02. 書けるかっ
とりあえず明日の午後八時までに
赤いプレッシャーがなければ、気持ちも少し落ち着く。
この羊が現れた鏡を割れば、一件落着なのでは?
そこまでしなくても、表面を覆ってしまえば出て来れないよね?
ガムテープを探して、戸棚を漁り始める。鏡にこれでもかと貼り付けてやろう。
そうすりゃあの謎の羊も、ベッタンベッタンに毛を絡ませて泣くかもね、はは。ぬいぐるみにビビるとか、大学生のすることじゃない。
「あ、そうそう。鏡を傷付けたら、
「しません」
いきなり背後から追撃とか、心臓が止まるわ!
振り返った鏡には、頭だけを出した羊がいた。赤眼は俺を射抜き、確実に正気を削られる。まさに邪羊、調子に乗った独り言を口にしなくてホントよかった。
しかしさ、鏡を割らなくてもやり様はあるよな。捨てればいいだけじゃん。ゴミはゴミ箱へ、鏡は元あったゴミ捨て場へ。
赤い鏡をタオルで包み、脇に抱えて外へ出る。軽装では震えそうな寒さだったが、小走りで廃品へ近づき、その山の上に鏡を置いた。
これでよし、と。
温かい飲み物も欲しくて、財布も忘れずに持ってきた。コンビニへと走ろうとしたその瞬間、アパートの前にあるカーブミラーが赤く光る。
「逃げようとか、ボクを馬鹿にしてるの? 鏡ならどこからでも出られるんだから」
足が震えるのは、冬風のせいじゃない。赤い視線が、俺の目の奥を貫いたからだ。
「ちゃんと部屋に持って帰って。大事に扱うんだよ」
「あ……あ……」
自らを邪羊と名乗ったくらいだ、ラルサが人を超える力を持っていて神出鬼没なのも当たり前。
理屈なんてどうでもいい。あの光は絶対に浴びちゃいけないと、それだけが俺の心に深く刻まれる。
「……部屋に戻り……ます」
「そう、素直なのはいいことだよ」
ゴミ捨て場に取って返し、鏡を持って階段を駆け上る。部屋に入った俺は、鏡面を上にして赤い鏡を床に置いた。
何に魅入られてしまったんだ?
とてつもないピンチなんじゃないのか、これは。
タイミングがいいのか悪いのか、スマホが胸ポケットで振動したのに肩を竦ませた。
メールの着信は、バイト先のステーキハウス、そこの店長からだ。
契約は更新しない、そうそっけなく書かれた文面が、中々頭へ入ってこない。あっさり首を切られたと理解したら、次はその原因が分からずまた何分か固まった。
いきなりの解雇通知には腹も立つが、この不景気な御時世、人員削減を図ったのだろう。
問い返そうとしたら、着信を拒否されていて苛立つ。振り込みはすると書いてあったので、これまで分の給料は貰えるみたいだけれど。
貯えはあるとは言え、羊と解雇のダブルパンチには動揺してしまう。まあ、バイトは新しいところを探せばいいか。あまり印象の良くない店長だったしな。
問題は羊だ。書かないと食うって、どういうことだよ……。
ともかくも、ラルサの言った課題をクリア出来るものなのか、検討だけはしてみよう。
「百万字……」
震える指でノートパソコンを開けて、電源を入れる。部屋に来てからというもの、この黒い文明の利器は、常にテーブルの隅を占拠していた。
ビビることはない。百万字書けばクリアだ。そう自分に言い聞かせている間に、起動画面は終了する。
ブラウザを立ち上げ、すかさず検索。
“百万字 話”
百万字が膨大な量なのは分かるが、具体的な指標が無いと見当もつかない。本で言えば、どれくらいなのだろう。
文庫本一冊くらい? いや、意外と書籍にすると少ない可能性も――。
“年末に読む話はこれだ! 百万字が短く感じるファンタジーの金字塔”
ライターが紹介する本のタイトルには、俺も見覚えがあった。
『サリー・ボッタ』シリーズ。近頃、第五巻が翻訳出版され、本屋で平積みされていた。映画化もした児童文学のベストセラーで、皆が知る名作中の名作である。
記事に
……あの分厚い一冊で、二十万字?
「書けるわけねえっ!」
俺だって、決して国語の成績が悪い生徒じゃなかった。どちらかと言えば、平均の少し上、優秀な方かな。
しかし、それも選択式の問題に救われている部分が大きく、記述式のテストや、大学のレポートでは四苦八苦した。読むのはまだいい、書くのが苦手なんだ。
“百万字 書く方法”
次の検索ワードはこれ。
さして期待していなかったが、結果がズラリと表示された。どうやら、百万字を書き連ねたい人間は、この世に多いらしい。
一番上からクリックして行き、役に立ちそうな情報かをチェックする。結果のほとんどは、物書き志望者へのハウツーだった。
“まず、プロットを組みましょう。起承転結や、序破急といった構成が有名ですが――”
やってられるか。もっとこう、直感的に字を埋める方法は無いのか?
“キャラクターを設定しましょう。最初に細かく決めることで――”
七面倒くさい。
“書きたいことを書く。これが継続の一番の秘訣――”
書きたいことは有りません。
“テンプレを利用するのも、一つの手段です。流行の型には、それだけ人気の理由が有り、まず真似してみるのも勉強になります”
『人気小説を書く十の方法』、そのエッセイに注目した。
長々と述べられる創作技術は、俺にはどうでもいい。テンプレ、小説の型。その言葉は、魔法のようにの耳には響いた。
“小説 テンプレ”
今度の検索も、大量にヒットする。
いきなり閉鎖空間に囚われ、命を賭したゲームが始まる“デスゲーム”ホラー。
転校生と幼馴染みが、主人公と恋の綱引きをする“三角関係”ラブコメ。
日常に現れる異世界空間で主人公が成り上がる、“日帰りレベルアップ”ファンタジー。
様々なジャンルを網羅する“テンプレ”の中から、最も長く書けそうなものをは選ぶ。異世界に生まれ変わり、一から成長していく転生物、それも人間を主人公としない“人外転生”だ。
スライム、馬、冷蔵庫に戦艦。生まれ変わる先は何でもいいらしい。脆弱な存在から始めると、少しずつ成長する様子を描くことで字数も稼げそうだ。
“ステータスやスキルリストを織り交ぜることで、ゲームのような取っ付きやすさを演出できます”
なるほど。参考になるなあ。
例として、豆に転生した主人公が、やがて最強の世界樹となる『種から始まる木人無双』のリンクが掲載されていた。
無料で読めるネット小説だが書籍化もされており、既に三十二巻を経てまだ完結していない。
リンクに飛べば、大量の文字がモニターに映る。これをコピーすれば話は早いが、あの黒羊が許してくれるだろうか。
「……イクラに変えよう。世界鮭になる感じで」
午後九時過ぎ。
隙間風が寒いアパートの一室で、キーボードを猛烈な勢いで叩き始めた。
◇
羊の嗜好でもう一つ気になったのが、電子データを食べてくれるのかという点だ。顔にも身体にも、USB端子らしき物は見当たらなかった。毛で隠れてたら知らないけど。
横着をして、徹夜で書いた
書き終えたのは朝の六時。そこから五時間寝て、俺は電機屋へと出掛けた。目当てはプリンターだ。
大学のレポートは生協で刷ればいいが、羊の餌は自室で準備したい。部屋にも自前のプリンターはあったが、もう壊れて動かないことを今朝確認した。
駅前まで徒歩二十分、大型量販店の四階にコンピューターの周辺機器売り場が在る。いつもなら、近寄ってくる店員は鬱陶しいことこの上ないが、今日は違う。
売り場を歩き回る制服の青年を掴まえて、俺の方から声を掛けた。同年代にも見える若い店員へ、テキパキと用件を告げる。
「プリンターが欲しいんだけど」
「いつもありがとうございます! プリンターの接続方法は――」
「USB、白黒、経済的で大量に刷れるやつ」
具体的な要望は、店員にとってありがたいみたいだ。ニコニコと機嫌よく俺を先導した彼は、プリンターの並ぶ棚まで案内するといくつかの商品を紹介した。
「白黒ですと、こちらのレーザープリンターがお勧めです。ランニングコストも安く、三万枚がドラム交換無しで刷れます」
「四万円か……高いね」
「いえいえ、インクジェット型は、インク代が高いですから。最終的にはこちらの方が得ですよ」
バイトを首になった身に、四万の出費は痛い。もっと懐に優しい商品はないのか、との要求に、店員は少し顔を曇らせた。
「今はどのメーカーの製品も、同価格帯でして……」
「最新型じゃなくていいんだよ。ボロボロでも構わないから」
「そんな酷いのは売ってませんよ……あっ」
いきなりしゃがんだ店員は、下の棚の奥から段ボールの箱を引きずり出す。角の薄汚れた箱は、明らかに他の商品より古い。
「三年前の旧型なんですがね、一台残って処分待ちなんです」
「それでいいよ。いくら?」
「一万一千八百八十円です」
「買った!」
キャッシャーへ箱を運ぶ店員の後ろを、コピー用紙の束を持って追いかける。自宅の床にも紙は散らばっているものの、量が有った方が安心だ。
配送に回そうと伝票を用意したレジ係を、このまま持って帰ると制止した。
「えっ、重いですよ?」
「大丈夫だって。紐をかけて」
「今なら配送料無料キャンペーン中でして――」
「すぐ要るから。重いくらい平気だよ」
羊の眼を思い出したら、プリンターの一台くらい気合で運べるさ。
クエスチョンマークを飛ばすレジ係も、しつこく逆らいはしない。持ち運び用の握りを付けて貰い、幼児並の重さのプリンターと紙を両手に持って、俺は帰路に就いた。
◇
汗を吸い込んだシャツを着替え、乱暴に梱包を解く。
指の肉は、握りの形に変形したままだ。まだ肩に負荷が掛かっているように感じる。
昨夜の成果は四十字×七十行、それが十二ページ。俺にしてみれば、合計で三万三千字を超える大作と言える。
一心不乱に書き上げた満足感は、未だに頬を緩ませた。
これを三十回繰り返すと考えると、確かにウンザリもしよう。それでも、これだけの文章を一晩で著したことは、生涯で初めてのことである。
最後の方では打ち込み作業にも慣れ、もっと効率良く字数をこなせそうだった。まずはこれで、羊の反応を見てみよう。
旧型プリンターも、接続に不具合は無く、用紙をセットすると快調な音を立てて印字された紙を吐き出す。
ガーッ、ガガガ、グガッ!
「ちょっと
昼間はいいが、夜に刷ると文句が出そうだ。寝る前に書いて、日中に印刷する。三十日で終了だから、大学が始まる頃には片付くだろう。
それに、データは手元に残るし。心の中では、今朝から妄想の芽が膨らんでいた。自分にも書ける。今まで試そうとも思わなかった執筆作業、やればできるという自信が生まれた。
刷り上がった原稿を束ねつつ、目は刷り上がったばかりの文字を追う。
「……クオリティ、高くね?」
“種から始まる木人無双”と比較しても、遜色が無いように感じられる。
これを発表したら、思わぬ収入と名声が手に入るのでは。ていうか、鮭にした方が面白いんじゃないか?
印刷が終わり、晩飯を買いにコンビニへ行く間も、弁当を買って帰って食べている時間も、頭の中では作家デビューの未来を描き続けた。
ペンネームを決めないと。ウェブ投稿のやり方は――いや、出版社に持ち込めばいいのかな。具体的な道筋を、また検索に頼って調べ始める。
バックアップもしておくべきだろうと、机に転がるメモリーカードを差し込んでみたが、認識してくれない。
必要な時ほど壊れるのが、機械の常。レポート原稿用に使ったUSBメモリーが、リュックの中に入れっぱなしだったと思い出す。
デイリーリュックのポケットを
“慧想社小説大賞 グランプリ副賞は百万円”
羊が現れたのは、午後八時ちょうど、俺がコンテストの規定を読んでいた時である。
「ん、今日はちゃんといるね。ご飯できた?」
「あっ、はい。どうぞ」
重ねられたコピー用紙を差し出すと、ラルサはその上に顎を乗せる。ブルブルと頭を震わせているのが、羊流の食事方法らしい。
最初、紙に変化は無いと思ったのは俺の勘違いだった。よく見ると黒い文字が次々と消えて、元の白紙に戻って行くのに気づく。
どれだけ非現実的に思えても、こいつはやっぱり常識外の存在だ。機嫌を損ねたら何をされるのか、分かったもんじゃない。
「ある意味、感謝してるんです。こんな機会が無かったら、本なんて書こうと思わなかった。自分でも、文筆の才能があるなんて――」
「静かにしてよ。食事中なんだから」
「そうでした。ゆっくり読んでください」
羊の揺れが止まるのを、引きつった笑顔で待つ。
絶賛、は期待し過ぎか。でも、「これは四十万字分のボリュームがあるね!」とか言われるかも。上手く行けば、百万字もずっと早く達成できる。
再び頭を上げた羊から、微妙に顔を背けつつ寸評を促した。
「
「パクリだね、これ」
「え?」
目を合わせなくとも、昨夜より
「オリジナルなのは、“イクラ”と“鮭”の四文字だけ。残り九十九万九千九百九十六文字。もっとちゃんとしないと、
「よ、四……」
言霊の邪羊に、劣化コピーは通用しなかった。
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