第一章 日ノ本の国

常世の森の中で――1

 心地よいまどろみの中に、アレクはいた。


 程よい湿り気と、清らかな空気。


 聴こえるのは木々のざわめきと、幽かに響く小川のせせらぎ。


 澱みきった気配も、おぞましい悲鳴もない。


 瞼を開けたくない。心からそう思った。このままこの安らぎにひたって、寝息を立てていたい。それが自分にとって一番幸せな事に感じた。


 そう、自分の体の事も、勇者の事も、魔皇まおうやヴァン・ノンの事も何もかも忘れて。


 ――魔皇?


 「まおうっ!!」


 その単語がちらっと脳に浮かんだだけでアレクの意識は覚醒した。


 自分は何をしているのか。今の今まで仲間たちと共に、あの忌まわしい魔皇とヴァン・ノンと対決していた筈だ。それで、自分が敵の防壁を破って。切り込んでいって、それからどうなったのだったか。


 そう、確か視界が真っ白になって。何も分からなくなって、それから、それから?


 思い出せなかった。戦っていたのは確かだ。奴らを追い詰めたのも確かだ。だがそこから先が全く思い出せない。そう、間違いなく自分はこの聖剣で――。


 「あれ?」


 掌に、柄の感触が無かった。アレクは目を開けた。辺りを見回すと、すっかり光を失って転がる聖剣があった。どうやら力を使い果たしたらしい。


 立ち上がる。足取りは軽い。聖剣を拾い上げると、途端にアレクは安心した。ほっと息を吐く。自分でも職業病気味だと思わなくもないが、どうもこれが手許にないと落ち着かない。いそいそと鞘に納めて、そこで気が付いた。


 「…ここ、どこ?」


 物凄く今更だった。


 アレクがいるのは、鬱蒼とした森の中だ。


 かなり濃密に木々が生い茂っているが、木漏れ日はちゃんと届いており辺りはとても明るい。


 生えている樹や草は、見たことのない物ばかりだ。どれも広く厚い葉をしており、色も鮮やかだ。アレクにとって見慣れた針葉樹が一本も無い。


 魔皇宮の中でも、あの魔皇の塔があった肉塊だらけの不気味空間でもない。


 そういえば最後、往生際悪くあのヴァン・ノンは魔皇とどこぞに転移して逃げようとしていたのではなかったか。では自分もそれに巻き込まれたか。と、いうことはこの近くに魔皇が潜んでいるのだろうか。


 再び辺りを見回す。仲間たちの姿はない。どうやら飛ばされてきたのは自分一人らしい。


 もし魔皇やヴァン・ノンに出くわしたら、アレクのみで相手をしなければならないのだ。


 アレクは、しまったばかりの聖剣を抜いた。先の戦いで消耗してはいるが、いつでも戦える態勢を取っていなければならなかった。敵がどこにいるか分からない以上、どんなにのどかに見えても此処は敵地に他ならないのだ。


 決して油断してはならない。今、この瞬間にもその茂みから敵が仕掛けてくる可能性も――。


 「うおおっ!よせっ、よしやがれこの化け物っ!」


 早速だった。


 助けを求める男の声。はっきりと『化け物』と口にしていた。間違いなく魔族がいるのだ。アレクは飛び上がった。体力は完全に回復していた。声が聞こえてきたのは、すぐそこの茂みの向こう側だ。


 「そこまでだっ!」


 茂みを乗り越えて着地した、アレクの目の前に現れたのは。


 「お、おうっ!何だぁっ!?」


 緑色の、見たこともない生き物だった。


 一見してカエルのように見える、ぬめぬめした緑色の肌。だが奇妙なことに背中には亀のような甲羅を背負い、口には鳥のような嘴がついている。黒い髪はざんばら伸び放題だが、頭頂部だけは真っ白でつるつるしている。


 そんな生き物が、二本足で立って、突然現れたアレクをぽかんと見ていた。


 「――くるるるるぅ?」


 へんなこえ、だした。


 アレクは混乱していた。


 なんだ、これ。こんな生き物見た事ない。魔族じゃない。どう見たって魔族じゃない。魔族ってもっとこう、凶悪そうで全身甲殻とかに覆われてて、殺気の塊みたいな奴らの筈だ。こんな間抜けな表情で自分を見つめる事などない。有り得ない。


 それじゃ亜人か。エルフとかドワーフとかホビットとか、そういう連中か。長い旅路で確かにそういった連中ともアレクら一行は親交を深めたが。いやでも、こんな種族がいるなんて聞いたことも無い。そもそもこれは、何なのか、カエル?亀?鳥?


 「な、んだテメェ?鬼か?」


 「お…に?」


 知らない単語出てきた。というか、こいつ何だ、喋れるのか。


 そこでアレクは気が付いた。正体不明の生き物の手には、また妙な物が握られていた。


 「何でも構わねぇ!助けてくれぃ!こいつ、俺を食おうとしてやがるんだ!」


 緑色で、凸凹で、細長くって。生き物が持っているのは誰がどう見ても――きゅうりだった。


 きゅうりに、木の棒が四本刺さっている。動物の脚みたいに見える。どういうまじないなのだろう。そしてその四つ足きゅうりは、生き物の掌の中で


 「何をぼーっと見ていやがる!さっさと助けやがれ金髪の鬼っ子!!」


 喋って、いる。


 助けを求めていたのは、この、きゅうり?


 「…なにこれ」


 「凍りついてねぇでさっさと助けやがれこの馬鹿野郎っ!」


 こうしてアレクの新しい冒険は、これでもかと言うほど訳の分からぬ状況の中始まってしまったのである。

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勇者ときゅうりの大冒険 えあじぇす @eajesu

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