10. 禁忌
忘れた過去を羊に問い質すには、食わせる餌は多い方がいい。気を良くしてくれれば、口も緩むだろう。
サイトの閲覧はそこそこにして、八時までの時間は執筆に充てる。
目標は二万字、四時間で八千字弱を仕上げれば届く計算だ。ハイペースだが、増文の中級者に至ろうという今の俺なら、不可能ではない。
必要は増文上達の母なり。
書くネタは、
挨拶に行ったフィアンセの父が、生ける屍だった。『プロポーズ・オブ・ザ・デッド』、婚約ドタバタとゾンビを混ぜる。
氷の女王の娘は、ノーコン剛速球のワイルドピッチャーだ。『プリンセス・デッドボール』、スポ根と少女向け童話の融合。
我は独り、エジプトを詠む。『咳をしてもツタンカーメン』、これは失敗だった。俳句はともかく、古代史を扱うと三戒の一に抵触する。
奴の腹は化け物か! 日々増大する食欲が、世界を呑み込む。『今日も朝からメガトンランチ』、料理物に無限増殖系SFを混ぜ、異世界テンプレでまとめた。プロローグだけだが。
四編書いて八千百字、遂に二万字の壁を越えた俺は、ここで手を止めて原稿を印刷する。
午後の八千字には出来にも自信があった。羊が文句を付けるとすれば、改変実録記の一万二千字だろう。
部屋へ浸蝕する黒毛を思い出して身震いする。自分の内側を掻き回される感覚は、もう二度と味わいたくない。
「こ、今度は大丈夫だよな……」
刻限が近付いてくると、どうしても昨夜の戦慄が脳裡にちらつく。
シャケパワーが切れてきた。残缶は六個、ラルサが来る前に補給するべきか? せっかくの紅ザケ、どうせなら味わって食べたいけど……。
踏ん切り悪く、流し台とプリンターの前をウロウロと往復する。
「やっぱり食べよう!」
「何を?」
間に合わなかった。
プリントされた用紙を束ねて、定刻きっかりに現れた羊へ差し出す。
「こちらでございます。お召しあがりください」
「だよねー。食べるのはボクだよね」
初手の日記へ、ラルサが頭を乗せた。
俺は強張った身体で正座し、黙して感想を待つ。
逃げ出す準備をするべきか。いや、大丈夫だ、自分の改変力を信じろ。
「あのさ?」
「はいっ、申し訳ありません。頭が悪いんです。指が勝手に動いてしまって! 昨日のとは、ちょっと違うんです。どうでしょう、その意気込みに免じて、黒塗りはやめませんか。他のは結構自信が――」
「うるさいよ。照明の位置を変えたの?」
「あっ、ハイ、掃除の時に。鏡が眩しくて」
照明にケチを付けられるのは予想外だ。今すぐにでも元に戻すと立ち上がった俺を、ラルサはこれでいいと止めた。
「ボクも眩しかったから。暗いのが好きなんだ」
「そうですか! そうですよね。黒、似合いますもんね」
「どうせなら、真っ暗にしない?」
「いや、それは書きづらいというか、目が強調されて怖いというか」
「書けないのは困るなあ。不便だね、人間は」
暗闇からニョキリと羊が登場したら、恐怖度三倍増しだろう。
わざわざ鏡を床の真ん中に置くのは、いつラルサが来てもすぐに分かるようにするためだ。羊ドッキリは勘弁してほしい。
「それでですね。原稿? 何て言うか、ほら」
「感想?」
「それ、感想! ……どうです?」
唾を飲み込んで、宣告に備える。どうだ?
「あー、いいんじゃない? 減点も無いし。でもさ……」
「なんでしょう?」
「思い出したの?」
どの部分のことだ。仕込んだサルか。
「原稿が残ってまして。こんなのがあるんなら、使っちゃおうかなあって――」
「ん? 前の時に書いてたんだね。食べるのは初めてだったよ」
テキストファイルは、全てが餌に供された物ではなかったらしい。結果オーライだが、字数を増せた上に、“前の時”という言質も取れた。
「や、やっぱり……以前も書いてたんですよね?」
「まあ、そうだね。今回は逃げないでよ、せっかく半分まで来たのに」
――半分。
やっといくつか疑問が氷解したが、まだ聞きたいことが残っている。
「残りも力作です。あの、それを食べたら、ちょっと質問が……」
「いいよ。美味しかったら、答えてあげる」
質問用紙を握り締め、俺はまた待機姿勢に戻った。四編を食べ切ると、黒羊が顔を上げる。
「やればできるじゃない。今日のは上々だったね」
「ありがとうございます。それで、聞きたいことが」
「ああ、何か言ってたね。何?」
最初の質問は、“最近も記憶を食べたのか”だ。
「うん」
「うん、って!」
「お腹が空くんだもん。今日くらいの量なら、つまみ食いはしなくて済むかも」
“この鏡を拾わなかったら、どうなったのか?”、これにはラルサの返事が少し遅れた。
「……そんなことするから、リセットすることになるんじゃん。一からやり直しは面倒なのに」
「じゃあ、その時は、ゴミ捨て場から歩いて上がって来たとか?」
「……ボクはね、鏡なら何だっていいのを知ってるでしょ。小さい鏡はまだあるじゃん。他は捨てたみたいだけど」
「ああ……」
ああ、手鏡から出てくればいいだけなんだ。サイズは問わないんだと、ラルサは実演もしてみせる。
赤い鏡と手鏡を往復して、顔だけひょこひょこと突き出した。
どんな鏡でもいいなら、逃げることは不可能だ。駅でも実家でも、いずれどこかで鏡に近づいてしまうだろう。
気落ちを隠せないまま、最後の質問を読み上げる。
「明日、ここに来たいと言う人がいるんです。構いませんか?」
「へえ。話したの?」
どうする? 正直に喋って大丈夫だろうか。
心無しか赤みを増した眼光を浴びて、俺の額には脂汗が浮かんだ。
「話し……ました。黙ってないとダメなのか、分からなかったんです! 他人に教えるなって言われなかったから――」
「いいよ」
「えっ?」
「連れて来ていいって。でも、ボクはキミにしか見えないけど」
「そう……なんだ……」
奈々崎さんに羊を見せられない落胆より、叱られなかった喜びが上回ってしまう。
なんだ、
「次は教える前に言うように」
「え、あ……」
「ぺらぺら喋るもんじゃないよ。内容によっては、ね? 分かるでしょ」
「はい!
「魚人化してきたね、キミ」
明日も頼むよ、そう言い残して、羊は満足そうに鏡へ沈む。
プレッシャーが消えると、俺はホッと息を漏らした。あの眼力は、何度体験しても只事ではない。
「
食欲が減退してしまい、レトルトのカレーを温める気になるまで一時間を要した。
◇
ここまで達成したノルマを、ラルサは“半分”と表現した。つまり、本当の課題は二百万字だったということだ。これは東野ミシンが書いた文字数とも一致する。
相当な努力をしただろうに、記憶も技術も忘れてしまった。羊がリセットを“面倒だ”と言ったのも頷ける。一からやり直しなんて、忘れていた自分でも気が滅入りそうだ。
USBメモリーに入っていたテキストは十万字程度で、百万には遠い。おそらく、読み取り不可のメモリーカードに、何十万という文字データが収められていたんじゃなかろうか。
まともな鏡が無かったのは、羊の出入り口を減らすために赤鏡以外を処分したから。自分のやったことだもの、その心理には共感しかない。
明日は荒俣の本が届くので、ラルサに見つからないように注意しつつ昼はこれを読もう。日中は鏡を裏向けておいた方がいいかもな。怒られたら戻せばいいんだし、いつ覗かれるか分からない方が怖い。
夜は奈々崎さんが来るので、執筆する時間は確保するのが難しい。彼女と会えるひと時を犠牲にして書いたのでは、本末転倒だ。
何が本末かメチャクチャではあるが、ここは意地を張りたい。とすると、書くために充てられるのは、今から寝るまでとなる。
二万字を一晩で。いよいよミシンと同等のスピードが必要だ。
「……やるぞ。
どんな分野でも、禁断の荒業が存在した。
柔道の山嵐、麻雀の燕返し、サッカーの神の手、禁じられた理由はともかく、成功すれば一発逆転の大技である。
増文においても、もちろん在る。在るどころか、禁忌だらけかもしれない。どれも高度な技の中で、準備が楽な機械化迷彩なら俺にも使用できそうだった。
まず登場人物に、言動のエキセントリックなキャラクターを採用する。外国人の若き宗教マニア、これで行こう。
このキャラクターのセリフは、ネットから得た旧約聖書から引用して書く。もちろん、そのままコピーしたのでは瓢窃であり、話も膨らまない。
引用は自動翻訳サイトで英語に直し、さらにチェコ語に変更する。念を入れてベンガル語も経由しよう。
最後に日本語に戻し、助詞や文末を整えれば、原形を留めない珍妙な言葉が得られる理屈だ。
これを軸にして膨らませれば、元ネタが尽きるまで話が続けられる。
◇◆◇
「一番目、最上位物質に有るか無いか。上下に移動。憔悴すべし! 我は調理する」
「お兄ちゃん、絶好調だね。今日の試験はバッチリ?」
「混沌、消灯、渦巻くスパイダー。ということを、知る者はあなた」
「えっ、大丈夫だって。どうせまた、ブッチギリで一位のくせに」
「発光物質くん、そこ! 言う?」
「そうそう、その調子!」
私はエルミ・ストラーデ・キルシュレーゼン。
兄はカイン・フルグレッセ・キルシュレーゼン。
お兄ちゃんは少し変わっている。イケメンで成績優秀だけど、宗教マニアなの。
はあー、どうせ学校じゃ、信徒にモテモテなんだろうなあ。イヤになっちゃう。
◇◆◇
学校ごと転移した先の異世界で、神の顕現者と勘違いされた兄が大暴れ。
『チートなお兄ちゃんがカルトスキルで学園最強』
悪役令嬢物である。令嬢だからな、この兄ちゃん。整合性とか知らん。
翌未明、朝の五時過ぎに、二万と百三字を達成した。
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