第61話
広大に広がる深緑の景色の先、その一部分に映し出された、まるで抉り取られたように孤立したまっさらな大地。
その後方に、黒い紋様が常に絶えず蠢く異常なまでに巨大なドーム状の球体空間『バレン・スフィア』がはっきりとその姿を現した。
「このまま飛び込むのか!?」
「いいや、さすがにそれはやばい。一旦降りるぞ」
いくら目的の地点がはっきりと見えているとはいえ、わざわざ目立つような形で死角の見えない球体に正面から突入するのは、既に弓を向けられたような状態で丸裸で突っ込むようなもの。
それを避けるためにも、エルフィはそのまま真っ直ぐ飛ぶ事はせず、一旦目下の深緑の大地へと降りることにした。
「……降りる?」
駆逐の対象がその眼にようやく飛び込んだことと、頂上を飛び出した高揚感から頭の中から抜けていたが、一旦降りると聞いて冷静さが少しだけ戻ってきた大我は、視線をその上空から見下ろすように動かす。
その視界に飛び込んできたのは、ゴツゴツした岩肌や切り立った岩肌。その先に広がる樹海の如き森林地帯。
だがそれ自体は問題ではない。何より高山の頂点から飛び立ったことによるその当然の高度。
我に返ればその高度は、首都圏の電波塔や高層ビルのような人間が創り出した建造物など比べ物にならない。自殺行為にも近いスカイダイビング。
勢いのまま飛び立った後に待っていたのは、超高度からの自由落下だった。
「エルフィおい! これ本当に降りれんのか!?」
「大丈夫だよ! ちゃんと森の中に無傷で降りるよ! 多分!!」
「多分!!??」
命綱もパラシュートもない、魔法のみの生身投身。配慮に配慮を重ねたアトラクションのような安全設計物すらも体験したことのない大我の初の高所からの飛び降り。一気にビビりだすのも無理はない。
徐々にその速度は抑えられてはいるが、それでも耳元に風の轟音が聞こえる速さでの落下。
大我はどうにか心を落ち着けようとしながら体勢をあたふたとしつつ整え、不安定ながらもどんどん近づいてくる木々生い茂る森へのダイブの覚悟を決めた。
徐々に地面との距離が縮まっていく。エルフィの言う通り、もう間もなく葉の生えた枝の絡み合う緑色の面へと近づいていく頃にはきっちりとその落下速度も落ちていき、重要な局面を前にした大怪我の危険性もほぼ消え失せていた。
無数の枝葉を掻き分け、葉と葉がぶつかりあう音を鳴らし、その青々とした壁を抜けると、ようやくその先の地面が見えてきた。
大我は一歩間違えればころっと死んでしまう命の危険に溢れた状況からひとまず抜け出せたことにほっとした。
「あーー……怖かった……」
「お疲れさん。またいつか飛ぶか?」
「いや……いい。さすがにしばらくはあんなの味わいたくねえ」
まるで数時間程地に足が付いていなかったかのような感覚。ようやく足元の体感が戻ってくると、得も言われぬ安心感と、人間は地表の生き物なんだなあという唐突な達観のような悟りのような不思議な思考が駆け巡った。
「ん、なんだあれ」
安堵の直後も気を抜かず、大我は一度周囲をぐるっと見渡して敵の気配を探る。
その時、50mと離れていない位置にハリネズミのような背中を持った、巨大な羽虫にも見えるアンバランスな造形の、二本足で立つ生物の姿を確認した。
その生物はなぜか岩肌の方を向いており、まともな行動ができていないのかそれとも何かを襲っている最中なのか。大我は微妙な胸騒ぎと共に気になっていた。
「エルフィ、行ってみるか」
「後から襲われても困るしな」
この先の安全面を考えても、可能な限り目に見える範囲の不安要素は除去しておきたい。
既存の生物の常識が通じない相手な以上、鷹のような眼やチーターのような脚力を持っていてもおかしくはない。
大我とエルフィは、先手必勝にとその生物にダッシュで近づき、その最中にエルフィは一撃で仕留める為の魔法の発動準備を整えた。
「いくぞっ!」
その自分自身の一声を合図に、大我はウォーミングアップとばかりに一気にかっ飛ばすように走り出した。
一瞬で詰められていくそのキメラとの距離。その速さを物ともせず、エルフィは正確にその怪物の背中を捉え、銃弾の如き弾速で氷の矢を放った。
背後を一切警戒していないキメラのがら空きな背中。その一撃は正面まで貫かれ、たった一発で見事に絶命、大我が追加の一撃を加える事もなく崩れ落ちた。
「おっと、これは……」
「やっぱこいつ、襲ってたんだな」
倒れた死体が針山となり、進行方向にそびえ立つ。大我はそれにぶつからないようにと一気に脚力でブレーキをかけ、地面を削りながら屍の前で停止した。
そして、何かあったのだろうかと気になりながら大我は死体の向こうへと目を向けると、そこには二体の怯えたゴブリンの姿が見受けられた。
体格は人間の15歳程。体型や雰囲気からしておそらくは男女二人。
丸腰のようにも見えたが、すぐ側には真っ二つにへし折られた棍棒が虚しく横たわっていることから、それまでに何が起こっていたのかはある程度予想はつく。
腰の抜けたゴブリンは、オスらしき一体は緊張を解かないまま大我を睨みつけ、メスらしきもう一体はしがみついて震えていた。
「どうする大我? ゴブリン二体」
「どうするったって、見逃す以外ないだろ。けどまあ、放っておくわけにもいかないしな……」
大我は以前、この世界でのゴブリンはどういう存在だったかという簡単な情報はアリシアから聞いていた。
時折迷惑をかけることもあるが、完全な有害というわけではない辺境の種族。
大我が本来生きていた時代では、一つの種族だったり害獣だったりと様々な面をその創作の世界観ごとに持っているために、ひとによってその印象には大きな違いが現れる。
この世界では、際立てて有害というわけではない。ならばただのモンスターのように扱う理由は無かった。
大我はそのままバレン・スフィアに向かおうとも考えたが、今この場所はまさしくその危険地帯が視界に映る。そんな所に放っておくことも危ないだろうと、二体を連れて一旦移動しようという考えも浮かんていた。
「お前ならそういうと思ったよ」
大我の結論も待たず、エルフィはほっとした雰囲気の笑顔を見せながら二体のゴブリンの後方、壁のようにそびえ立つ岩肌へと飛んでいく。
そして、そっと両手をかざし光を集めて数秒、抉るような破損音と共に岩の一部分が砕け、地面に棄てられた棍棒と同じ形の石棒を新たに二本創造した。
「ほら、受け取りな」
ふよふよとその棒を浮かせて二体の目の前まで飛び、優しい台詞と一緒にその新たな武器を授けた。
それまで警戒心を尖らせていた一体も、怯えきっていた一体も、そのまるで神からの恵みが降りてきたような光景を目の当たりにし、一気に疑心を解きほぐした。
おそるおそるその二本の石棒を手に取り、もう一方をそっとしがみつく手を離したゴブリンに手渡した。
二体は今この瞬間の救いの状況に見合い、ゆっくりと立ち上がって石棒を握り締め、視線をエルフィと大我からしばらく反らさないままその場を離れていった。
去っていくゴブリンを、その背中が見えなくなるまで見送る二人。落ち着いたところで、二人は互いを見つめる。
「これで後腐れなくいけるな」
「だな。ったく、お前らしいや」
「むず痒いこというなよ」
「いいだろ。いいことしたんだからそれくらい誇れ」
ちょっとした人助けならぬ亜人種助け。本題を前に横道を逸れはしたが、少しだけ爽やかな気持ちを胸にすることができた二人。
緊張感はすっかりと解きほぐされ、密かに抱いていた不安も心の片隅へと追いやられた。
そして二人は、明るい会話を交わしながら今度こそ、バレン・スフィアを目指して歩き出した。
* * *
山頂から飛び立ち、エルフィの魔法によって地面に降り立ち、予想外のハプニングに遭遇しながらもそれを解決した二人。
運がいいのか不思議と敵に出会うこともなく、しばらく森の中を縫うように、二人は互いの意見を共有しながら歩き続ける。
「降りた後でも意外とかかるなこれ」
「安全かつそれ程離れないようにとは思ったんだけどなー」
「そういや、エルフィはバレン・スフィアについてどう思ってるんだ?」
「どうって、取り除くべき害悪?」
「ああまあ、それもそうだけど、なんつーかな……正体とかどう思ってる?」
「正体かぁ……全く検討もつかねえ。不自然すぎる点は色々あるにしてもさぁ」
どのような存在であろうとも、倒すべき障害であることは変わりない。
だがそれについて知ろうと、考えようとすればするほど、この世界にとって不自然であることが増えていく。
所謂黒魔術師や死霊魔術師のような、この世界の住人として穢れを操る者は確かに存在している。
しかしバレン・スフィアは、それらの枠を大幅に越えており、生ける災害も同然。
何より、アリア達しかその詳細を知らないはずのB.O.A.H.E.S.を狙い撃ちにしたかのような発生地点に、目視以外では一切視認できない奇妙なステルス性。
まるでこの世界の住人や場所ではなく、アリア自身を標的に据えているようにも思える。
アリアには、対になるような、対立構造を生み出すような存在を製作した記録は一切ない。
その事実も重なり、尚の事バレン・スフィアという存在があまりにも不自然に感じていた。
「話を聞く限りだと、中に誰かはいるっぽいし、可能なら直接聞き出してみるか?」
「そんな余裕あるかどうか」
「大丈夫……だと思いたいな」
大我も勝てないと思いながらここまで来たわけではない。エルフィの力と、未だ付け焼き刃ではあるが強く引き出された己の身体能力。
そして、肉の身体を持つ人間であるという大我にとっては当たり前のことが、今は穢れが意味を成さない身体というアドバンテージとして大きく活きている。
エヴァン達が為す術もなかったのは、本人の実力が関係のない程にあまりにも相性が悪すぎることが最大の要因。それを超えられれば、まだ勝負には持ち込めるかもしれない。
その裏付けを胸に、大我は一歩一歩歩みを進めた。
「……間近にすると本当にでかいな」
「ああ。データにある映像よりも大きくなってる」
幾多の植物生い茂る、虫の鳴き声響く道中を進んだ先、二人は雑草一つすら生えていない、断絶されたような土砂の大地へと足を踏み入れた。
その先には、二人が目指していたバレン・スフィア。空から見下ろした時よりも、正面からその姿を目の当たりにすると、巨大かつ強大な邪悪さ禍々しさを肌にぴりぴりと感じる。まるで全てを食い散らかしたように、周囲から孤立したように枯れ地にそびえる禍々しい漆黒の球体。
遠くからでも見える程に、その球体の表面は、砂嵐のごとく絶えず荒れては蠢いている。バレン・スフィアという空間の濃度は尋常ではなく、その向こう側の大地の様子は一切見渡せない。内部の様子は一切の確認も不可能。
「まだこの地点からじゃ何も仕掛けられないな」
「もう少し進んでみるか」
何者かがいるということは頭にはあっても、その規模の大きさから未だに現象という認識がどうしても抜けきらない。
先制を行うにしても、この場所から遠すぎる。大我とエルフィはおそらくはまだ何もされないだろうと、周囲への警戒心を高めつつ、もう少しだけ前進することにした。
「……妙だな。この辺り、こんな環境だったか?」
ふとエルフィの中に、一つの疑問が浮かび上がる。
アリアから授けられた過去の一帯のデータと、今目の前に広がっている光景のデータが噛み合わなかったのだ。
バレン・スフィアへの認識障害が起きていたとしても、その周囲の状況まで大きな影響を及ぼすとは考えられない。それを表すように、ここまでの荒れ模様が存在した事実は無かった。
「うわっ! げほっげほっ、風つええ」
遮る物の無いまっ更な大地に突風が吹きすさぶ。風を巻き上げ、散弾のように砂埃が大我とエルフィに襲いかかる。
突然の自然現象の襲来に、大我は余計なダメージを負わないようにと、両腕を眼前に構えて眼や口をガードした。
エルフィも同様に守りを固めるが、その狭まった視界の先、バレン・スフィアの僅かな動きを見逃さなかった。
「大我! 気をつけろ! 何か起きる!!」
「なんだって!?」
巻き上がる風音が、エルフィの警告の邪魔をする。何かを訴えていることはその強い語気から理解はできるが、はっきりとした内容まではわからない。
だが、エルフィがそこまで感情的に言うならばそこまでの必要があることなのだろうと判断し、大我は踏ん張る力を強めて細めた眼からバレン・スフィアを見据える。
その小さな視界の先に写ったのは、その黒色の綺麗な球体を崩し、歪み始めるバレン・スフィアの姿。
一体何が起きようとしているのか。風が止み、再び正常な視界を取り戻した直後、遠く離れた位置にあったその球体が、大我達を狙いすまし、光線のような勢いで飛びかかってきた。
「嘘だろおい!? こんな離れてんだぞ!?」
「――しまった!! ここの時点でもうアレの範囲内なんだ!!」
この一瞬の出来事のうち、エルフィの脳裏には最悪の想定が浮かび上がった。
足を踏み入れた時から感じていた不自然な環境の断絶。草木生い茂る緑豊かな森と、草一つすら生えない、生物の気配すらない砂塵巻き起こる荒野。
もしそれが、あのバレン・スフィアがなんらかの方法で意図的に創り出したものだとしたら。それまでは地面に根を張って生きていた木々やそこに住む生物を根こそぎ刈り取ってこの環境を作り出したとしたら。
その理由は全くの不明だが、その可能性は考えられる。そしてそれは即ち、バレン・スフィアのテリトリーであることを示す。
遠くから先制の策を考える段階と見せかけ、二人は既に袋の鼠となってしまったということになる。
「クソッ! 逃げっ……うおわっ!?」
「大我!! …………!!」
強大な力を持つ相手側からの奇襲とあっては、余計なことを考えてはいられない。
大我は一旦冷静さと状況を取り戻すために後方へと走り出そうとしたが時既に遅し。人間の脚力を圧倒的に超えた速度で黒塊は大我を取り込み、エルフィと完全に切り離された。
直後、この瞬間を待っていたかのごとく、バレン・スフィアは外側のエルフィを追い詰めるように威圧しながら迫り出した。
「いてて……ここは」
黒塊の内部に取り込まれ、その衝撃にバランスを崩し倒れた大我。
ゆっくりと起き上がり、淀んだ黒い膜の内側にいる今の自分の状況を確認する。
「まさか、バレン・スフィアの中……はっ! エルフィは!?」
大我に瞬間的に湧き上がったエルフィへの不安、自分とは違って生身ではなく純粋な機械の身体。取り込まれたらおそらく自分のように無事では済まない。
その心配が不安を増幅させ、大声で名前を叫ぶ。
「大我! 大丈夫か!?」
「エルフィ! 無事なんだな!」
エルフィからの声掛けは、大我を遮るシャボン玉のような膜の外から聞こえてきた。どうやら自分と一緒には取り込まれずに済んだらしい。
内側からは、その蠢く膜の外側の様子は全くわからない。だが声はなんとか通っているらしい。
エルフィへの呼びかけと自分の安否の両方を兼ねて大声で外からの返事を返す。
「おい、大我……後ろ……」
「後ろ?」
すぐにその返しが来ると思っていた直後、想像を絶する物を見たような、それは驚くというだけでは足りない、何か恐怖や衝撃が混じったような震える声で、エルフィは背後へ注視するよう誘導する声を向けた。
一体何があったのかと、大我はそれに従うようにゆっくりと後方へ振り向く。
「なんだよ……これ……」
大我の前に現れた光景。
それは、雲霞のごとき何千ものアンデッドの黒い大軍。そのさらに後方には漆黒の翼を羽ばたかせる無数の槍兵、そして、全身に黒い紋様を刻まれた二体の大樹の如き巨人。
まるで、生者を全て根絶やしにせんとする深黒の軍勢。誰も目にすることの出来なかったその全貌が、大我とエルフィの前に顕現した。
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