01. 鏡
親元を離れて独り暮らし、田舎街での生活にも慣れた。気づけば、あっという間に過ぎた半年だった。
「さむー……」
十二月の夜、下宿先のアパートへと冷えた街路を急ぐ。
今日のレポート提出を以って、冬の課題は全て終了した。五行も書くと休憩にスマホを弄る俺には、苦行でしかない作業だったが、それも終わり。
ラストのレポートは特に厄介だったな。今どき手書きが必須だとか言われて、右手を酷使させられた。
親指の付け根あたりがジンジン疼く。
後は出欠も取らない講座が、二つほど残るだけだ。他の学生より少し早い冬休みの始まりに、心も浮き立つ
これほど暇な冬は生まれて初めてかも。昨年は受験もあったし、友人からの誘いもそれなりにあった。合格祈願に初詣も行ったっけ。男ばかり五人組で。
こっちに越してからは、そんな遊び相手は出来ていない。名前を覚えた同級生もおらず、ボッチ道の極みである。何の加減か同郷の人間が全くいないんだもの、仕方ないや。
大学から歩いて十五分、二階建ての安アパートが俺の生活拠点だ。コンビニは近くにあるし、ネット回線もそこそこ早いから不満はないな。
隙間風さえなければもっと快適なんだけど、と外階段に足を掛けたところで足を止める。
「ん……んん? なんだろ」
なぜか
右の掌を
ガムテープでまとめられた段ボール、紐で固く縛った新聞紙や雑誌類。明朝の廃品回収に備えて、早速いくつもゴミが山積みされていた。
それら紙クズの下から、赤い端材が覗く。デイリーリュックを左肩に掛け替え、ブロック塀で区切られた廃品置き場へ近寄った。
しゃがんでよく見れば、ボードか何かの枠がはみ出ているのだと分かる。形も分からない廃品なのに、その深紅に心が奪われた。
直感ってやつかな。見逃しちゃいけないと感じた。
新聞や本の束に埋もれた
順に上の廃品を脇に避け、最後に重い単行本を退けると、底に置かれた板が現れた。
手から伝わる質感だけでも、安い品物でないことが直ぐに分かる。
精巧なレリーフが彫り込まれた硬い枠――
細かな傷や、擦り切れた角も作られた時代の古さを感じさせ、本物が持つ高級感を放っていた。
板をひっくり返せば、只の板でないことが分かる。赤い枠木に囲まれた滑らかなガラス。
「鏡か……」
片手で支えると、重さに腕が沈みそうになった。
枠とは違い、鏡面には傷一つ存在しない。ノート二冊分ほどの大きさの鏡には、無精髭を生やした俺の顔が映る。
我ながら汚い顔だなあ。髭の生え方が早くなってないか?
少し身だしなみに気を使わないと、女の子に敬遠されそう。
自室にある鏡は、掌より手鏡だけだ。洗面所に無いってのが不便過ぎる。
このアンティークの鏡、部屋に置いたらおかしいかな。
持ち主は気に入らなくて捨てたんだろうし、そう値打ち物ではないんだろうけど……勿体ないよな。
枠の色と、鏡面の輝きに惹かれる。どこか俺に相応しいような。部屋に置けば、きっとしっくり来ると思えた。
誰かさんが要らないなら、貰ってしまおう。
俺は鏡を抱えて、自分の部屋へと上っていった。
◇
カバンを放り、まずは晩飯。
冷蔵庫から余った野菜の切れ端を取り出して刻み、冷や飯を軽く解凍する。
「あー、肉気が無かったか……」
今から買いに行くのも面倒臭い。卵増量で蛋白質は補うことにしよう。
フライパンにいきなり卵を割り入れる横着料理で、手早く焼き飯を仕上げる。野菜ジュースのボトルと一緒にテーブルへ運んで、夕食の完成だ。
食事に取り掛かりつつ、床に投げ出した赤い鏡へと目を落とした。散らかしたプリントやチラシの上に鎮座する鏡は、天井の蛍光灯を反射して眩しい。
行儀悪く、左右の手を別の目的に使う。
なんかこの枠、汚れてるな。赤いから目立たなかったけど、染みが出来てる。
「つっ!」
裏向けるために枠を掴んだ時、鋭い痛みを感じて左手を離した。装飾に紛れて見逃していたが、鏡の四隅には小さな
右手に加えて、左手の親指まで怪我するとは。血が滲んだ親指を見て、慌ててティッシュの箱を探した。
こういう時に限って、箱の中身は
「あぁ、もうっ」
宙に浮かせた指先から、ポタリと血の
タイミングの悪い着信に焦りながら、画面の表示を確認する。
表示名は“サル”。ま、俺に電話なんて、サルだけだわな。
『もしもし? アンタはいつ帰ってくるの?』
「あー、ちょっと忙しいから。年明けには戻るよ」
『何よ、大晦日に帰れるかもって言ってたじゃない。いつになるの?』
「……四日くらいに」
『もうちょっと早くならないの! 大体、連絡するって約束したくせに、いつまでたっても――』
母からの説教染みた電話は、半月に一度のペースで掛かってくる。
波賀
マシンガントークを聞き流していると、一際大声で詰問された。
『ちょっと聞いてるの!』
「……あっ」
『聞いてなかったの!? 正月くらい、家でゆっくり――』
「また、今度……また……」
『なに? どうしたの!』
“サル”を怒らせると、本当に猿人化する。
だからと言って、これは――。
「また電話する!」
『ちょっと篤!』
ツーと鳴る切断音。サルの怒鳴る声など、もうとっくに意識から外れていた。俺の目は鏡に釘付けだ。
赤い枠に引っ掛けられた、小さな二本の脚?
脚は鏡面の内側から生えてやがる。鏡の真ん中には、黒く盛り上がる――頭だろうか。
推測は間違っていなかった。
艶光りする黒い物体が、鏡の中から姿を現す。まるでプールから上がるように、
光る体毛は、シルバーブラックとでも呼べばいいのか。黒い巻き毛、蹄の付いた四つ脚、大きさは猫と同じくらい。頭には渦状の角が二本、ナリは小さいがこれは――羊だ。
羊の顔が、俺へ向いた。
「契約者よ、我が
「えっ……ああっ!?」
喋る羊、ミニサイズ。もうどこから驚けばいいのか分からない。羊は尻を床に座らせ、前脚を浮かせて問い直した。
「聞き方が難しかったかな? 食べていいんだよねってことだけど」
「なん……?」
「契約したでしょ。
獣の蹄が、赤枠の鏡をトントンと叩く。
マズい、何か言わないと。何から聞けばいい?
羊なの? 違う、別に山羊でも構わない。
契約って何? 期間、頭金……。
いや、もっと大事なことがあるだろうよ。
「な、何を食べるの?」
「えーっと、そこから説明しないとダメか。どう言えばいいかなあ。存在?」
「そん……」
「消してあげる、御望み通りに」
羊の目が、鏡の枠と同じ深紅で染まっていることを、ここで俺はハッキリと認識した。
◇
土下座。
よくよく考えれば、俺の人生では初めての行為だ。今までロクに頭を下げたことのなかった俺だが、この時は流れる動きで畳に額を擦りつけた。
こいつの赤い眼は危険だ。頭の中で、本能がガンガン鐘を鳴らしてる。逆らっちゃダメだっていう警鐘を。
羊は自分をラルサと名乗り、焼き飯を食べていた。
「あんまり美味しくないよ。卵好きなの?」
「栄養バランスを考え……ました」
「そんなに縮こまらなくていいのに」
目を合わせさえしなければ、犬食い、いや羊食いするラルサは可愛らしい。電池で動く玩具のようだ。
だが、赤い
冷や汗が
「あの……」
「なに?」
「食べられたら、俺はどうなるんですか?」
「知らない。このヤキメシと一緒」
消化されるってことだよな。ヤバ過ぎるだろ。ここは懇願の一手だ。
「許してください。消えたくないです」
「えーっ、契約したのにぃ?」
「俺を食べる理由は? その契約とかはともかく」
「キミ、美味しいから」
やめて。
人肉が如何に健康に悪いか、どれほど生臭いかを切々と訴える。焼き飯なら毎日でも作る、チャーシューも入れる、他に食べたい物はないのかとも尋ねた。
「こんな不味いのいらないよ。キミ、なんか勘違いしてるよね」
「人生最大のピンチだと理解してます」
「いや、そうじゃなくてさ。ボクは肉とかは嫌いなんだよ」
「でも人を食べるんですよね?」
不平を言いながらも完食した羊は、俺に向かって濁音で嘆いてみせた。鳴き声も丸っきり偶蹄目だ。
目を見ないように視線をズラしたところ、ラルサの頬に付いた米粒に気づいて手を伸ばした。
「
「あっ、ありがとね」
ご機嫌取りでもゴマすりでも、何でもやってやらあ。でも赤い視線だけは勘弁してほしいので、顔は伏せておこう。
平に平にと下げた頭へ、羊は自身の嗜好を説明する。食べるのは人間の肉ではない。その人が持つ物語を味わうのだ、と。
「物語って?」
「紡いできた言葉、かな。書き、喋り、心に想ってきた物を、たくさん持ってるでしょ」
「言葉を食べる……」
なら、焼き飯じゃダメだ。羊が好むのは――。
「これ! 本、マクロ経済基礎の教科書!」
またもや獣の呻きが返ってくる。
「その本、臭いよ。鮮度が大事なの、分かる?」
「去年発行なのに……」
「さっきのヤキメシだって、一年放っておいたら、食べられなくなるでしょ」
著者が言葉を綴ってから、幾日も、何人もの手を経て書籍は生まれる。それでは食べられないのだと言う。
「じゃ、じゃあ! 俺が読み聞かせたら?」
「他人の言葉をなぞっても、単なる音だね」
「話を考えて喋るから、それなら?」
「
思いつきを口にしても、それは料理されていない只の食材。ラルサを満足させるには、
何とかならないのかと粘った甲斐があったのか、羊も多少の譲歩を見せてくれる。俺が知る由も無いが、この
欲しいのは調理済みの言葉。俺の代わりにするのなら、それなりの量が必要だそうだ。
「書けばいいのか……」
「美味しいのじゃないと、認めないよ。諦めたら?」
「どれくらい書けばいい?」
俺の顔をジロジロと見つつ、羊は何やら思案を始めた。前脚を小刻みに振っているのは、計算でもしているのだろうか。
部屋のあちこちに目を彷徨わせて待っていると、トンと一度、蹄が床を叩いた。結論が出たらしい。
「ん、百万字かな、それくらい。無理だと思うけどなあ」
「百……万!?」
ラルサ、またの名を
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