肉食魚たち
松原を抜けて嘉平は浜に出た。礫と砂利とが積もった石の浜、小石と小石とが擦れる感触が草鞋越しに伝わってきて、弱りきった足を苛む。
浜は入り江のようになっている。右手には山肌が迫り左手には岩礁が立っている。時折外海からの波が岩礁を越えて飛び込んできて浜の水面を揺らす。
かつてこの浜には絶えず子供の声が響いていた。水深が浅く波もないので、暇になるとここに来て泳いだり、フジツボだのカメノテだのをおやつ代わりに採ったりして遊ぶのだった。村の子供は皆この浜で遊びながら泳ぎを覚えたものだ。もちろん嘉平もその口である。長じてからも仕事が終わると幸助を迎えに来たものだった。だがもう二度と、そんな幸せな日常は訪れないだろう。
山肌に近い一角には何艘かの小舟が
小舟のうちの一艘を引きずって、嘉平はずぶずぶと海に踏み入った。相変わらず刺すような冷たさだが去年ほどではない、確実に例年の水温に近付いている。しかしもはや遅すぎるのだ。
腰まで水に浸かったところで飛び乗って、嘉平は舟を漕ぎ出した。櫂で浜の底を突いて沖の方へと舳先を向ける。
浜と外海との境目の辺りで嘉平は櫂を上げた。箱眼鏡を使って、ちょっと海の中を覗いてみる。
きらり。何かが光った。背ビレだ。箱の底に張られた玻璃の向こうで魚が泳いでいる。スズキだ。仄暗い海の中を悠々と、散策するような調子で揺らめいている。
気付かれぬようにそっと静かに、嘉平は銛を掴んだ。だが僅かな音に気付いたのかそれとも気配を察したのか、スズキはゆらりと身をくねらせて沖の方へと去って行った。
嘉平は居ても立ってもいられなくなって、海の中へ飛び込んだ。逃げてしまった獲物を追いかけても意味が無いのだけれど、大物に目が眩んでしまったのである。
久々の海の中は見違えていた。根刮ぎ採り尽くしたはずの海藻が生い茂っていた。潮の流れにコンブが踊る、マツモが髭をざわめかせる、フノリが岩場を這いずり回る。赤に緑にうるさいくらいだ。
……人間が根絶やしになったことで海が命を吹き返した……
皮肉と無常を感じながら嘉平は海の森を進む。しばらく脚を漕ぐうちに森が途切れて、ふと視界が開ける。
そこには光の屏風が立っていた。海面から射し込む光線が幕を成している。その中を無数の魚影が行き交う。スズキにアイナメ、カワハギ……きらきらと、雲母紙の吹雪が舞っているようだ。
しばらくの間、嘉平は何も考えていなかった。ぼーっと光線と魚影との演舞を眺めていた。多少水温が戻ったとはいえどうしてこんなにも早く魚が戻ってきたのか、それもなぜ肉食魚ばかりが乱舞しているのか、
そして考えるまでもなく答えは提示される。
なにか浮かんでいるのが目に付いた。光の中にあって輝かず、ただぼんやりと浮かんでいる真っ白な塊。よくよく見れば魚たちはその塊を中心にして周遊しているのだった。ときおり肉食魚たちがつんつんとその塊をつつく。するとドス黒い染みが光線の幕に広がる。光を遮るようにもやもやと、生白い塊から漏れ出る真っ黒な液体。
それは、人間の死体なのだった。
光の屏風の中にゆらゆら揺らめくかつての人体。かつての、というのは既に人間としてのかたちを失っているからだ。ぶくぶくと膨らんでクラゲの化物のように見える。肌の質感は以前浜に打ち上げられたクジラの皮膚によく似ている。
死体の足首には縄が巻かれている。潮の流れに踊る縄を先まで辿っていくと、海底から突き出た岩の突端に繋がっていた。ぶくぶくに膨らんだ肉風船を繋ぎ止めている水底の岩。この岩に縄を括り付けた後そのまま窒息して死んだのだろう。小舟でここまで来て海に飛び込んで、自殺した。舟の方は潮に流されてどこぞに消えてしまったのか。
一匹の大きなスズキが――恐らくさっき逃がしたあのスズキが死体の腹に食いつく。
……ぽんっ……
水死体の腹が弾けて大きな泡がひとつ生まれ出でた。泡はぴかぴかと、光線の銀幕と遊びながら海面へと静かに浮かんでいく。死体の周りには黒々とした穢れが残されて、ちぎれた臓物がふよふよと辺りにただよう。
一番槍のスズキに遅れじと、無数の肉食魚たちが腐肉にむさぼりつく。
雲母紙の群れがきらきら、ひらひら。
むしゃむしゃ。ごくんごくん。
嘉平の腕が動いた。肩に担いで、無意識に伸ばした。糸に引かれるように銛が飛んでいって、まるでそれが必然の結果であるかのように、あの大きなスズキに突き刺さる。
きらり。スズキの腹が光線を反射して輝いた。
光の幕の中で銛を腹に突き立てたまま右に左に踊り狂う魚影、きらめき冴える魚鱗。
ひとしきり断末魔を舞って、息を絶やした。
嘉平の脚が無意識のまま潮を漕ぐ。腕を伸ばし光の幕に触れて、しっかりと銛を掴まえる。
そして銀幕は消えた。
雲の切れ間が閉じて、辺りを照らしていた日光が遮られたのだった。後に残されたのはどんよりとした、これまでと変わらぬ灰色の海の姿である。
嘉平は息をするのを思い出した。海面に急ぐ。
一呼吸して人心地ついた嘉平は、まず辺りを見回した。舟は随分と潮に流されていた。遠くに見えるその船影に向かって、左手に掴んだ銛を引きずりながら泳ぐ。舟に這い上がってどっかりと船板に尻を下ろし、銛の先をじっくりと検分する。
あの大きなスズキがいま自分の手元にいることが信じられなかった。ぺかぺかと輝く鱗がまるで宝物のように思えた。これは天から下された賜り物ではないか、もしかしたらこれを食わせれば幸助は飢餓を脱するのではないか、そう思えて仕方なかった。
銛の先からスズキを引き抜く。
べちゃり。スズキの口元に引っかかった臓物が船板に落ちた。
嘉平は気にも留めなかった。
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