第2話
「何があったんだ……一体……」
大我は斜面のぎりぎりまで近づき、足を下ろす。例え落ちたとしても、その斜面からは滑り降りる事も出来なくはないという、そんな角度だった。
それから、大我はその雄大な風景をずっと目に焼き付ける。
「……ここがどこなのか、何が起きたのか、俺には全くわかんねえ。けど……助かったんだな、俺」
大我は、目の前に指輪が填まった右手中指を空にかざし、そっと微笑みかける。
「ありがとう、母さん、親父。俺、まだまだ生きられそうだ」
両親への感謝を溢し、大我は再び広大な森と街と大樹を見つめる。
圧倒的スケールのこの景色を見ているだけでも、身体の疲れが吹っ飛ぶような、そんな感覚さえあった。
大我は身体を解すように、思いっきり声を上げて背伸びをして、全身の筋肉を伸ばす。解放した瞬間の心地よさがたまらない。
伸ばした手を下げて腰に手を当てると、ポケットの部分に何か膨らみがある事に気づく。
「ああ、そういや入れてたな」
大我はポケットの中にある何かを取り出す。それは、いつも持ち歩いていた、生活必需品ともいえる携帯端末だった。
体感ではそこまで時間は経っていないが、どこかノスタルジックな気分になった大我は、駄目元で電源を入れてみる。
「流石に動か……あれ?」
大我の予想に反して、携帯端末は動き出した。
動かない前提で考えていたこともあって、大我は虚を突かれたような顔になった。
「マジかよ……すげえなお前」
今まで生活を共にしてきた相棒を褒める。しかし、その直後に画面は真っ黒になり、何度も再起動を試みるがそれ以降電源が着くことはなかった。
「……流石に仕方ないか」
一瞬の灯火を見せた端末をポケットに入れ直す。ここで大我は、そのほんの一瞬表示された画面に疑問を浮かべる。
「見間違いじゃなければ、電波入ってたな」
以前の姿が影も形も残っていないような、自然溢れる今の世界で、なぜ電波を受信したのか。
しかし今はそんな事を気にする余裕は無く、いっぱいいっぱいだったためにその考えはすぐに頭の隅に置いた。
「はあ……さて、これからどうすっかな……」
今自分がいる場所はわからないが、どんな所かは把握した。その後まずどうするかを考えていなかった大我は、寝転ぶために背中を地面に倒そうとした。
すると、その背中は地面に着く前に、何か若干固い感触に襲われた。
「ん? なんだ?」
表面には表れずとも、内心ビックリした大我は、その謎の感触の正体を確かめるために振り向いた。
そこにいたのは、自分の体格よりも、テレビや写真で見た物よりも2、3倍も巨大な猪だった。
「…………」
いかにも獰猛な顔つきの猪と、現状が飲み込めず時が止まったかのように動かない大我。
3秒程見つめあった後、猪が耳が張り裂けそうな程の鳴き声を上げた。
「おわあああああああーーー!!!」
その直後に、大我もまるで呼応したかのような叫び声を上げた。
今の状況がとにかく非常に危ないと嫌でも理解した大我は、即、目の前の崖を、尻を擦りながら可能な限り安全な姿勢で滑り降りる。
そして、下の道へと着地したその後、全力を振り絞って走り逃げた。
* * *
大我はひたすら山を降り、一度シェルター前まで戻ろうかと一瞬考えた後に取りやめ、視界に写り込んだ踏み慣らされた道を伝って、ひたすら走り逃げた。
シェルターの中で待つことも考えたが、一度居場所がバレたら最後、逃げ場が無い上に武器も無い。さらに暗闇で動きようも無い。猪相手に自殺行為を行っているような物だと考えた。
必死に、ただ必死に後先考えずに走った。息が切れ、足が震えてもとにかく走った。
「がほっ……はぁ……はぁ……巻けた……のか……?」
ふらふらの足取りで、大我は後ろの様子を確かめながら走った。現在背後にはそれらしい姿は見えず、今のところはなんとか逃げ切る事が出来たと安心する。
その直後、走り続けていた大我は何かに激突し、小さく吹っ飛ばされた。
「いってて……なんだ……?」
壁か何かにでもぶつかったのかと思いながら正面を向くと、そこには、輝くような瞳に白い肌、整った顔立ちで優しい雰囲気に包まれたとても可愛らしい金髪の少女が、不思議そうに大我を見つめて立っていた。
よく見ると、その少女は耳が長く、一見した特徴は、様々な創作で登場する亜人種のエルフととても似通っている。
まさしく現実離れした者との遭遇に、大我は唖然とした。
「……!!」
そして、1秒程の間の後で、少女は心配そうな顔で手をさしのべた。
「だっ、大丈夫ですか? お怪我はありませんか……?」
「えっ、あ、ああ……大丈夫……」
動揺が隠せないままに、大我は差し出された手を掴み、その少女に引っ張られるようにして立ち上がった。
立ち上がると同時に、疲労からかふらふらとバランスを崩しながらも、なんとかその姿勢を維持した。
「いてて……すまなかった」
「いえ、大丈夫です。でも、よそ見しながら走ったら危ないですよ?」
エルフの少女は、優しく大我の行為を諭した。
立ち上がってからその顔をしっかりと見ると、ますますその美少女っぷりが実感できる。
「ああ、今度から気を付ける」
大我は、その少女の忠告を聞き、素直に謝る。
ここで大我はふと、このエルフ相手に日本語が普通に通じている事を疑問に思う。大抵このような場合は言語が通じなかったりするものだが、それが無かった。
大我はその場で考え込む。
「あの、かなり慌ててるように見えますけど、何かあったんですか?」
ふとした少女の一言に、大我はこんなことしている場合ではないとハッとした。
「そうだった……!」
大我は慌てて振り向き、周囲の安全を確認する。
「さっき巨大な猪に遭遇して、それで急いで逃げてきたんだ。それで今……」
事情を説明していると、背後から何やら不吉な音と声が聞こえ始める。
もう一度振り向くと、視線のずっと先には、土埃を激しく巻き上げながら、一直線に大我を狙い突進してくる先程の巨大猪の姿が入ってきた。
「まずい……! あいつは俺を狙ってるから、俺が囮になるから逃げて!」
大我は少女の前に立ち、自ら囮になるとは宣言し、全力で逃げる心の準備を整えた。
その時、先程までの巨大猪の鳴き声とは別の調子の声が聞こえてきた。それは悲鳴のようにも聞こえる。
その声に連鎖し、巨大猪は勢いを保ったままに体勢を崩し、二人の元へと滑り込み、目の前で停止した。
その頭には、さっきまでは影も形もなかった矢のような物が何本も突き刺さっている。
「な、なんだ? 一体何が……」
目まぐるしく変化していく展開に、大我は目を丸くした。
少女の手を離し、矢が突き刺さったその猪の様子を確認する。
「死んだ、のか……」
頭部を正確に射た4本の矢。それはこの巨大を絶命させるには充分だった。
「ふう、アリシアー! アリシアー!」
背後の少女が、森の中へおそらく人の名前らしき単語を叫ぶ。
一瞬の静寂が周囲を包んだその後、木の葉が震える音がどこからか聞こえてくる。その音は段々と大きく、近くなっていき、ついには大我達の真上から聞こえてきた。
大我は、その音がする方向へと視線を向けた。
大我の目に飛び込んできたのは、弓を携えた露出の多い少しだけ褐色気味の、おそらくアリシアという名前であろう金髪の少女だった。
「あらよっと!」
アリシアは、二人の側に綺麗に着地する。それだけでも、飛び抜けた身体能力を持っていることが理解できる。
そしてアリシアも、最初に出会った少女と同様に耳が長い所謂エルフであり、鋭い目付きや男勝りな雰囲気はあるものの、負けず劣らずの美少女だった。
「へへー、どうよ? 激しく動くこいつの頭をあたしの正確無比な弓捌きで……」
「もう、こんな道の真ん中で倒してどうするの……こんなに大きいの、私達じゃ運べないよ?」
「あっ、そういえばそうだな……まあ、後で手伝いを呼んでくるさ」
二人は何やら、狩った猪をどうするかで相談をしているようだ。それについていけない大我は、必然と蚊帳の外となる。
「んで……お前誰だ? ティアの知り合いか?」
アリシアが、ようやく大我へ話しかける。
その言葉から、大我はぶつかった少女の名前がティアだということが解った。
「ううん、さっきちょっとぶつかっちゃって……これに追いかけられてたらしいの。それで……」
「ほほう、なるほど。あんた、見ない顔だけどどこから来た?」
大我はその質問に、どう答えればいいのか非常に迷った。
突如人工知能が人類に対して殲滅宣言を発令し、その攻撃から逃げ惑い、シェルターの中へと避難した後、コールドスリープによって眠り、次に目が醒めた時には見知らぬ世界が広がっている上に、自身が住んでいた街は跡形も無くなっていたなどと、目の前に実在するファンタジー世界の住人に信じてもらえるかどうか。
そもそも人工知能や、レーザー等の存在や概念が理解してもらえるのか、大我はとにかく悩んだ。
「…………すまん、どうにかして説明するから少し時間をくれ」
腕を組み、渋い顔で唸りながら、大我はどうにかして、せめて要点だけでも話せないかと悩みに悩んだ。
そんな様子を見たアリシアは、軽く溜め息をついて大我に近付く。
「……まあ、その気持ちだけで充分だよ。少なくとも悪い奴ってわけでも無さそうだし、それにそんな唸るほど悩むような複雑な事情なら、あたしらが気軽に聞くわけにもいかないだろ」
アリシアの助け船で、大我はほっと胸を撫で下ろす。
「ありがとな。察してくれて」
「いいってことよ。あたしの名前はアリシア。アリシア=ハワード。そんでこっちがティア」
「初めまして、ティア=フローレンスといいます」
ティアは小さく綺麗に頭を下げながら自己紹介をした。
アリシアとは対照的な雰囲気に、その礼儀正しさがより強く印象に残った。
「俺は桐生大我。さっきは助けてくれてありがとう」
「桐生大我……大我さんですね」
「よし、大我って言えばいいんだな。それで早速だけど、これからあたし達に着いていかないか?」
突然提示された提案に、大我は少しだけ遅れたタイミングで反応する。
「……二人に着いていく?」
「ああ。大我は多分あたし達の街に用があるんだろ? 丸腰だし、ここら辺にも馴れてないっぽいし、あたし達も一回戻らなきゃならないから、それまでの間ってことで……どうだ?」
「わかった。俺には断る理由が無いし、とてもありがたい」
アリシアからもたらされた、中々に合理的提案に、大我は迷わず了承する。
何が起きるのか、何があるのか全く分からない現状で、弱りきった無知の人間一人が鬱蒼とした森の中を歩くのは自殺行為でしかない。
その状況で、実力があるであろう人物の護衛と、地元民の案内が一緒に付いてくるのは、まさに神のプレゼント以外の何物でもなかった。
「よし、それじゃ行くぞー!」
アリシアは元気に拳を突き上げ、歩き出す。それに着いていくように、ティアと大我も歩き出した。
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