08. シャケの力
二つの青い直方体が、頭の中で一つに重なった。
東野ミシンの『書く物語』、今もノーパソの横で分厚い存在感を放っている。
この青表紙の書籍を見たのは、本屋が初めてではなかった。最初はゴミ捨て場、鏡を押さえ付けていた
鏡と本を捨てようとしたことで、記憶の片隅にあった廃品が同一物だと認識した。
鏡をあのゴミ捨て場に置いたのも、自分自身ではないのか。根拠は無いが、偶然にしては出来過ぎだ。俺がどこかで赤い鏡を手に入れ、それを部屋に持ち込んだとしたら――。
思考を辿ろう。自分が最初に鏡を拾ったとしたら、どういう行動を取ったか想像するんだ。
部屋の右壁に目を向けた俺は、目の高さに在る小さな異物へと近づいて行った。今まで気にもしなかったが、金属製の茶色いフックがそこに在る。
古いアパートのこと、最初から壁紙に空いた穴はかなり多いが、空のフックはここにしかない。右壁に引っ掛けたハンガーやカレンダーを全て外してみたところ、全て同型の金具を利用してあった。
フックをつまんでグリグリ捻ると、斜め上へと壁から浮く。長いピンで刺し込むタイプで、穴開け禁止のアパートでも刺し痕は目立たないだろう。
今度は机の横の収納ボックスの引き出しを開けて、中の工具を確認する。思った通り、壁にあったのと同じフックがごっそり入っていた。
フックを付けたのは自分。未使用だったのは、吊るしていたものが消えたから。
鏡か。
“また魚かあ。何本目だっけ、五つ? 六つ?”
俺の書いた魚系物語は四つ、のはずだった。メモリー内のテキストを含めれば、六編。
羊の警告が甦る。
“
この言葉は嘘ではないが、正確でもない。もう酷いことに
どうしたらいい?
どうすれば羊から逃げられる?
悩んだところで、妙案が浮かぶはずもなく、同じ結論が堂々巡りするだけだった。記憶を全部無くすのを覚悟で、鏡を割るか、もしくは……。
百万字、書くしかないのか。
絶対禁止の三戒は、もう暗記した。三戒の三、健康を損ねてまで執筆するべからず。
羊に頭を悩ませ、食事と睡眠を怠るなど、愚の骨頂である。無理やり書いても、最後は自分の身体でツケを払うことになろう。
まず食べる、そして寝る。空腹がネガティブ思考を導くのは、経験にもある真理だ。お誂え向きに、モチベーションを上げる最終兵器を買っておいた。
今、ここで使ってこその切り札。流し台の前に、整理もせずに置かれたビニール袋が二つ並び、どちらも詰まった中身で膨れ上がっている。
袋の中に手を突っ込んだ俺は、ガサゴソと缶と白米のパックを取り出した。米は電子レンジで温めれば、すぐに食べられる。
メインはその缶、高級紅鮭の缶詰だ。茶碗と箸を出し、レンジの中に米を入れて、跳ねる鮭の描かれた缶詰と向き合った。
シャケの力、見せてもらおうじゃないか。
高かったが、このシャケ缶は本物、樺太鱒ではなくカナダ産の紅鮭を使用している。ご飯の出来上がりを待たずに、缶の蓋を――。
「……プルタブじゃない」
レンジの電子音が、炊き上がりを告げる。
俺は最寄りのコンビニまで、缶切りを求めて全力で走った。
◇
美味かった。
シャケ神に感謝を捧げつつ、茶碗を洗う。コンビニまで往復した全力疾走も、食事の満足度を上げるのに貢献した。
腹が膨れれば、気持ちも前向きになる。昨日までの俺なら、これでまた執筆に取り組むところを、今日は我慢した。
まだ夜の十時だろうが、書く前に寝る。勝負は起きてからだ。爆睡で丸一日を費やしては堪らないので、アラームは午前四時にセットした。
照明が点いたままでも、意識は即座に眠りへ落ちる。夢に出た山田に少しうなされはしたものの、大方は安眠と言っていい。
アラーム音と共に目を覚まし、顔を洗うと、ここしばらく失っていた気力の充実を実感した。
何をするにしても、まずは羊を怒らせないように餌を用意しておこう。実録記を読むまで、ラルサは上機嫌だった。増文のやり方は、これで合ってる。
ただ、執筆スピードの速かった実録記を諦めるのも惜しい。
人間というのは怖いもので、快食快眠後には、ほんの少し前に味わった恐怖を忘れてしまう。どうにかして日記を食わせられないか、そんな作戦を練り始めた。
危険なのは鏡、荒俣……念を入れて、固有名詞は全て仮称にする。
必死で百万字を書かなくてはいけなくなった理由は、適当に作り変えておけばいいだろう。目標文字数も、二百万字に変更だ。
一度書いたことで、採用できそうなテクニックには目処が立っている。
缶コーヒーも用意した。
書こう、昼までに一万字は行ける。
◇◆◇
『あなたの知らない二百万字の世界』
アッツー著
十二月十五日、午後六時四十三分五十七秒(二十四時間表記なら十八時)のことだった。
私は自宅のアパート(二階建てで十二部屋)の前で、直径三十三センチメートルほどの、赤い卵を拾った。
自部屋に戻り、リュックを投げ出して、床の上に卵を置く。
いつの間に卵が!?
自分の行動をゆっくり振り返り、ここまでの経路を辿ることで、謎の卵の入手先が判明した。
「ゴミ捨て場(アパートの前に設置されており、明日が廃品回収の指定日である)、それが答えだ」
その宣言が、全ての始まりだった。
殻に走る十二センチメートル弱の亀裂。赤い卵は、この瞬間、真っ二つ(二分の一が二つ)に割れる。
「な、なにが生まれたんだ?」
出て来たのは、銀光りする神々しい魚人であった。
「私を
「いいえ、違います。覚えがありません」
「なんと!」
神の名はサーモーン、体長一メートル五センチ。北欧では主神を務める高位の神だと言う。
北欧とは、ノルウェー、スウェーデンを始めとするバルト海沿岸の諸国を指す。
この国々の神は、伝統的に文字を食べる。
「二百万字を、用意せよ」
「ははあーっ!」
サーモーンの威光には逆らえない。
こうして私は、原稿執筆に奮闘することとなったのであった。
◇◆◇
ノッて来たぞ。
培った様々な技術が、自然と指先に湧き出てくる。出会いの場面も、ここまで改変すれば、叱られないだろう。
この後の実録記では、ネット小説をコピーして
本屋へ行く下りは、サーモーンの眷属が助けに来てくれる形に変えた。八本脚の蛸、オクトニプルが、参考本に代わって各種増文法を授けてくれる。
荒俣のリスタート・メソッドなどは羊が癇癪を起こす心配があるため、作中で触れないように注意した。剣夏美の会話偏重主義は、使った様子をそのまま記す。
恐ろしくはあっても、荒俣だけが問題となるのか、そこをどうしても確かめたかった。
もう一つ思い切って試したのは、作中作の挿入だ。
母をサルと名付けるまでを書いた『そうだ、サルにしよう』、こいつの一部を、改稿せずにそのままの形で書き入れる。
これは単なるコピーと違い、覚えていないだけで自作かと思われた。ラルサの反応で、その推測が正しいかがハッキリする。
七時間後の午前十一時、一万二千文字を打ち込み終わると、やっと肩の力を抜いた。
座り詰めでも腹は減る。昼は外で食べると昨日決めた。何があろうと、これは譲れない。
こんな切羽詰まった状況であろうが、優しげな店員の顔を思い出すと、俺の頬はだらしなく緩んだ。
◇
不貞腐れた様子とは、正に今の俺の心境そのもの。なんでだよ、こんなのねえよ。
サーモンバーガーが売り切れていたから?
――イエス。
座席に落ちたケチャップの上に座ったから?
――イエス。
奈々崎さんがいなかったから?
――これが最大のイエス。
さっさと食べて帰ろう。スマホを片手に、チキンバーガーを粛々と片付ける。チキンじゃ元気も半減だ。コケコケ。
“サル”の表示名に心当たりがなかった事実から、他にも忘れさせられた情報がないかが気になる。原稿を書く合間にもスマホのデータを調べたが、不安で何度もチェックしてしまう。
真っ先に見たのは、メッセージの履歴、こちらはほぼ真っ白に近い。大学からの連絡が、メールの履歴に残っているくらいだった。友人らしき差出人は皆無。
ボッチは忘却が生んだ幻想ではないか、そんな淡い期待もしてたんだ。瞬時に吹き飛んだけどね。メール相手が母親しかいないのは、動かし難い事実だった。
アドレス帳の登録名は多いものの、これは高校時代の知人がビッチリ入っているためだ。
かつて友人が多かったわけではなく、卒業時に皆で登録しあった結果で、最初から記憶に薄い名前もごまんと存在した。
一人ひとりを確かめるのも億劫なので、ザッと眺めて画像フォルダに移る。
「なっ、鏡!」
こんな物を撮った覚えは……ある。昨日のことまでは、忘れていなかった。
休講案内、バスの時刻表、課題の提出期限。自分のことながら、極端に実益重視の写真ばかりが続くのには呆れる。
食堂のメニュー、バイトのシフト表。
「えっ……?」
シフト表の書式には、覚えがあった。引っ掛かったのは、その中身、俺の出勤日だ。
十二月三十日まで、ほぼ隔日で丸が付いており、一月も五日から出勤することになっている。
つい先日、電話一本で首になった記憶と一致しない。そもそも、「もう来なくていいから」って……。
なんで来なくていいって言われたんだっけ。
経費削減は、自分が後付けした理由に思えてくる。なにせ今月に入ってからのバイト関連の記憶は、
着信履歴。そうだ、電話の履歴を見てみよう。
最新の通話記録は“サル”、それが三件続き、更に前にはステーキハウスの店長の名前があった。店長の名は十四件も連なり、ラストのもの以外は着信を無視したようだ。
電話に出なかった。いや、問題はそこではない。店長が連絡を取ろうとした原因は、嫌でも想像がつく。バイトをバックレたんだ。
コーラのカップには、もう氷だけが残る。
ズルズルと
「ちょっと!」
「あっ、すみません……」
若いサラリーマンらしき男性に肘で押され、呆けたまま脇に退く。
“奈々崎麗美 通話時間:二十二分”
知り合い、なのか?
アパートへ帰る途上、俺の眉間は険しく寄せられたままだった。
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