末期の幼子
荒涼たる
ここ
嘉平自身も浜出の人間だった。普段は塩作りをしているが、時期によっては海に潜ってアワビを獲りワカメを採り、またごくごく僅かながら借りた畑で大豆を作る。塩釜には立ち上げの時から関わって、相応の誇りをもって仕事をしていた。だがその釜も廃されて久しい。主たる人員がみな餓死してしまったのである。釜の人間で生き残っているのは嘉平と、釜主である八戸城下の町人だけだった。
自活できぬ村は弱い。他所との物流が途絶えれば即、死が見えてくる。飢饉が明らかになって以降は
……辺境に生まれたお前たちが悪いのだ、大人しく死ね……
藩侯だの名主だの、物持ち連中からそう言われているようなものだった。
かつては、奴らを怨んでいた。藩侯というものは我ら百姓が身を削って飯を食わせている身の上である。それがなんだ、この危急存亡のときに指を咥えて見ているだけだなんて。むしろ邪魔ばかりする。伝手を辿って他藩から穀物を仕入れれば重罰を食らう、かといって逃散すれば五人組の仲間に迷惑がかかる。これでは藩侯を戴いている意味がないではないか。主君だの家老だの代官だの、見も知らぬ連中に年貢を呉れてやっているのはこういうときに助けて貰うためではないのか。人口の半分、三万人が餓死しても見て見ぬふりをするというのなら主君は・御政道は・国は、いったい何のためにあるのか。そんなものはじめから存在しない方が下々の百姓は幸せに暮らせるのではないのか。
――そう、かつては怨んでいたはずだったのだ。しかしそんな真っ当な感情は風化して久しい。人を怨むには力が要る。仇討ちだの雪辱だの、そんなものは最低限の衣食に困らぬ連中だからできるものだ。復讐とは最高の贅沢である。腹が減っていては人を怨むことすらできない。怒ると余計に腹が減るので。
自然と、嘉平は微笑んだ。ここ最近よく笑ってしまうのだ。心中がこれほど凪いでいたことがこれまでにあっただろうか。感情とは無駄である、起伏があればあるだけ気力を使う。飢えれば飢えるほどその起伏は削がれていって、やがて平坦な、穏やかな寂寞が訪れる。涅槃とは餓死寸前の境地を言うのだろう。だから坊主は修行と称して食を絶つのか、と嘉平はひとり合点する。
下り坂が終わった。波の音が聞こえてきた。だが海は見えなかった。松原が遮っている。潮風を防ぐ天然の衝立として開闢以来この村を守ってきたそれも、もう守るものはない。もうじきこの村は消えるから。
嘉平の家は松原のすぐ手前にあった。家と言うよりは小屋と言う方が正しい。細っこい柱に杉皮を葺いただけの粗末な小屋だ。中も六畳一間にごく狭い土間が付いているだけの、見栄えに見合ったものである。
嘉平は戸口を跨いだ。
空気が蟠っていた。嫌な臭いだ、と自分の家ながら思う。そしてそれは自分自身の臭いでもあるのだ。死を目前に控えた人間の発するあの言いようのない臭気。
「おっ
板の間の隅で呟いた者がある。息子の幸助である。囲炉裏の向こう、土壁に凭れ掛かってぴくりとも動かない。声を聞いたのも数日ぶりのことだった。
「おう」
少し意外に、また嬉しく思って嘉平は寄っていった。
幸助の肌は黄ばんでいた。七十まで生きて大往生した祖父の死ぬ間際のそれに似ていた。衣の裾からはみ出た左膝が黒く変色している。壊死しているのだ。まだ身動きがとれるくらいだったときに擦り剥いてそのまま回復しなかった。嘉平自身も、肘の辺りにある小さな切り傷が治らない。痛みがなくなったということはもう駄目なのだろう。飢えて死ぬとはそういうことだ。
去年まで、幸助は元気に怒っていた。腹を空かして暴れ回っていた。だが去年の暮れから村で殺人・火付けが横行しだしてようやく事態の深刻さを悟ったらしく、家から出なくなった。見知った顔の人間が見知った顔の人間を殴り殺すのを見て、しかもその動機が僅かばかりの稗・粟のためだったと知って、ここが生き地獄であると理解したのである。毎日口にしている二合の雑穀がただそれだけで自分を殺す理由たり得るのだと言外に体感したのだ。
一ヶ月ほど前だろうか、幸助から情緒が消えたのは。怒っているうちはまだ良かった。飯を寄越せと、怒鳴って物を投げているうちは生き物としてまともだったのだ。それをしなくなったということはつまり、諦めたということだ。どうしたって生き延びる術はないのだと本能が匙を投げたのだ。「悟った」のである。
なにか居心地悪そうに体を揺らしながら、幸助がぼそりと呟く。
「なして」
幸助の声は続かない。ただ口ばかりがぱくぱくと力なく動いている。
「なして……? なして、なんじゃ」
なおも唇が動く。骨の形が見て取れた。脂の乾ききった肌が頬骨に張り付いて、歯の形すら浮いて見える。自身の子ながら異形の者のようだ。まるで共感が湧かない、哀れとすら思えない。なぜ親たる自分がこんなにも平然としていられるのだろう。
嘉平は首を振った。
「分がね。分がねってば」
幸助は不思議そうな顔で揺れる。小さく右に、左に。
そしてようやく嘉平は気付いた。体が動かないのだ。身を起こそう、腕を床につこう、脚を曲げようと思って動かしてみても、何も起こらない。意思と行動、原因と結果が噛み合わない。これまで当たり前だった因果が齟齬をきたしている。それが不可思議で理解できなくて「なして」と、どうしてと訊いたのだ。
ああ、そうか――嘉平は思い至ってしまった。なぜ息子を哀れとも思わなくなったのか。見切りを付けたからだ。生き物としてもう駄目になってしまった子孫を、成体になる見込みのなくなった幼い個体を、無意識のうちに見捨てていたのである。一匹のオスとしての本能が人としての精神を上塗りしていた。今の嘉平は山の獣と同じだ。獣は弱りきった子供を見捨てて悪びれることはない。少なくともオスはそうだ、子の心配をするのは大抵メスである。
嘉平は、もはや禽獣なのだった。良心が・道徳が・情緒が餓死してしまって、畜生に成り下がっていたのである。
幸助が動きを止めた。凜とした、妙に透徹した声音で言う。
「とてきてけろ」
嘉平の背中に冷や汗が吹き出した。喉から掠れた音が出る。
「なにをじゃ」
「魚っこ」
視線が合った。目だけをぞろりと動かして、幸助がこちらを見た。その瞳には何もなかった。怨むわけでもなく蔑むわけでもなく、ただ穴があった。無明の洞が空いていた。
嘉平は恐怖した。幸助は末期を悟って、透き通っていた。ヒトの身でありながらもはや人ではなかった。即身仏――身が即ち仏である。その境地にあった。嘉平は知らず知らずのうちに
禽獣の境地にあって、嘉平はその清冽さに戦慄したのだった。そして飢えてなお俗物であることをやめられない自分を恥じた。せめて息子の願いを、「最期に魚を食べたい」という求めに応えてやりたいと思った。
「待ってろ」
言い残して嘉平は小屋を出た。戸口の横に立てかけてあった銛を掴んで。
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