第3話【没】犬は吠えるがキャラバンは進む

犬吠埼哮太(いぬぼうざき・こうた) ……犬

茅ヶ崎ばじる(ちがさき・-) ……少女

佐伯経子(さえき・つねこ) ……狐

百目鬼耳目(どうめき・じもく) ……狸

猪頭美琶(いのがしら・みわ) ……教師



 犬吠埼哮太は不本意ながらクラスで一目置かれている存在。高校入学当初、クラスの中でも分厚い手袋を常用しドアを手で開けることをしない一風変わった【潔癖症】もとい不審人物の茅ヶ崎ばじるが、極の付く甘党である事をひょんなことから暴いたことがあるからだ。変人や不思議ちゃんとして敬遠されていた彼女をクラスの輪に引き込んだ事から担任の美術教師・猪頭美琶にも感謝され、ばじるの姉代わりで毎日一緒に登校している一学年上の泣きボクロがトレードマークな佐伯経子にも会う度良い子良い子される。しかし鬱陶しいのは隣の隣の隣のクラスの百目鬼耳目だった。病的な噂好きである彼女は哮太の頭脳から噂を遡及する事をたまに頼みに来る。情報と共に学食の食券を渡されると、拒否権はない。

 事件があったのはとある朝、いつものように早めに教室に着いた哮太は、いつもその前には登校しているはずの茅ヶ崎の存在がない事に気付く。続いて時間が経つ毎に廊下が騒がしくなるのに気付き、顔を出すと百目鬼が突貫するようにやって来て、事件だと言う。一階、一年生の教室が居並ぶ廊下の真ん中辺りに掛けられていた絵が、顔面部分を切り裂かれていたらしい。それは猪頭が生徒時代に描いた自画像で、県だかの美術展で良い所まで行ったものだったらしかった。遅れて登校して来た茅ヶ崎にも百目鬼はハイテンションで告げるが、その反応は淡泊なものだった。そんな事より寝坊して、まだ眠い方が大ごとであるらしい。

 猪頭は仕方ないとどこか諦めた様子で、みんなは校内展示にイタズラをしないように、と注意に留まるだけだった。案の定休み時間に訪ねてくる百目鬼は、あれこれと集めた情報を哮太に開示して行く。どうやら犯人を探り当てさせたいらしいが、そんな事は無理だと拒否する哮太。疑われてるのが茅ヶ崎だとしても? と訊き返され、思わず黙る。四月からの付き合いで茅ヶ崎はそう言った黒い事をする性質でないとは直感的に解っているつもりだが、確かに今朝遅れて来た事はいつもと違うし、眠いと言うのも睡眠時間が足りないからなのかもしれない。早朝の学校で犯行をする為に。何より彼女は証拠が残らないような、手袋をしているのが常だ。しかし違うと否定したい為に、仕方なく哮太は百目鬼の情報を聞く。顔面が集中的に切り裂かれていた事、激しさにか剥がれた絵の具が床に大量に落ちていた事。きょとりとする哮太に、百目鬼は告げる。油絵だからね、絵の具は禿げるのさ。

 放課後の美術室に向かうと、部長の佐伯は少し残念そうにしていた。百目鬼が訊いてみると、あの絵は個展で準入選まで行ったものだったらしい。あまりよく知らないがどう言う絵だ、と哮太が訊ねると、在学時代の猪頭の自画像だったと百目鬼が答える。と、猪頭が入って来て、あの絵の事は忘れて課題に集中、と言う雰囲気を部室に作る。どこか冷ややかな物を湛えた視線で一瞬それを見る佐伯に、二人は美術室を出される。

 顔って言うのが怨恨っぽいね、と言う百目鬼に、哮太はおかしくないかと告げる。校内に飾られてまでいた渾身の出来だったろう自画像の顔をずたずたにされていながら、猪頭はどこか絵の事をさっさと遠ざけてしまおうとしている節がある。次に向かったのは茅ヶ崎が在籍している茶道部の部室、十年近く勤続している教頭と羊羹を食っていた茅ヶ崎達のご相伴に預かりながら、三人は絵の事を教頭から聞かされる。当時は大変な年で、美術部にも在籍していた生徒が事故に遭ってそのまま退学してしまったりしたことがあったらしい。にも、とはどういう意味かと尋ねれば、その生徒は多才で、様々な部活を兼ねていたらしい。夜遅くまで美術室に残っては、当時部長だった猪頭とも親友だったと言う。

 茶道部を辞する前に、哮太は茅ヶ崎に今日の登校時間が遅かった理由を聞いた。佐伯が迎えに来ないのを忘れていたと茅ヶ崎は答える。そうか、と二人は茶道部を辞する。次に向かったのは図書館だった。

 該当の年度の卒業アルバムを探り当てると、白黒ながら大きく件の絵が取り扱われていた。神社のような場所で腰掛けている姿のそれに、百目鬼が佐伯の実家が神社だと告げる。工事中のビルが遠くに見える様子に、今度はPCルームに向かってその建物がいつ建てられたのかを調べると、その年の春だった。美術展の季節は秋だったと言う。奇妙な食い違いに、百目鬼が頭を抱える横で、哮太は状況の整理を終える。

 翌日の美術室、部活が終わった後で顧問室に保管されていると言う件の絵を見たいと猪頭に要望を出したのは、哮太と百目鬼、そして佐伯と茅ヶ崎だった。あからさまに動揺する猪頭は、しかし顔がズタズタになったそれを四人に見せる。百目鬼が取り出したのはメンディングテープ、後ろから修復して行く彼女に動揺する猪頭に、哮太は春の出来事を思い出した。茅ヶ崎が休み時間になるたび熱心に見ているファイルは何なのか、クラスの人間は謎に思っていながらも、少し隠されるようにされているそれを見られる者はいなかった。哮太はそれを、面と向かって訊いただけだった。何読んでるんだ。茅ヶ崎はきょとんとした後で恥ずかしそうに、チェックを何度もされてよれよれになった近所中の菓子屋のチラシをファイリングしたそれを見せた。コロンブスの卵だ、壊せば立つ。壊されたものなら直せば理由が知れる。百目鬼が直した絵に描かれているのは、猪頭ではない少女だった。そして当時美術部にも在籍していた多才な少女の名を、哮太は告げる。佐伯義子。それは佐伯経子の姉だった。

 肩を竦めて仕方なさそうに笑った佐伯は、じゃあもう解ってるんだね、と哮太に確認をする。多分と返す彼に自信を持ちなさいと言う佐伯。哮太は事件のあらましの想像を語る。恐らく最初に絵に細工をしたのは佐伯だった。茅ヶ崎を迎えに行かず、殆ど一番乗りの学校で、絵の顔の部分から絵の具を剥ぎ取っていたのだ。油絵は削れば剥がれる。その下にある本当の顔を晒す事が、佐伯の目的だった。だが生徒よりも先にそれに気付いたのは猪頭だった。彼女は顔が違う事がばれないように、その顔をずたずたに切り裂いた。一人目の犯行を隠すための、しかし悪意ある二人目、それが猪頭だったのだと。

 佐伯は姉の自画像用の写真を撮ったのが自分だったことを明かした。鏡を見てするのでは顔の左右非対称さが出てしまうからと。そして時が経ち、進学して驚いた。姉が事故に遭った年の県展で準入選になったのが、その顔だけを書き換えた物だった事に。猪頭は頭を抱え込んで佐伯の姉を呪う言葉を吐いた。何でも出来る癖にあちこちに出向いて、私の美術部まで荒らして。どうせ退学してしまったのなら奪ってやろうと思った。ゴタゴタの中でなくなったと嘘を吐いて、県展に出したらいい結果だった。それは嬉しいような虚しいような心地だったと。佐伯は、姉が家を継ぐために必ず養子を取らなければならない立場だったことをさらりと悲観的でもなく告げる。何でも出来たのは、この学校が最後だったのだと。教室の外で話を全て聞いていた教頭に場を任せ、四人は退出する。

 厄落とし代わりに向かったカラオケで、茅ヶ崎は丁寧に手袋を食事用に付け替え、すさまじい勢いでフードメニューの甘味を平らげて行く。佐伯の姉は現在はリハビリが順調に進んでおり、家業を手伝いながら見合いを繰り返しているらしい。気にしていたのは自分だけなのよね、と肩を竦める彼女に、百目鬼が自分に相談してくれればもっと演出過剰におどろおどろしく、顔の変わる絵画にしたのに、などと嘯く。確かに少しずつゆっくりすれば良かったのかも、と納得し掛ける佐伯に、思わず窘める言葉を掛ける哮太。硬い紙ナプキンではなく柔らかいローションティッシュで茅ヶ崎の手を拭いてやると、その手は白魚めいて美しい。カラオケの映像に挟まれるCMに、これ私の手だよ、と言う彼女はパーツタレントだ。大切に隠されている手の意味はそれ。猪頭はどうして顔を塗り重ねたのだろう、と哮太は一人考える。削り取ってしまわなかったのは、やはりどこか羨望があったのかもしれない。そして裏返した嫉妬が。何となく茅ヶ崎の手を引っ掻いて蚯蚓腫れを作ってやりたいような衝動を堪えて溜息を吐くと、百目鬼にニヨニヨと笑って見られているのに気付く。佐伯は超然とした様子で、デンモクに視線を落としていた。茅ヶ崎は自分が疑われていた事も知らずに、まだまだ甘味を貪る。哮太は自棄になって、子供の頃に見ていたアニメのヒーローソングを、渾身の力を込めて熱唱した。それも何かの裏返しかもしれなかった。コロンブスの卵。簡単に持ち上げられてはやらない、中身はまだ零してやらない。

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