白い息の向こう側【短編】

河野 る宇

◆白い息の向こう側

 ──雪。午後から大雪になるからと会社は早々に社員に退社を命じた。

 ある種のホワイト企業に認定されそうな話であるが、だったらそもそも出社する前に連絡できなかったのかと小一時間ほど説教したい。

 現にチャットアプリには会社専用のチャンネルが儲けられている。

 いや、連絡はあったのだ。私と数人以外には。

 私と数名は連絡が漏れていたらしく、それを知らずに人が少ないなと思いつつ仕事をしていた。

 私を含め出社してしまった数人の社員がようやく知ったのが昼間近という間抜けっぷりにうなだれて、もはや再起不能だ。

 まるで、亡者のように退社して帰路に就く。



 雪のため電車はかなり遅延していた。昼過ぎに会社を出たはずなのに、空は重くのしかかる雪雲のせいもあってすでに暗い。

 マンションまでもう少し──という所でおかしな場面に出くわした。

 カエルのような体型の男が小さな男の子に詰め寄っている。

「ねえ、いいだろ? ちょっとだけ。ね?」

「ちょっとだけって何をだよ。嫌に決まってるだろ」

 出っ張ったお腹が少年の顔に当たりそうなくらいに接近している。どう見積もってもダメな状況だ。

「ちょっとあんた。警察呼ばれたいの?」

「うえっ!?」

 威嚇のために腕を組んで仁王立ちしたはいいけど、相手のデブはしどろもどろになりながらもきっちりひ弱な女だと認識してるっぽいわ。

 これはまずいかしら。そう考えていたが、少年が素早く男から離れて私の後ろに隠れた。

「う、うるさい。その子を渡せ」

 悪役よろしくなセリフ吐いてんじゃないわよこのデブ。仕方が無いとスマートフォンを取り出す。

「私のスマホはとても優秀なの。緊急ってところをタップすると自動的に警察が駆けつけるというシステムなのよ」

「本当か? 見せてみろ」

 デブは意外と頭がよかった。これはまずい。

「お姉さん、こないだ空手の選手権で二位だった人だよね。僕、おぼえてるよ」

「え、ええ。まあ」

 突然、何を言い出すんだこの子。私は高校時代はテニス部だぞ。従ってテニスしか出来ない。デブをラケットでぶちかましたい。

 しかし、その言葉でデブはたじろいだ。ナイス少年。

 私はすがりつく少年を見下ろし、何もかもが小さい。可愛いなと思った。

「僕に話しかけるなデブ」

 態度はでかいけど。

「く、くそ!」

 そう言って暗い住宅街に消える。

 残念なことに「覚えてろよ」はなかった。そこまでの悪役ではなかったか。

「お姉さん、ありがとう」

 改めて少年の顔を見ると、こいつは狙われるレベルの美少年ではないか。

「い、いいのよ。おうちはどこ? 送るよ」

「帰っても誰もいないもん」

 あら、それは寂しい。

「でもこんな暗い所にいちゃ危ないから」

「だったらお姉さんちに行きたい」

 何を言うんだこの少年。よもや私が狼にならないとでも思っているのか。いや、ならないけど。

 この上目遣い──確信犯だな。

 自分は可愛いと思われているという態度が透けてしまえば、それはもう相手に通用しない。

「だーめ。送るからおうち教えて」

「そうやって僕んちを知ろうとしてるの?」

 お、そうきたか。

「それって、私の家を知るために言ってる?」

「……言い返された」

 お? しょげてる。愁いを帯びた表情がまた美少年にぴったりだわ。

「お姉さん。名前、なんていうの?」

「私? 伊東 道代よ」

「ふーん。僕は佐久間 凉っていうの。涼しいっていう漢字」

 あら、普通の名前。私はよく昔の名前みたいとは言われるけど、そんなこと知ったこっちゃないわよ。私の名前に文句つけんな。

 文句とは限らないけど。ただの感想だと思っておく。

「まあいいや。じゃあ送ってくれる?」

 お? 素直に諦めた。他人ひとんちに行きたいなんてそれ口説き文句ですからね。そういやこの子、お姉ちゃんじゃなくお姉さんで呼んでるわね。

 ちょっとませてるんじゃないの。

「君、いくつ?」

 沈黙しっぱなしというのもなんだから、歩きながら質問した。

「十歳。お姉さんは?」

「私はいいのよ」

「何がいいのかわかんないんだけど」

 少年はそう言った私の手を握る。ちょっとびっくりした。

「年齢を隠す意味って、自分が老けてみられるのが嫌とかなの?」

「ふ、老けてなんかないわよ」

「だったら堂々と言えばいいじゃん」

「うるさいわね。殴り飛ばすわよ」

 不審者から助けておいて殴り飛ばすとか自分でもやばいと思った。実際に殴り飛ばすわけはないけど。

「何が嫌なのかわかんない」

 そう言われると確かにそうかもしれない。なんとなく嫌がる事が当たり前のようなご時世だけど、本当に嫌がる意味はない気がした。

 私はなんで嫌がってるの? そういう風潮だから?

「なんか、馬鹿馬鹿しいわね。私は二十二歳よ」

「そうなんだ。僕と十二歳違うんだね」

 どういう意味なのか、私は計りかねた。

「ていうか、こっちでいいの?」

 私のマンションのほうじゃない。数メートルもしたら私が借りてるマンションに到着するわ。

 ここら辺りは以前にも小学生に声を掛けた不審者がいて、予防のために街頭が増えたんだっけ。おかげで明るい。

「うん。ここでいいよ。ありがとう」

 手を離してマンションの向かいにある家に駆けていく。

「えっ? そこなの?」

 マンションの向かいは一軒家でそこそこ立派な家だ。誰が住んでいるのか知らなかったけど、この子の家だったのね。

「ねえ」

「何よ」

「今度、デートしてね!」

「は?」

 なに言ってんの、このませガキ。

「十二個なんてちょっとじゃん!」

 絶対だからね! 子どもらしい笑顔で手を振って家に入っていく。

 残された私はたまったものじゃない。

「うそでしょ」

 顔が赤くなっていくのが自分でもわかった。




   終

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