笑顔

「こわくは、ないんですか」


 そういてしまったのは、今よりもずっと幼い時分じぶんのこと。

 それなのに、そのときのせみの鳴き声や妙にずしりと重い夏の空気まで、はっきりと覚えている。

 もちろん、そのときの、あの人のいぶかしげなかおも。


「何がだ?」


 そのとき、その人は珍しく怪我をしていた。

 道場に通い出してからというものめきめき強さを増して、その頃には、そうそう怪我を負わせられる相手もいなかった。

 それなのにその人に怪我をさせてしまったのだから、申し訳ないのと誇らしいのとが半々に、誰も寄せ付けずに手当てをしているところに忍び寄った。

 すぐに気付かれて、丁度いいと言って手当てをしろと命令されてしまった。


「あの、でも…うちの薬を使わなくても、たくさん、持ってますよね?」

「ああ、あれな。効かねぇんだ」

「…え?」


 へへん、と何故か得意そうに笑って、その人は、わざとらしく眼を細めて付け加えた。


「誰にも言うなよ。言ったらひどい目にうからな」

「いっ、言いません、言いません!」


 おそろしげに笑ったのは、今なら勿論もちろんわかる、冗談だ。


 とにかくそうやっているときに、不意にぽろりとこぼれ落ちてしまった言葉が、それだった。

 すぐ近くにいるその人は、ついさっきおどされたばかりだったけれど思っていたよりも怖くなくて、多分、気がゆるんだのだろう。

 訊き返されて困ったものの、なんとなく、もっと言っても大丈夫だと思った。


「えっと…人、が」

「はあ? お前、人が怖いなんて言ってたら生きて行けないぜ? 山奥で仙人でも気取るつもりか」

「そうじゃなくて…怒られたり、憎まれたり、そういうの、こわくないのかなって…」

「ああ」


 それなあ、と頷いて、その人は、包帯を巻いた肩を、具合を確かめるようにゆっくりと回した。

 「敵」の多いこの人は、あの時分だってたくさんの悪意や敵意にさらされていた。今とは到底比べ物にならないとしても、子供が怯えるには十分な程度には。

 その人は、にっと、笑った。


「こわがったところで仕方ないだろ。手を出してくるようなら叩き潰しゃいいし、何もしないなら気にするだけ損だ」

「…ええ?」


 そんなことでいいのかと、拍子抜けしたのかがっかりしたのか、ついつい気の抜けた声を出すと、その人は、乱暴に頭をでた。


「こわいなら、離れてろ。そういったものから遠い生き方ってのもある」


 そんなもの、俺は興味ないけどな。

 そんな声が聞こえるような気がして、思わず、その人を見上げた。意地悪げに笑っていると思ったら、何故か、ほんの少しだけ、淋しげな口元が逆光に見えた。


「こわくない、です」


 これもぽろりとこぼれた言葉に、その人は、ゆっくりと優しげに、笑った。


 その笑顔は、あの夏の日の暑苦しい空気と一緒に、今もありありと思い出せる。

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