06. 攻略
魚から魚人へ、魚人からアンデルセンへ、最後は泡の洗浄能力を讃える詩篇。そこに意味なんて無い。
ほとんどデタラメな単語の並びをラルサが認めるのか、その試金石に書いたものだ。
二つ目が、新入生としての一年を思い返して書いた日記風エッセイ。食事と授業くらいしか書くことがないことに、自分でも嫌になる。もっと古い子供時代も扱おうとしたが、記憶が曖昧だと題材には使いにくい。山田で思い出すのはシャーマン姿ばかりだしな。
サーモンサンドを見つけた喜びや、レポート提出の苦悩を淡々と綴り、二千字を稼いだ。
感想文、これは字数だけなら相当優秀だった。
テレビで見たバラエティーに、ネットの動画、今朝の中東の映像もネタにする。それぞれについて好き嫌いや連想した事柄を、とりとめなく書き殴った。文の水増しに苦労しなかったのは、剣夏美のおかげである。
彼女がエッセイで多用する
深夜二時にして五千七百字、過去最高スピードではあるものの、概要重複を羊が許すかが怪しい。
手を緩めることなく、俺は次に取り掛かった。
イグナスタール帝国のニルムスタイン市に住むガナハザイムルド家に生まれた八つ子が、イシュタース神を祀るラッテル・ロームナイク記念日に、それぞれ自己紹介を行う。長男はキルティレーズ・フォンブルク・ガナハザイムルド、以下、気の触れた名前を八男まで捻り出した。
剣夏美が最も得意とするテクニックで、
言葉遊び――これらにも
回文や駄洒落、なぞなぞに語呂合わせ。凝った遊びは、手間が掛かって自分の首を絞める。であれば、単純な字の連射で空白を撃つ。
◇◆◇
「あ」は「あなた」の「あ」、いつも驚いているのね。
「あああああああっ! あぁ……あああああああああああぁぁ!」
「い」は「いたい」の「い」、弱点は足の小指よ。
「いっ! いい! いいいいっ……いっ、いいいいいいいいいいぃー!」
腹を抱えた「う」が、「う」めき苦しむ。
「あ」に殴られたのかな?
「うぅっ! ううぅ……うっ! ううううううううううううぅ……」
◇◆◇
五十音を制覇した時、『あ、その重き一撃』の文字数は、感想文を遥かに上回っていた。
試したいことはまだ有るが、休息も
午前四時に一万二千字を達成したことで満足し、ここで一旦、布団に潜り込んだ。
◇
もうすっかり日も高い、翌日の昼前。鏡も見ずに電気髭剃りで顎をジョリジョリ撫でる。
黒羊の出入り口にはどうも顔を映す気になれず、鏡の無い生活に我慢するしかない。
その後、またも駅前の本屋、その二階へ出向く。荒俣の本は羊に食われた。そいつが補充されていないかを確かめに行ったのだが、棚は隙間が空いたままだった。
こんな時こそスマホの出番だ。現代社会にはオンライン注文なんて便利なものがあるし、それこそ在庫は小さな店より豊富だろう。今日、発注すれば明日にはアパートへ届くはずだから、忘れない内に済ませよう。
まずは腰を落ち着けるために、連日のドスバーガーへ入った。いつものサーモンバーガーを頼み、前回と同じバイトの女の子が運んでくる。
「こちら、ご注文の……サーモンバーガー」
「あっ、はい」
「…………」
俺と同い年くらいだろう女の子は、黙って俺を見下ろし続けた。胸の名札は「奈々崎」とある。
立ち去ろうとしない女に、俺は居心地悪く座り直す。サーモンバーガー好きってのは、何かマズいんだろうか。美味いのに。
「あの、何か……?」
「大丈夫?」
眉を
しかし、綺麗な人だな。こんな店の制服じゃもったいない可憐さだ。もっとこう文学的というか、可愛さの中に知性が煌めくというか。肩まである黒髪も、照明を細かく反射して自ら発光してるみたいに見える。
黙って見つめ返していると、彼女はぐいと顔を近づけてきた。や、ダメだって。羊とは違う意味で心臓に悪い。
「ちょ、ちょっと寝不足で……」
「サラダ、奢ってあげるわ。栄養摂らないと」
「えっ、あ、ありがとう」
突然の申し出に、まさかと疑う。しばらくして俺の席へ、本当にシーザーサラダがやって来た。運んだのはもちろん「奈々崎」さんだ。
「無理しちゃダメよ」そんな言葉を掛けられた気がするが、驚きが勝って上手く返事できなかった。
これが出会い、なのか。レタスを必要以上に咀嚼していると、次第に心が浮き立ってくる。
マジか。こんなこと、本当に起こるんだ。自惚れちゃいけないと思っても、頬の筋肉がだらしなく下がるのを止められない。
アドレスの交換は……先走り過ぎだな。せめて御礼くらいは言っとこう。店を出る際にカウンターに寄ってみるが、休憩に入ったのか、奈々崎さんの姿は無かった。
当分の間、昼飯はドスバーガーに決定にされる。
思わぬロマンスの予感に羊のプレッシャーもいくらか薄れ、足取り軽く次の買い物へと向かったのだった。
◇
運動も兼ねて、昼に駅へ通うのは構わない。だが、それ以外の朝と晩の食事は、なるべく外出せずに済ませたいと考えた。言うまでもなく、書く時間を確保するためだ。
日持ちのする食材とインスタント食品をスーパーで買い込み、両手に大量の袋を提げて帰宅する。
湯沸かしポットの湯も補充して、執筆環境を整えるとまた外へ出た。アパートの隣室から順番に、呼び鈴を鳴らして回る。
「すみません、ちょっとお尋ねしたいんですが――」
赤い鏡を知っているか、との質問に、皆は首を横に振った。
この午後二時の段階では約半数の五人が部屋におり、予想よりずっと多い。不在の住人には、また日が暮れてから聞けばいいだろう。
机の前に戻った俺は、その夜までに更に二つの短編を書き上げた。
あのサラダ、美味かったな。サーモンバーガーは最高だけど、サラダはそれに匹敵する味だった。奈々崎さんが奢ってくれたサラダだ、至高の一品に決まっている。単純な奴と笑いたければ笑え。
シーザーサラダについての解説文は、ネットで見た料理の歴史に関する記事をお話仕立てにしたものだ。メキシコでレストランを営むシーザー・カルディーニが作ったこのサラダには、彼の名が冠せられたらしい。
丸っきりのコピーは敢え無く失敗に終わったものの、辞典の記述を物語にした場合はどうだろう。史実を正しく書いたフィクションでなくていい。どうせ羊の晩飯なのだから。
俺はシーザーを、ローマ時代からタイムスリップした人物に設定した。
“サイは食べられない。俺はサラダを食う”
何だっていいんだ。それっぽければ。これで転移ファンタジーでも書けば長編にもなろうが、自分にそこまで求めるのは酷である。もう無謀な挑戦はしないって。
適当に料理知識を切り貼りして、二千字弱の掌編が出来上がった。
もう一編、これがラルサへの対抗策としては最も期待できる。
羊が登場してからの奮闘を事細かに書いたノンフィクション、一時間単位の仔細な日記といったところだ。
鏡を拾うところから始まって、攻略法を検索し、各種技法で執筆に挑戦する様子を描く。面白くなくていい、ただこの数日に起きた事実を書き連ねた。
記憶に新しい素材は、俺の指を快調に弾かせる。
何文字も必死に打ち込んだ経験は、決して無駄ではない。この“日記”にも、確実に努力の成果は反映され、四千字を越しても勢いは落ちなかった。
二本目に書いた過去の思い出とこの日記には、一つ大きな違いがある。ラルサ自身が登場する実録記、それが許されるかを知りたかった。
七時を過ぎたところで、休憩がてら再度住人の聞き込みに出る。幸いにも残る六人をつかまえることができ、これで全員の回答が得られた。
答えは全てノー、誰も鏡なぞ捨てていないと言う。俺は人物観察に自信があるわけではないが、不審な素振りを見せた人物もいなかった。
もっとも、捨てたのが住人とは限らず、近所から持ち込まれた可能性もある。警察でもない俺には、ここで鏡の来歴を探る手立てを失ってしまった。
原稿をプリントアウトしつつ、出所不明の赤い鏡を眺めて深く溜め息をつく。
「一応撮っとくか……」
見せる相手の当てもないまま、スマホのカメラを起動した。
午後八時――三回目のシャッター音が響いた時、鏡から黒い頭が盛り上がる。現れたラルサは、俺の手元を見て眼光を細めた。
「ボクを撮影しようとしても、無駄だよ?」
「いえ、鏡を撮ろうと」
「ふーん、ならいいけど。撮るのも触るのも禁止にしよっか、鏡」
「それじゃ掃除にも困るし……」
「床を掃く時くらいはいいよ。ボクも汚いのは嫌いだから」
ラルサ攻略、そう意気込んでいた心胆は、実物の羊にまみえて一気に冷え込んだ。こんな人外の魔物、人の知恵で敵うものなのか?
それでも、念入りに準備はした。結果を出さずして先へ進めない。羊の反応を明白にするため、七つの短編を一つずつ食べさせていく。
「コース料理の趣向だね」
「それぞれ、食べた文字数を教えてもらえませんか?」
「ん、いいよ」
まずは詩。
「また魚かあ。何本目だっけ、五つ? 六つ?」
文句、というわけでもないようだ。不味いとも無効だとも言われず、字数も減らされなかった。
大学生活のエッセイも、問題無し。
感想文は八百字の削減。粗筋紹介の一部が、「剽窃」だと判定された。文のコピーでなく、動画を書き起こしたものでも、ダメ出しはされるらしい。
固有名詞のオンパレードもOK。文字の連射は、半分以下に圧縮。
「こんなの、“え”の二十六乗とかでいいよ。機械的に書いたでしょ」
「すみません……」
「まあ、話は成立してるけどさ」
『シーザーサラダ物語』は、百字削ってカウント、予想より好成績である。変に史実に
一万九千文字を用意したうち、もう一万二千は食べてくれている。心なしか、ラルサの鳴き声も機嫌よく聞こえた。
ラストが、ここ数日の記録日記。刷った原稿に顎を当て、羊は頭を揺する。
「完全オリジナルです! ラルサさんも登場しますよ」
独り軽口を叩いて、間を繋ぐ。羊は沈黙したまま何も言わない。
「あの……日記でもいいんですよね?」
「結局、
「えっ?」
最初から、ずっと感じていた。赤過ぎると。
この羊の眼は鮮血の色――深く切った時に流れ出る、動脈血だ。
「小賢しい」
部屋の床も壁も天井も、眼の光が赤々と染め上げた。
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