聖餐

 道中、嘉平は手の内をじっと見つめていた。スズキの肌はてらてらと艶めいて、その光沢はアワビの殻の真珠層に似た複雑な光彩を秘めている。一日中眺めていても飽きそうもない不定形の光の迷路。ちょうど鰓の上に銛の傷が開いて、光沢の迷路を真っ赤な血が塗り潰していく。

 今すぐかぶりつきたかった。目玉をぐしゃりと噛み潰し、こりこりの背肉を平らげて、臓物の一片に至るまで啜り上げてしまいたかった。しかしこれは幸助のものである。我が息子の、今際の際の聖餐である。汚してはいけない。

 嘉平は己の手を舐めた。ぺろぺろと、掌に纏わり付いた血を啜る。――ああ、甘露だ。生臭いだけのはずの血の味は今このとき至高の美味である。どろりとした気合いが総身に漲る。

 ……食べてしまいたいなぁ……

 脂汗を垂らしながら嘉平は松原を抜けた。戸口を跨いでまず第一声。

「幸助ぇ、みろ」

 草鞋を脱ぎ捨てて板間に上がる。献じるような調子でスズキを戴いて、息子の傍へと膝行り寄る。

 幸助はじっと虚空を見つめている。空洞の瞳を宙に留めている。

 ただそれだけなのだ。あの得体の知れぬ、肌に纏わり付くような静謐さが場から失われていた。妖怪を目の前にしたような怖気、聖者を目の前にしたような身の強張り。そんなものはどこかに失せていた。

 嘉平はもう怖くなかった。

「ほれ、け」

 幸助の手を取る。そして全てを悟った。同じだ、と。今朝方お喜代の娘、母親に縊り殺されたあの哀れな幼児の手をとったときと同じだ。薄ら寒くなる感触。筋肉の働きがないと人の手はこんなにも曖昧な心地になるのかと、死後の自分を見るような不快感。

 単なる死体がそこにあった。

 しばらくの間、嘉平は物を考えるのを忘れていた。胡乱な意識で死骸を見つめていた。

 ふと気づいた。蟻がいる。死骸の頬に一匹の蟻がたかっている。気温が戻りつつあるのを、春が訪れつつあるのを察知して巣穴から出て来たのだろう。

 自然は巡る。幼子が非業の死を遂げたところで、蟻にとってみればどうでも良いことだ。悪人だろうと善人だろうと死体は単なる餌に過ぎない。

 蟻は楚々として頬を登っていって、目の縁に行き着いた。そのまま睫毛を越えて眼球に踏み入る。青く褪めた白目の中で黒い点となって蠢き回り、そして齧り付いた。人間の肉の中で最も柔いところを本能で察して食らい付く。

 がぶり。くちゃくちゃ。

 嘉平はその様子をぼーっと眺めていた。怒りもなく哀れとも思わず、こうなるのが当然の帰結であるかのように感じていた。むしろ蟻が羨ましく思えた。感情も理念もなく、本能に従って粛々と生き粛々と死ぬ。生きる理由もなければ死ぬ理由もない。虫けらの気易さ。虫けらの安楽。

 嘉平はもはや禽獣ですらなかった。嘉平は今や一匹の虫けらだった。

 今朝までは確かに、人の死を悼むだけの情緒があったのに。多少なりとも隣人の死を悲しく思ったのに。それがただの数刻のうちに、無感動に堕した。血を分けた肉親の死すらどうでも良くなってしまった。そして恐らくはもう自分の死すらどうでも良いのだ。蟻が自分の生き死にに興味がないように、嘉平もまた自分の生死に興味が湧かない。

 嘉平は六道を堕ちていく。

 いつの間にか日が暮れて、西日が射してきた。揚げ窓の隙間から細い光が入り込んで、嘉平と死骸との間に区切りを付ける。板の間に捨て置かれたスズキが照らされて輝く。

 おもむろに、嘉平はスズキにかぶりついた。昆虫のように躊躇無く、目玉をぐしゃりと噛み潰し、こりこりの背肉を平らげて、臓物の一片に至るまで啜り上げる。血の穢れが口元から襟元まで濡らしていく。

 まるまる平らげて、しかし嘉平は最後の一口を吐き出した。食感が違った。ぐにゃりと、まるでクラゲのような不愉快な噛みごたえがあった。明らかに魚の肉ではないそれ。

 床板にべたりと張り付いたのは、緑色の腐肉だった。スズキが生前に噛み付いた、あの海中自殺体の肉である。

 嘉平は満足だった。腹が膨れて幸せだった。ただそれだけだった。

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