09. 奈々崎麗美
畳に座り込み、スマホの通話履歴を眺めて指を
話を聞くべきだ、それは分かってる。しかし、
“あのう、ドスバーガーでサラダを貰った者です”
本当に知り合いなら、これじゃ他人行儀でよそよそしい。
“あのさ、羊、知ってる?”
馴れ馴れしいか。
“もしもし、波賀です”
これで相手の様子を見るのが一番だろう。
ぐずぐずと逡巡した後、渾身の勇気を振り絞ってコールボタンをタッチした。三度の呼び出し音に続いて、若い女性の声が響く。
『はい?』
「あっ! あのですね! 波賀。波賀っていいます。名前です。あっ、い、いきなりで申し訳無いんですけども、あっ、大丈夫ですか? 波賀なんですけど――」
『波賀くん、大丈夫?』
「はい、波賀です。大丈夫です。波賀篤です。あっ、そちらは、な、奈々々崎さんですよね。いい名前ですね、奈々崎って。繰り返しがカッコいい! ボ、ボクはチャプチャプの波に賀正の賀で波賀です!」
舞い上がり過ぎて、舌がもつれる。現在進行形で黒歴史を生産する俺へ、彼女は落ち着くように諭した。
『初めて話し掛けた時も、キョドってたよね』
「え、え? そうなんですか」
『もう、今さら敬語で喋るのはやめてよ』
愛想よく笑う彼女だったが、記憶障害なんだと懸命に説明するにつれて、相槌も打たずに黙り込んでしまう。
不安になった俺は、話を中断して彼女の名前を連呼し始めた。
「奈々崎さん? あの……そういうわけで、全然覚えないんで……だよ。何があったのか、奈々崎さんが教えてくれないかな。奈々崎さん?」
『んー、ちょっと待って。私のことを忘れたの?』
「はい。どういう関係なのかもサッパリ。ドスバーガーで知り合った? ひょっとして、いや、一つの可能性として……まさか……!?」
息を呑み込む音に、彼女が反応する。
『まさか何?』
「いやいや、仮定をしてみただけで。それもありえるかと。ほら、万一だけど、電話してたってことはさ。奈々崎さんがカ、カノ、カノジ――」
『ないない。勘弁してよお』
「そ、そうだよね。ハハハッ」
彼女のフルネームは、
事情を説明してくれるように懇願すると、出会いからの
最初に声を掛けたのは、奈々崎さんの方からだと言う。文芸サークルのチラシを配っていた彼女は、キャンパスを暇そうに独り歩く俺に目を付けた。
退屈にしているなら活動を見に来ないか――そんな誘いに、ほいほいとついて行ったとか。文芸には何の興味も無くても、勧誘したのが奈々崎さんだったからだと思う。
一通りの説明を聞いた後、俺は入る気になれないと正直に告げたそうだ。文章を書く欲求も能力も、自分には欠けると。
嘘で見栄を張る性格でないのは美点だと、彼女は褒めてくれた。
サークルへは入らなかったものの、レポートを書くにも苦労するという俺に、奈々崎さんは一つアドバイスをする。
『
「サイト……どこ?」
まことしやか流れる噂話の集積場、“羊たちの黙祷”。
執筆に関連する話題のみを扱い、ほとんどが根拠の薄いオカルトじみた話ばかりだ。小説作成の裏技や、プロ作家の隠れたエピソードが日々書き込まれている。
役に立たなくても面白いよ、そう言って教えられたアドレスを俺は熱心にメモっていたらしい。奈々崎さんの電話番号を得たのもこの時だ。サークルに興味が湧いたら連絡できるように、彼女が教えてくれた。
実際に大学で会って話したのはその一回きり、再び会話をしたのは電話を通してで、これがスマホに履歴のあった通話である。
『なんだか凄い剣幕で、長文を書く方法を教えてくれって』
「俺が? 怒ってたの?」
『うーん、焦ってた、かなあ。ねえ、何があったのよ』
その電話の様子も尋常じゃなかったし、ドスバーガーでの面持ちも真剣で、彼女からは声を掛けづらかったそうだ。
説明すれば、次は当然、俺が成り行きを教えてくれるものと期待して奈々崎さんは待つ。
だが、羊の話を持ち出すのは躊躇った。どこまで喋っていいものか迷いながらも、最後はズバリ要点を切り出す。
「あのさあ、何て言えばいいんだろう……信じないと思うよ」
『そんなの、話してみなくちゃ分からないじゃん』
「……鏡から」
『ふんふん、鏡から?』
「羊が出て来て、記憶を食われた」
『…………』
さあ、どう返される。馬鹿にするな、寝言は寝て言え、病院に行け――。
『会ったのね、ヒツジさんに!』
「う、うん……」
『本当にいたんだ! 今もそこにいるの!』
「いや、八時にしか出ないから」
『あー、くそぅ、今夜は先約が……』
ここからの会話が、堂々巡りを極めた。
自分も羊を見たいと言い出した奈々崎さんを、危険だからと制止する。見たい理由を問う俺に、なぜ止めるのかと言い返す彼女。
百万字の課題を話しても、それくらい大した量じゃないと流され、記憶を消される恐怖を説くと、課題の未提出にはペナルティがあって然るべきと切り捨てた。
彼女は邪羊の試練を、大学のレポート程度に考えているようである。俺たち二人の認識に、なぜ齟齬が生じるのか。俺の怯えが、どうして理解してもらえないのか。
ラルサを思い返して、一つの答えに行き着いた。
「目だ。目を見てないからだ」
『目って、ヒツジさんの目?』
「一度見たら、もう“さん”付けはしないと思う」
『じゃあ、なおさら一回は会わないと』
彼女がそこまで羊に固執する
明日の夜に会おうと彼女は言い出す。
『明日そっちに行くから。構わないでしょ?』
「え、来るの、奈々々々崎さんが? で、でも、場所は知っるの?」
『また電話するから。住所は送っといてね』
「いつ、いつ電話するって?」
『あ、もう行くから。ゴメン!』
「奈々、奈々々崎さん!」
出掛けるギリギリまで、話してくれていたようで、走る足音と共に通話は途切れた。
彼女は本気でアパートへ来る気だ。執筆の他に、するべき仕事が増えた。
書いてる場合かよ。部屋の大掃除が、何より優先すべき急務だった。
◇
元々、物の少ない部屋である。
得体の知れないガラクタは机の下や押し入れに放り込み、掃除機を一通りかければ、もうすることは無くなった。
だけど少しでも印象は良くしたい。シンクやトイレも磨き、照明器具の位置も変える。
天井には照明用のソケットが二箇所在った。今までは中央のソケットに電球型の蛍光灯を付けていたが、もっと机寄りのソケットへ挿し直す。
汚いタンスと壁が暗く
午後三時、落ち着いたところでインスタントコーヒーを用意して、ノートパソコンと向かい合った。
先の電話で教えられたサイト名は、脇のコピー用紙にメモってある。
以前にも同じことをしてそうなものだが、過去のメモは探しても見当たらない。自分で捨てたのか、ラルサはそんな些細な走り書きまで消したのか……。
“羊たちの黙祷”、ねえ。奈々崎さんの話をまとめると、どうもこのサイトが発端と思えた。
忘れていても、自分の行動なら容易に推測できる。文章を書こうとした俺は、サイトでラルサに繋がる何かを見つけ、半信半疑で呼び出したのだろう。
百万字を書けと言われ、創作論を購入して足掻くものの、途中で挫折して鏡を捨てようとする。その結果、黒羊の不興を買い、記憶を消されて二週目に突入した……。
あのままゴミ捨て場の鏡を拾わなければ、羊はどうしたのだろう。
サイト名の下に、この疑問を鉛筆で記す。ラルサの機嫌が良ければ聞いてみよう。
“羊たちの黙祷”は、検索から行き着くことが出来た。掲示板を主体にした、かなりの巨大サイトらしく、どこを読むべきか普通なら迷うに違いない。
道標となったのは、リンクを踏んだ形跡だ。キャッシュデータが残っていたらしく、一度見た先は紫色に変色している。
“レポート速成法!”
“長編に挑戦”
如何にも過去の俺が押しそうなリンクだが、他にも見た形跡はいくらでもある。ページを下にスクロールしたところ、“オカルト筆法”と題されたコーナーが現れた。
“ミューズを呼ぼう! これであなたもプロ作家!?”
ミューズ――ギリシア神話に登場する文芸の女神たち。古来より学芸を嗜む者は、この女神の姉妹を讃えてきた。間違っても、羊顔ではない。
ラルサに女神を思わせる要素はなくても、“呼ぼう”というフレーズは気になる。書き込みの中身は、ミューズを降臨させるという方法を列挙していた。
火を焚き、白紙の本を捧げると夢枕に女神が立つ。或いは、ラピスラズリを砕いて、その粉で神名を書く。
どれも都市伝説未満の戯れ事に過ぎず、面倒で試そうとも思わない。
“鏡に手を当てて祈れ。真に助力を乞う者の前にミューズが姿を見せる”
何とも単純な呼び出し法で、妙な捻りが無い分、逆に俺の目を引いた。これくらいなら、試してみようと思ったかもな。そうも簡単に呼べれば、世の中は羊だらけになっていそうなものだけど。
鏡を使う呼び出し法には、続きが書かれていた。
“ミューズは気まぐれに現れ、飽きればすぐに去る。自らの元に
クーリングオフの方法は? 留めたくないんだってば。俺の知りたいのは契約のやり方ではなくて、消えてもらう方法だ。
契約、その言葉は、確かラルサも口にしていた。俺はあいつと契約してしまったのか。
クーリングオフ期間が過ぎたのなら、違約金を払ってもいい。高々レポートを書くための裏技にしては、得た物に対して代償が大き過ぎた。羊々詐欺じゃないか。
大量の文章を生み出す力を、ミューズは与えてくれる。但し、国語力が上昇したり、イメージが次から次へと湧き出たりはしない。それは美女タイプの仕事だ。
羊タイプが与えるのは、強い動機である。
「そりゃ、脅されれば、必死で書くよな……」
書かなければいけない状況に、自分を追い込むこと。これもまた、文芸上達の真理ではあった。
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