最悪になる予定だった
「はぁ…」
本当に、ついてない。いや、自分が馬鹿だったのだが、それでも、これはやってしまった。
大里詩織(おおさと しおり)はいつもより一時間早い電車に乗って学校に向かっていた。すし詰め状態で。
いつもより早く登校したかった、というのは母親に言う建前で、ただただ、その電車を避けたかったのだ。
潰されないように胸の前で抱えている茶色の紙袋に視線を落とし、ため息をこぼす。
昨日の放課後、詩織は振られた。約一年間の片思いが玉砕し、泣きくれたはずが、無意識に手が動き、気付けば丁寧なラッピングが完成していた時には自分の未練がましさに箱ごと床に投げつけそうになった。
思い出してまた涙腺が緩むが、気を抜けば押しつぶされそうな電車が現実を教えてくれるのが救いだった。ある意味、この電車でよかったのかもしれない。
「次は~駅、~駅」
のんきな声が車内に流れる。次はオフィス街にある駅だ。おじ様たちが降りてくれるため、少し空くはず。そうホッとしたのもつかの間、開いたのは詩織の立っている扉だった。
気づいたときにはおじ様が押し寄せ、肩がぶつかる。せめて向きを変えたかったがそんな暇もなく片足が電車から降りてしまった。電車とホームの間で段差があり、膝からかくりと力が抜ける。
あ。やばい。これはこける。
「ちょっ先輩!!」
無意識に伸ばしていた手を誰かが掴んで、詩織はこけることなく電車の中に戻ることができた。聞き覚えのある声と、匂いで彼が本郷圭(ほんごう けい)だということが分かった。彼は相当焦っていたらしく、押し付けられた胸がドクドクと早鐘を刻んでいた。
背後で扉が閉まり、電車は再び動き出す。
「もう心臓止まるかと思いましたよ…」
「ご、ごめん。そして、ほんとありがとう」
詩織は肺が空になるほど息を吐き出し、力なく笑った。
そして、未だ視界が暗いことに気づく。
「え、えっと、本郷君、そろそろ大丈夫だから、離してくれないかな…?」
「え…あっ!!す、すみませんっ」
勢いよく離れた圭は手すりに両手で掴まりうなだれた。身長差が20センチほどあるため、うなだれた圭の顔が詩織には丸見えだった。頬を赤くして視線を泳がせている後輩になんだか微笑んでしまう。
圭と詩織は学校は違うが、部活が同じテニス部だった。男女の差はあれど、交流のある高校同士のためよく練習試合で顔を合わせていたのだ。
「てか、先輩、いつもこの時間の電車じゃないっすよね?」
「あー、まぁね。少し早く学校行きたくて」
昨日振られて先輩と顔を合わせたくないから、なんて情けなさすぎて言えるわけがない。
ふーん、と言ったきり、二人の間に沈黙が落ちる。電車のゴトゴトと揺れる音と、話し声が少しする。黙り込んでしまった圭に、何か話しかけようかと考えていた時、ふいに冷たいものが目元にあたった。
「ひゃっ」
「あ。冷たかったすか?なんだか、腫れてるみたいだったので」
「え。ほんと?」
「ええ。あんまはっきりと見えるわけじゃないですけど。なんかあったんすか?」
心配そうに顔を覗き込まれ、うっと言葉に詰まる。
「わ、笑わないでね…」
うまい言い訳も思いつかず、昨日の出来事を詩織は話した。一応断りをいれたが、笑われるだろうことは想像にたやすい。
笑いたければ笑え!
しかし、笑い声は降ってこなかった。
「…つまり、その手に持っているのは、渡すモノではないと?」
「え?あぁ、うん。丁度二切れ入れてあるから友達と食べようかなぁと」
どうしたのかと圭を見上げると、真剣な顔をして何か考えているようだった。
一体何を考えているのだろう。可哀そうすぎて掛ける言葉に迷っている、とかだろうか。まじめな彼だ、きっと先輩である自分を気遣ってくれているのだろう。
「次は~駅~駅」
そうこう考えているうちに、詩織の降りる駅が迫ってきた。
「それじゃ、またね」
そう言って、圭に背を向けようとした時だった。
「待ってください」
紙袋を持つ左手を掴まれ、詩織は向きを変えることができなかった。
「ど、どうしたの?」
「これ、俺にくれませんか」
「で、でも、これビターチョコで作って…」
「食べれます。先輩が作ったものなら、絶対」
圭は相当の甘党のはず。ここまでしてチョコを欲しがる理由が、詩織には思い浮かばなかった。真剣すぎるその視線に耐え切れず、逸らしながら頷き紙袋をおずおずと差し出した。
「ありがとうございます」
嬉しそうなその声に、たまらず詩織は扉が開いた瞬間に電車から飛ぶようにホームに下りた。
「先輩!来年は、俺への気持ちを込めたチョコ、作らせてみせます!」
「へ!?」
振り向いた先で閉まりゆく扉ごしに、耳まで真っ赤にしながらこちらを見つめる圭と視線が合った。
動き出す電車に合わせて自然と視線も流れていく。
電車が完全に見えなくなるころ、全身から熱が出てくるような感覚があった。
「な、なによ、それ…」
最悪なバレンタインになる予定だった詩織の、恥ずかしくなるような一日の始まりだった。
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