05. イクラのボクは出来る子なんです

『イクラのボクは出来る子なんです』

 アッツー 著


 目が覚めると、ボクはイクラに生まれ変わっていた。


「どうしてイクラと分かったの?」

「そりゃ、体か赤いからさ」

「赤いのは消防車じゃなくて?」

「丸いんだ! 真ん丸なんだよ。こんなにも丸いなんて!」


 イクラはロシア語から採られた言葉だ。日本ではシャケの卵をイクラと呼ぶが、本来は魚卵全般を指している。

 一粒バラしたものをイクラ、薄膜で繋がったものを筋子と称するのも日本独特の分け方で、ロシア人からすれば、どちらも“イクラ”である。


 どうしてボクは筋子じゃなくて、イクラなんだろう。

 一粒だから?

 二粒だと筋子?


 イクラに生まれて良かったのか、今からでも筋子を目指すべきなのか。

 頭の中を、無数のイクラが飛び交う。


 イクラだって構わないよね? ボクの中の天使が囁いた。

 イクラなんて、サイテーだぜ! これは悪魔。


 キリスト教ならサタンにデビル、それにデーモン、仏教ならマーラ。世界各地で様々な呼称を持つ存在も、日本語なら全て悪魔と訳す。

 ディアボロスというのはギリシャ語で、これも悪魔だ。


「悪魔の言葉に耳を貸してはいけません」

「キミは女神様? シャケ神様なの?」

「あなたはイクラ、世界で一つだけのイクラ。この世に一人だけ。たった一つのシャケの卵」


 イクラなのに、“一人”だって!?

 ボクはイクラなのか、人なのか。どうやって決めればいい?


 食べれば味で分かるけど、口が無いから確かめられない。だって、イクラだから。

 ボクはイクラに似ている。イラクは中東に在る。


「イラクはスンニー派よ」


 それは……どういうこと!?


◇◆◇



「書ける、書けるぞ!」


 快哉を叫ぶのも無理はないよね。まだ褒められたスピードではないけれど、山田の思い出にウンウンと拘泥していたことを思えば格段に速い。


 深夜三時にはプロローグを書き終わり、話は湾岸戦争へと突入した。

 既に四千二百字、朝には一万字も見込めるペースが、俺の闘争心を再点火する。やってやろうじゃないか、二万字。見てろよ、ミシン。


 砲弾を掻い潜るイクラバトルは、自分の好みにも合致した。好きなんだよ、アクション。能力バトルとか大好物で、何回も読み込んだな。コミックだけどね。

 戦火の中の逃避行、はぐれた女性兵士とのロマンス――。


「くっ、目に粘液が……」

「身体がパリパリじゃない! 早く水場に向かわないと!」


 敵に捕まった二人は絶体絶命のピンチに陥るが、そこは主人公の機転で乗り切る。アジトから脱出しようとする彼らへ、敵リーダーが銃を向けた。


「逃げられると思ったか!」

「おっと、頭の上に気をつけなよ」

「なっ、いつの間に!」


 イクラの仕掛けたトラップが発動し、敵の頭上へピンの外れた手榴弾が降り注ぐ。敵基地は、爆音とともに四散した――。 


 ノリにノッたの指先は、留まることを知らずキーボードを――叩かない。朝の六時、牛乳配達のバイクの音がアパートに近付く頃、原稿は六千四百字で止まっていた。

 スランプである。


「なんでだよ……あんなに快調だったのに」


 俺はまだ、黄金三法を学んだだけの初心者。

 字数を稼ぐには、「こうするべき」という基本ルールと共に、「これをしてはいけない」という鉄則もある。あともう少し、前以ってミシンたちの話に目を通すべきだった。


 もう一度、参考本をパラパラとめくった俺へ、太文字の警告が突き刺さる。

 絶対禁止の三戒スリー・コマンドメンツ、その一、全く知らない事柄を書くべからず。


 映画やアニメすらあまり見ない俺には、現代の戦場を想像することは困難を極めた。これが不調の原因だと、すぐに思い当たる。


 そういうことなら、今からでも資料に目を通さねばと、スマホの画面を忙しくタップした。

 イラクの風景すら怪しい記憶しかない俺は、動画サイトでニュース映像を視聴し、画像の掲載された戦争ルポを探す。


 アフガンやシリアといった戦地からの報道はどこでもトップ・ニュースであり、戦争をテーマにした創作物も非常に多い。実のところ、ネットから得る情報だけでも、資料としては膨大な量が存在する。


 中東の争乱に至っては、前線の攻撃ヘリから撮影された記録や、現地で取材を続けるジャーナリストの生々しい報告が、戦争の実状をこれでもかと伝えてくれた。

 焼かれる街、脚を無くした子供。テロで爆散した肉片の画像には、思わず顔を背ける。空腹を感じなければ、心は戦地に飛んだままだっただろう。


 時計は午前十一時を指していた。

 三戒の二、執筆中に他作品に気をとられるべからず。

 大掃除中に、古い漫画を読み出すと手が止まるアレだ。時間を浪費した上に、俺は自分の作品への情熱まで失ってしまった。


 この凄惨な現在も進行する人のごうを見て、イクラがイラクを救うなど、どうして書き続けられようか。オクラでもマクラでも無理である。


「こんなの、何の価値もねえ」


 オクラは北米ネイティブ由来の英語だが、それもどうでもいいこと。

 データ消去を選びかけた指を、辛うじて踏み止まる。戦災を侮辱するような作品でも、羊の眼を思い出すと消すのは躊躇われた。


 ノーパソの電源を落とし、悲痛な表情で自室を後にして、コンビニへ向かう。

 気分を変えなければ。

 唐揚げ弁当を食べ、四時間の仮眠を貪ってようやく、多少なりとも執筆意欲を取り戻すことができた。





 戦争物、こんなのに安易な気持ちで手を出すもんじゃない。

 題材選びの重要性が、俺にも身に染みた。書きやすく、自省を誘発しないテーマがいい。


「……でも、あと三時間くらいしかないじゃん」


 今さら別の作品を書き出すよりは、イクラの物語を軌道修正する方が現実的だ。


“行き詰まった話をよみがえらせる”


 荒俣彦々の著者で見た章タイトルに、一縷の望みをかけた。場所は後半、中級者向けに差し掛かろうかというところだ。


 手早くページを繰り、目的の項目を開けて、サーモンサンドを頬張る。最後の一個をコンビニで買えたんだ。幸運はまだ俺を見放しちゃいない。


“大切なキャラクターを殺してしまった。設定の矛盾が看過できないレベルになった。話が詰まる理由はいくらでもあるでしょう”


 俺のケースなら、展開が作者の能力を越えた、だろうか。


“しかし、投げ出すのはまだ早い。リスタート・メソッド、小説継続に、十の大技あり”


 作者が作中に登場して、強引に話を引っ張る「メタ化」。

 大幅に時間を経過させ、全てをうやむやに誤魔化す「未来化」。

 いきなり世界を司る神が現れて、高次の戦いに移行する「入れ子世界化」――。


 いくつもあるリスタート法の中でも、最大の破壊力を持つのが「夢化」だった。

 原稿の末尾に、俺は女神との会話を付け足した。



◇◆◇


「なんか、長い夢を見ていた気がする……」

「夢じゃないわ。いや、夢かしら」

「ボクはイクラ、シャケになるのが夢!」

「そうね、もう間違っちゃダメよ。お行きなさい」

「うん!」


◇◆◇


 これでリセット、また最初から始められる。

 仲間のイクラと交わす再会の約束。老タニシの教えと別れ。川の増水が引き起こす大ピンチ。日本の田舎を流れる川を舞台に、地味な成長を描く。もう銃器は登場しない。


 羊が顔を出したのは、ちょうど一万字を越した時だった。少しだけ待たせ、文末を整えると、ここまでの原稿を印刷する。


「出来立てです」

「新鮮なのはいいことだね」


 刷り上がった紙から、ラルサは言霊をプルプルと吸収していく。一万字を食べ切ると、恒例の寸評が告げられた。


「……リスタート・メソッド、使ったんだ」

「はい……マズかったでしょうか?」

「いや、うーん。あんまり嬉しくないと言うか。しかしまあ、キミは魚類が好きだねえ……」


 畳を蹄でトントン叩く様子は少々苛ついているように見えるものの、歯切れは悪い。小さな呟きは、ぶつくさと荒俣彦々への悪口を連ねているようだ。


 どう対応したものか迷う俺へ、ラルサは荒俣の『読ませる技術』を寄越せと言う。

 差し出された表紙の上に、羊の顎が乗せられた。震動が始まったのを見て、慌てて本を奪い返そうとつかむ。


「ちょっと! まだ全部読んでないのに」

「…………」

「放してっ!」


 一体、どれほどの重さがあるのか。文鎮代わりに置かれた羊の頭は、本を畳に張り付ける。俺の全力を以ってしても、ネジ止めされたかの如き単行本は、毛筋ほども動かせなかった。

 ラルサが体を起こした後には、書籍の残骸、白紙の束が残される。


「なんでこんなことを……」

「悪影響がありそうだからね。まだ二冊あるみたいだから、充分でしょ」


 荒俣の技術にラルサの機嫌を損ねる何かがあることは理解したが、詳しい説明を求めても、黒い羊は体毛をなびかせるだけで相手をしてくれない。


「あのさ、リスタートしないで話を書いてよ。美味しい方が嬉しいからさ」

「味の問題なの?」

「そそ。じゃあ、もっと張り切って書いてね」

「あっ! 今日の字数は?」


 ラルサが前脚をピョコンと立てる。


「一万と十二字。残りは九十八万五千七百八十字だね。また明日もよろしく」


 水面に飛び込むように、羊は鏡へ潜っていった。

 九十八万五千――。


 買ったばかりの本を消されたショックは、文字数の残量が癒してくれる。文句を付けて激減されるかと思いきや、書いた一万字は全てカウントされた。


 黄金三法は有効だ。リスタートを嫌がりはしても、削られてはいない。が悪い、その程度なら土下座でカバーできそうだけど……。


 可愛らしく喋っていても、どこか不気味で高圧的。そんなラルサが、今日はどうも勝手が違った。

 悩んでいた?

 いや、あれはもっと、都合が悪いとでも言いたげな。羊攻略の足掛かりが微かに見えて、また脳から掻き消える。


 馬鹿正直に書くだけでは、百万字は遠い。

 試すべきだろう。あれやこれやを羊に食わせて反応を観察すれば、そこに突破口が見つかるかもしれない。


 眠い目を擦り、無事な二冊の創作論を読む。重要な箇所には蛍光ペンでラインを引き、情報の補強にはネットも活用した。

 四日目の課題はバリエーションだ。出来得る限りの題材と文章形式で、餌を用意する。


 午前零時。

 最初に書かれた作品は、魚を扱った難解な詩であった。

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