04. 小細工
アパートの前に積んであった廃品は全て綺麗に回収されて、今は瓶類に替わった。
空き瓶は部屋に無かったよなあ、なんて考えながら、ゴミに埋もれていた鏡を思い返す。あれって、誰が出したゴミだろ?
単身者用の小さなアパートには十二人が入居しており、ほとんどが同じ大学に通う学生だ。鏡を持って、一部屋ずつ尋ねて回ることも考える。
別に誰かのせいだと、問い詰めたい訳ではない。それよりも、前の所持者も羊に会ったのか、百万字をクリアしたのかが聞きたかった。
相手に難癖を付けるのは、その後でいい。そりゃまあ、文句は言うよ。言わずにおけようか。
ただ、そんな聞き込みは、現在逼迫した懸念を解消してから。今夜の分の餌を書かなくては。自室へ戻ると、そそくさと改稿に着手した。
繰り返し増殖技法の他にも、すぐに適用できそうなテクニックがある。
本来は、ページの余白を拡大することで、読者に柔らかい印象を与える技法である。逆が
ラルサは“文字数”で勘定していたため、ページを稼いでも無駄だろう。しかし、文長の調整法は利用価値がある。
・ 俺はシャケが好きだ。
この表現では、字数が勿体ない。
・ オレは、シャケというものが、好きなのであった。
なんと十三文字の増加、同じ主張を述べていても、長さは倍以上になっている。
ここに、
・ 若いオレは、赤く魚臭いシャケが、異様に好きなのであった。
さらに、
・ 若いオレという男は、赤く魚臭いシャケ、そのキリミが異様に好物、つまりは好意の対象なのであった。
攻める時は徹底的に、情けは無用。
・ ああっ! 若いオレという「男」……くっ、男は、赤く生臭い“シャケ”!? その「キリミ」が異様に……好物で対象で好きであっただと――?
素晴らしい。これを三回繰り返して、最終原稿にしよう。繰り返し
俺は羊への質問事項を、チラシの裏に書き留める。
“ルビは字数に含まれるのか?”
もう一つ。
“四回繰り返してもいいのか?”
晩飯も取らず、俺は黙々と自作の改修を進めた。
◇
午後七時四十五分。
三千七百字だった「サーモン・ライク・ミー」は五千五百字に増え、それを三倍にすると一万六千五百字となった。
東野ミシンには及ばないものの、堂々たる一万字超えである。
各過剰法は意外に手間が掛かったため、全編に施すことは叶わなかった。代わりに、繰り返しは全ての行に対して発動済みだ。三倍効果を諦めるなんてもったいない。
「波々賀太郎」、それとも「アッツ・サーモン」、どちらのペンネームが良いか悩んでいたら、羊が鏡から登場した。
「今日の分は?」
「下手くそだけど、やり遂げたよ。これ、堪能して……ください」
今回こそ大丈夫と、目を閉じて祈る。瞼を開けると赤眼が怖いので、そのままラルサの声が掛かるのを静かに待った。
空気の張り詰めた長い十秒。前回は気付かなかったが、食事をする羊からは、ハム音に似た小さな
「まあ、昨日よりはマシだね」
「そうですか! じゃあ、これで一万――」
「四千二百二文字かな。もうちょっと用意できないの?」
「な、なんで!?」
これでは、過剰法で増えた分すらカウントされていない。説明してくれるように
「しょうがないなあ。二回は言わないよ?」
「お願いします、これじゃどうしていいか分からない」
すっかり土下座が板についた俺へ、採点方法が明らかにされる。
三回繰り返し、これは基本的に無効だ。行毎だろうが、章毎だろうが、重複して構わないなら、同じ話を複数用意すればいいだけだ。そんな横着を、黒羊が許すはずもない。
記号や言い直しの多用を圧縮されたのは、懲罰的カウントだと言われる。唯一、ラストの「山田はシャケに似ていなかった」三連だけは、強調表現として認められた。
実際、古い友人に魚類要素が微塵もなかったのは本当である。昔のこと過ぎて、記憶は定かではないけれど。
「ちょっと修飾過多だし、味は悪いけど、他はいいよ。ペンネームはダサいから別のにしなよ」
「あ、あの! ルビは字数に――」
「場合に依るかな。単なる振り仮名は要らない」
四回繰り返していいかは、とても質問しようと思わなかった。
こんな調子じゃ、いつ百万字を達成できるか分かったものじゃない。途方に暮れるへ、ラルサは叱責とも忠告ともつかない言葉を投げてきた。
「一日十万字、これくらいは頑張ればできるでしょ。小細工しないで、どんどん書かないとね」
「そんな事を言われても、書いてると頭が真っ白になってしまって……」
「ミシンだって、やれば書けたんだから」
机に置いた『書く物語』へ、羊は顔を向けていた。
「東野ミシンを知ってるんですか?」
「二百万字書くまで、三ヶ月くらい掛かったかな」
「二百万!?」
何を基準にしているのか知らないが、人によって要求する文字数は異なるようだ。それより、ミシンも羊に脅迫されていたことに驚きを隠せない。
作家デビューしたのは、二百万字を書いた後のことで、最初は泣き声ばかり言って困らせたらしい。一週間の七転八倒で何かコツを掴んだミシンは、そこから猛烈な勢いで言葉を紡ぎ、羊を満足させた。
人間、やる気次第で何とでもなるもんだよ。そうラルサは
「明日の夜には、ちゃんとした食事を用意してね。せめて二万字くらいは書いといて」
「…………」
分かりました、と請け負うのは、とてもじゃないが無理だった。
背を向け、鏡面に下半身を沈めた羊へ情けない声を上げる。
「ヒント! お願いします、何か書けるようになるヒントを!」
首を回したラルサは、机の上の本を蹄で指す。
「経験者の本、持ってるじゃない。ちゃんと読んでみなよ」
ここに助けが?
独りに戻った部屋の中、俺の存在を賭けた読書が始まった。
◇◆◇
『小説家になった私』より冒頭部分
剣夏美 著
ミューズは、ヒツジの形をしている。ワタシの耳元に囁かれる甘い誘い。
「ねえ、聞かせて。あなただけの物語を」
これが全ての始まりだった。
心臓の鼓動が早い。見てくれているの、ミューズ。待ってくれているの?
溢れる思いを、
愛らしい、でも情熱を秘めた緋色の瞳が、ワタシの背中を後押ししてくれた。
あの人は、タマゴが嫌いだった。好きなのはニワトリ。飛べない翼をはためかせ、それでも青い空を眺め続ける。
どう? こんな不甲斐ない鳥の話は。
ヒツジさんは、頭を震わせて続きを求めた。もっと、その先を。
そう。わかったわ。
心が少しだけ、チクチクと痛む。あの人のことを考えたから?
タマゴはワタシに似てる。ニワトリにはなれない。
ふふ、エッグサンドに挟まってるのがワタシ。誰かに食べられて、栄養となって身体を駆け巡る。
そんな目で見ないで、ヒツジさん。息が止まってしまうわ!
タマゴの話はこれからよ。
あの人はニワトリに似ていた。ワタシはタマゴに似てる。
ワタシはタマゴ、そう茹でたタマゴに似てる。
ああ、ワタシはなんてタマゴに似てるのかしら!
◇◆◇
「一緒じゃねえか! 絶対、タマゴサンド食ってただろ!」
どう読み返しても、これは俺と同じ境遇を記したもの。羊に無理難題を押し付けられたのが自分だけではないと知り、かなり勇気づけられた。
この『エッグ・ライク・ミー』が、後の大作家に成長すると思えば、希望も湧く。
しかしまあ、怖いよね、あの羊。心臓が止まってしまうですわ!
顔も知らない剣夏美に、ちびっとだけ親近感を抱いた。
他の二人の創作のきっかけも、今となって読めば羊のせいだと理解できる。
東野ミシン曰く、「何者かにせき立てられて、必死で文字を埋めだした」と。
荒俣彦々は、「鏡を見ていたら、書けと啓示があった」と言う。
どちらも比喩ではなく、ラルサの仕業に違いない。小説家デビューへの軌跡は、そのままノルマ達成への道を振り返って書いた記録だ。なるほど、これは確かに羊の言う通り、実践型の指南書であろう。
彼らが当初躍起になった“増文法”は、面白さや高尚さは二の次にして、まずどうやって字を量産するのかに焦点を絞っている。
苦闘の道のりを打破する手段は、三者三様だった。
剣夏美は、
東野ミシンは
荒俣彦々が作り上げたのが
深夜になろうという時間に焦りつつも、その
やるしかない。これで今夜は凌ごう。テーマを捻り出す方法を学ぶのは、次回の課題だ。ここはイクラで押し切る。
カップヤキソバとトーストを夜食にして、三晩目の戦いが幕を開けた。
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