笑顔
「こわくは、ないんですか」
そう
それなのに、そのときの
もちろん、そのときの、あの人の
「何がだ?」
そのとき、その人は珍しく怪我をしていた。
道場に通い出してからというものめきめき強さを増して、その頃には、そうそう怪我を負わせられる相手もいなかった。
それなのにその人に怪我をさせてしまったのだから、申し訳ないのと誇らしいのとが半々に、誰も寄せ付けずに手当てをしているところに忍び寄った。
すぐに気付かれて、丁度いいと言って手当てをしろと命令されてしまった。
「あの、でも…うちの薬を使わなくても、たくさん、持ってますよね?」
「ああ、あれな。効かねぇんだ」
「…え?」
へへん、と何故か得意そうに笑って、その人は、わざとらしく眼を細めて付け加えた。
「誰にも言うなよ。言ったら
「いっ、言いません、言いません!」
とにかくそうやっているときに、不意にぽろりとこぼれ落ちてしまった言葉が、それだった。
すぐ近くにいるその人は、ついさっき
訊き返されて困ったものの、なんとなく、もっと言っても大丈夫だと思った。
「えっと…人、が」
「はあ? お前、人が怖いなんて言ってたら生きて行けないぜ? 山奥で仙人でも気取るつもりか」
「そうじゃなくて…怒られたり、憎まれたり、そういうの、こわくないのかなって…」
「ああ」
それなあ、と頷いて、その人は、包帯を巻いた肩を、具合を確かめるようにゆっくりと回した。
「敵」の多いこの人は、あの時分だってたくさんの悪意や敵意にさらされていた。今とは到底比べ物にならないとしても、子供が怯えるには十分な程度には。
その人は、にっと、笑った。
「こわがったところで仕方ないだろ。手を出してくるようなら叩き潰しゃいいし、何もしないなら気にするだけ損だ」
「…ええ?」
そんなことでいいのかと、拍子抜けしたのかがっかりしたのか、ついつい気の抜けた声を出すと、その人は、乱暴に頭を
「こわいなら、離れてろ。そういったものから遠い生き方ってのもある」
そんなもの、俺は興味ないけどな。
そんな声が聞こえるような気がして、思わず、その人を見上げた。意地悪げに笑っていると思ったら、何故か、ほんの少しだけ、淋しげな口元が逆光に見えた。
「こわくない、です」
これもぽろりとこぼれた言葉に、その人は、ゆっくりと優しげに、笑った。
その笑顔は、あの夏の日の暑苦しい空気と一緒に、今もありありと思い出せる。
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