11. 噂
午前十一時、チャイムの音で起きた俺は、ボンヤリと玄関へ向かう。
宅配便のオジチャンは日曜日の朝とも思えない元気の良さで、寝惚けた頭を覚まさせてくれた。
段ボールの箱でご大層に送られて来たのは、もちろん一冊の本、『読ませる技術』だ。ミシンの『書く物語』ほどではなくても、この単行本も充分に分厚い。
雑に箱を開けたは、早速その中身を
“リスタート・メソッド、使ったんだ”
ラルサの言葉は今も覚えている。最初に読み直すべきなのは、そこか。
メタ化、未来化、入れ子世界化、俺も使用した夢化。過去化、ゲドン化、記憶喪失化。後継者登場と侵略者登場は、話の大筋を変えるパターンだ。
“あんまり嬉しくないというか”
夢化を使った原稿は、食事として無効ではなかった。
羊が気に入らないのは、リスタートそのものか。それとも、メソッドの中に、都合が悪い“地雷”が含まれているのか。
メタ化は、人知を超えた存在を想像させてしまうから危険? 神や使徒など、既にいくらでも作中に書いた。
記憶喪失化すると、俺の境遇に似ているから? 侵略者登場は、ラルサの出現を想起させる?
羊との契約に触れるのが問題なのかと、いろいろと推理を巡らせてみたが、どれも説得力に欠けた。
改変実録記にはケチをつけられていないことから、現実に似てるだけでアウトということは考えにくい。
頭を悩ませて一時間ほど経った頃、奈々崎さんから電話が入る。
『もしもし、波賀くん?』
「あっ、こんにちは……」
『そっちには、三時過ぎくらいに着くと思う。早いかな?』
「え、三時? い、いや、いいよ! でも、羊は八時まで来ないよ?」
『晩御飯、そこで食べて構わないよね』
「うわっ、はい、全然オッケー! 材料は? 何を用意したらいい?」
『持ってくから、気にしないで待ってて』
これは、手料理なのか!? 部屋で二人で、同じ料理をつつくのか?
いきなり林立する各種フラグに、妄想が加速する。本当に来るだけでもファンタジー感が凄いのに、一緒に食事するなんて……。
黒い羊は、俺にとってミューズと言うよりデビルだ。ギリシア語ならディアボロスだ。
しかし、奈々崎さんとの仲を取り持ってくれるなら、キューピッドと呼ぶのも
嫌いな奴の部屋で、食事はしないよな?
少しは好意があると考えて、いいんだろうか。ダメだ、調子に乗る男は嫌われる。でも、嫌ってないから、アパートに来るんだし、サラダもくれた。
シーザーサラダは、シーザー・カルディーニが作った。イタリア系のメキシコ移民である。イタリア読みならチェーザレとなり、悪名高きチェーザレ・ボルジアと同じ名前だ。
冷酷な男は流行らない、ここは紳士として接しないと。だけど、彼女が紳士好きとは限らないぞ。
若干、
荒俣の本を考察し、餌の原稿を追加してと、午後の費やし方にはいくつも予定があったのだが、どれも実行できなかった。
ただアワアワと、彼女を迎える準備に
黄金三法の修練には、なったかもしれない。
◇
扉を開けて、奈々崎さんを中に入れる。
「こんにちはー」
「いらっしゃいませ! 波賀です! ザブザブの波に――」
「知ってるって。そんなキャラだったっけ?」
微笑む彼女を見て、心の中で小さくガッツポースを決めた。全く予想とは違う第一声のやり取りだったものの、好印象には違いあるまい。
モノトーンのパンツスーツに、ロングコート。私服の彼女は、ドスバーガーで見た時より大人びている。
脱いだ厚手のコートを受け取って、壁にぶら下がるハンガーへ掛けた。
向き直った俺へ、彼女は大きなビニールの袋を差し出す。大きくDのマークが描かれた白い袋だ。
「これは?」
「晩御飯、安上がりで申し訳ないけど」
バイト先で割り引き購入したハンバーガー類だった。
ガッカリしなかったと言えば、嘘になる。それでも、手料理を期待したのが身の程知らずなのであって、不平を言うような真似はしなかった。
「これが問題の鏡かあ……」
「あっ、触らないでね。羊が怒るかもしれないから」
「はーい」
床に寝かして置かれた赤い鏡は、嫌でも目立つ。興味津々な奈々崎さんへクッションを出して鏡から引き離すと、彼女の聞き取り調査が始まった。
自己紹介もすっ飛ばし、羊について詳しい話を求められた俺は、その性急な態度に面食らう。
「なんでそこまで、羊に興味があるの?」
「そりゃあ、証人がいるなら、目の色も変わるわよ。嘘でもネタになるしね」
「う、嘘じゃないって!」
文筆を生業としたい者の前には、時としてミューズが現れると噂は言う。ミューズは羊の姿をしており、作家として独り立ちするまで助けてくれるのだそうだ。
本当にそんな存在がいるなら、是非会ってみたいと彼女は願っていた。
「そんな信憑性の無い作り話が、よく広まったね」
「普通なら、都市伝説にもならないわ。でも、噂の
ミューズネタは、“羊たちの黙祷”でも多数のバリエーションが投稿されていた。このオカルト伝説が作家志望者の間で
「荒俣彦々の『読ませる技術』、そこに羊の記載があったのよ。いや、あったらしいかな」
「これ?」
今朝届いたばかりの本を、彼女に向けて持ち上げる。
「それ! やっぱり持ってたのね。ちょっと貸して」
引ったくるように本を受け取ると、奈々崎さんはページを高速で
「……私のと一緒ね」
「あっ、奈々崎さんも持ってるんだ」
「創作論の代表だしね。でも、これじゃ羊は載ってない」
「どういうこと?」
『読ませる技術』には、通常の版の他に、乱丁を理由に即座に回収された版があるらしい。古本でも手に入らない貴重なバージョンで、幻の第三版と言われている。
「なんかさ、文字組みが無茶苦茶なページで埋められてたって噂よ。なのに、ちゃんと読めた人もいたとか」
「ふーん。その第三版の中身は分からないの?」
「正確には知らないけど、まず作家になった経緯からして違うの。鏡が出てくるらしいわ」
確か、“鏡を見ていたら、書けと啓示があった”だっけ。
「あれ? 鏡って普通に書いてあったような」
「書いてないわよ……ほら!」
彼女は序章の該当する場所を開けた。
“ある日、私は焦燥にかられ文字を書き殴り続けた。書かなければいけない、そんな強迫観念にも似た思いに急き立てられて、字の洪水に身を投じたのだった”
「違う。俺が読んだのと、全然違う」
「でも現にこれは……どういうことなの?」
俺は本を手に入れた経緯を説明する。一冊目は駅前の本屋で購入し、羊に消されたためオンラインで再発注した。これは二冊目だと。
机の脇から白紙化した『読ませる技術』の残骸を引き出して渡すと、彼女はしげしげと観察した。
「これ、装丁は同じ本ね。背表紙が潰れてるけど」
「表紙を見ないと、タイトルが確認しづらかったな、そういや」
「不良在庫化してたんだわ。あの本屋、いい加減だもの」
今となっては確かめようもないが、最初の荒俣の本は、幻の三版だった可能性が高い。俺は羊を知るための手掛かりを、既に読んでいた――ら良かったのに。
「流し読みしてしまった」
「全部読まなかったの?」
「うん……最後の方は、開けてもいない」
「やくっ……!」
“役に立たないわねえ!”って言いかけたような。なんとか呑み込んでくれたけどさ。
俺を責めるのは、許してほしい。中級以上の技術を読んでも仕方なかったし、内容を消したのは羊だもの。
ミューズ、要は羊に関する記述は最終章以降にあったらしいので、もう読むことは出来ない。現行版と三版のどこが違うのか、指摘できるのは中盤より以前だけだ。
それでも貴重な三版の内容を、奈々崎さんは知りたがった。彼女にせっつかれて、俺ももう一度、最初から読み始める。
少々時間が掛かるため、彼女はカップやスプーンの場所を聞き、二人分のインスタントコーヒーを用意してくれた。
「不確かだけど、羊と契約する方法が載ってたらしいわ」
「ああ、それは……鏡に手を当てて願うんだよ」
「そんな簡単な話なの?」
「ああ……うん……」
読みながらでは返答が滞りがちになる。生返事にもめげず、彼女は話を続けた。
「私も呼べるのかしら。作家になれるなら、試す価値は有るわよね」
「やめときなよ……心臓に悪いから」
「心臓くらい何よ。どんなアドバイスを貰えたの?」
「……無いよ、メリットなんて」
顔を上げたは、真剣な眼差しで彼女へ忠告する。
「羊は何もしてくれない。ただ、書かないと記憶を消すと脅すだけだ。そこまでして、モチベを上げる必要はあるの?」
「モチベだけ? なんか……ミューズにしては、話が違うわねえ」
「ミューズなんかじゃないよ。悪魔にしか見えない」
知らない内に能力アップしているのではと尚も言い
一ページ目にして、彼女の眉間に深い
「あのね……」
「能力向上なんて、してそうにないだろ?」
「作家には向いてないと思う。なれなくても落ち込んじゃ――」
「なりたくありません。何が悲しくて、自分から鞭打つのよ。文章書くのはツラいんだって」
そう、俺は作家志望の夢など抱えていない。なのに、どうして羊と契約したのか。これもまた、どうにも納得できない疑問だった。
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