の姿が遠ざかってく。


 「おねえちゃん、終点だよ。」

肩をたたかれて気が付いた。電車の中でいつの間にか寝てしまったようだ。隣の席の少年が母親と一緒に起こしてくれたようだ。降りる人に流されるようにホームに出た。夢を見ていたようだ。不思議な夢だった。冷たい風に肩をすくめ、ポケットに手を入れると何かが手に触った。それは見覚えのある変わった色の飴玉だった。あの夢は私を叱責しようとしたのか。希望をなくし夢をあきらめようとした私を。カナエの冷たい手の感覚がまだ、頭に残っているような気がした。彼は仲良しだった男の子だったのだろうか。ヨモツヘグイ。私は飴玉を口に放り込んだ。

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