餓鬼のはなし
尻野穴衛門
三つ目の墓穴
嘉平はその日も墓を掘っていた。黙々と、地に鍬を打ち込んでは掘り返す。錆色の乾いた土を風が攫っていく。その痩せた土に劣らず嘉平自身もまた痩せていた。肉の落ちた頬を汗の玉が濡らす。
嘉平の傍らには二つの遺骸があった。隣家に住むお喜代という女と、その三歳になる娘の死体である。主人は去年の暮れに餓死していた。二人の死因もまたそれに近いが、厳密には違う。心中であった。
墓掘りの手を止めてちらと、嘉平は遺骸に目を遣る。飢えに苦しむ我が子を見ていられなかったのだろう、子供の首筋には母の手形がはっきりと残っている。一方で母の首元には帯の痕がある。娘を手にかけたあと首を吊ったのだ。今朝、梁から下がってぶらりぶらりと揺れているところを嘉平が見つけて、せめて埋めてやろうとここまで担いできたのが半刻ほど前のことだった。
正午を過ぎてようやく嘉平は墓を掘り終えた。長さ五尺、深さ二尺。墓穴としては浅いが問題はない。屍肉を食らう鳥獣は去年のうちにあらかた獲って食ってしまっていた。そもそも食うところなど残っていない――お喜代の遺骸を抱え上げて嘉平は思った。生前の、かつてのふくよかさからは想像もできないほどに彼女の体は軽かった。だが大した感慨も湧かない。人の死を悲しむには余りにも多くの死を見過ぎていた。単なる処理の感で、嘉平はお喜代を墓穴に投げ込む。
続けて嘉平は娘の方を抱き上げたのだが……こちらに至ってはもはや生きた人間であったことすら信じられなかった。中に洞が空いているのではないか、そう疑ってしまうほどに軽い。体躯はまるで乳飲み子のようだ、三歳になっていたはずなのに。満足に粥も作ってもらえず、母が飢えてしまっては乳など出ようはずもなく。彼女の成長は昨夏、飢饉の始まりとともに止まってしまったのだろう。
子を抱いたまま嘉平は改めて周囲を見る。彼がいるのは里山の麓、村を見渡す薄の原の只中だった。ぐるりには既に二つの土饅頭が盛ってある。どちらも彼が弔ったものだ。本来なら野辺焼きにしてやるのだがその余裕がなく、土葬にした。荼毘に付してやれなかったのが心残りだった。
墓の下に眠っているのは五人組の仲間だ。親が四人に子が六人、お喜代のところを含めれば十三人三戸がこれまでに死に絶えていた。また一戸は「佐竹様のところに行く」と言って逃散してしまって、その後の音沙汰は聞かない。
目を転じて、嘉平は村を見下ろした。山の裾野に広がる畑には雑草が丈高く繁茂している。大半が耕す者を失った、死絶地である。海岸線にへばりつくようにして粗末な家々が並んでいるが、過半に持ち主はいない。みな死んでしまった。屋根々々の下には腐乱した、あるいは白骨化した骸が転がっているのを嘉平は承知しているが、如何せんキリがない。良心を殺して、五人組の身内の外に後の業はせぬと決めていた。
いま腕の中にいる彼女が嘉平の弔う最後の人間になるだろう。この子の後は二度と人の死を悼むことはない――その予感が嘉平にはあった。飢えて体が死ぬより先に心が死につつあった。「腹が減った」、その一語の前にはどんな美徳も命を永らえない。道徳だって餓死をする。
嘉平は母子に土をかけた。最後に地面をならして、残りの土で饅頭を盛る。
長い溜め息を吐いて、嘉平は鍬を地に突いた。柄に体重を預けて再び村を、そしてその先に広がる海を見晴るかす。青いはずの海は空の色を映してどんよりと濁っていた。こんな色がもう十ヶ月も、去年の六月から続いている。文字通りの灰の色が。
どうしてこんなことになってしまったのだろう――海をぼんやりと眺めながら、嘉平は思い返す。
この大飢饉は去年、
終えてみれば、天明三年の損耗は九割を超えていた。例年の十分の一も作物が穫れなかったのである。辛うじて収穫できたものも触れば崩れてしまうような屑米・屑豆ばかりだった。年貢どころの話ではなく、蕨根を掘り尽くし海藻を根こそぎに食い荒らし、それでも足らず犬・猫・鼠を根絶やしにして日を繋いだ。最後の望みは藩からの救い米で、小作から乙名までこれだけを頼みにしていた。
だがこのとき、藩庫には米穀の備蓄がほとんどなかった。西国の方で風水害が多発し価格が急騰していた関係で、備蓄米の大部分を売り払ってしまっていたのである。買い戻そうとしても時既に遅く、不作を見越してか穀物全体がさらに騰貴していた。ただし愚かだったのは藩侯ばかりではなく、商家も農民も手元にあった五穀は春先までに手放していた。誰もがかつての飢饉を、父母から言い聞かされてきた教訓を忘れていたのである。
その結果がこれだ。藩内の人口半分が飢えて死するという地獄だ。
嘉平がいまだに生き残っていられるのは、欲がなかったからである。相場に興味がなかったことが幸いして、昨年の年貢を納めた残りを稗・粟に換えて納屋に置いていた。これを食い繋いで今日まで命を永らえてきた。顔を見知った人間が腹を空かして死んでいくのを尻目に、こそこそと、救いの手を差し伸べることもなく、日に三合の稗を口に頬張って知らん顔を貫いてきたのである。だがそれも尽きて、今や食うものといえば虫と野草ばかり。素潜りの覚えがあるにはあるが、寒さのためか海岸まで魚が寄りつかない。浜の貝や磯蟹は去年のうちに獲り尽くされている。
近いうちに自分も飢えて死ぬだろう――怒りも嘆きもなく、嘉平はただ確信していた。それが当然の報いであると半ば清々しく思っていた。年が明けてからこちら後悔してばかりだった。隣人たちが骨と皮ばかりの生ける屍と化していくのをただただ眺めるために命を繋いできたようなものだった。自分には意気地がないのだ。どうせ死ぬことになるのなら稗・粟を仲間に分けてやれば良かった。こんな地獄を見るくらいならさっさと首を吊っておけば良かった。自分はいったい何のために気心の知れた仲間を見捨てたのか。何のために十三人もの仲間を……。
そんな煩悶に苦しまされたのも今は昔である。今はすっきりとした気持ちで、ただ腹が空いている。
哀れなのは息子だ。嘉平には今年で七歳になる男の子がある。幸助という名前の勝ち気な子で、これまで散々にやんちゃをして手を焼かされたが、その度に「身の回りの人間と助け合うことを覚えなさい」と諭してきた。それがどうだ。実際に父がしてみせたのは、飢えて死にかけている五人組の仲間を保身のために見捨てて悪びれることもない悪鬼の所業だ。それでいて息子ひとり助けることすらできそうにない甲斐性のなさ。どれだけ父を恨んだだろう、蔑んだだろう。
しかしそんな塗炭の苦しみもあと少しで終わる。我々親子も結局飢えて死ぬ。
ふっ、と嘉平の肌を浜風が撫でた。磯の匂いが鼻腔をくすぐる。
嘉平は笑みを浮かべた。そして踵を返した。三つの土饅頭に背を向けて、潮の香りに誘われるまま海の方へと下っていく。
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