願い

 眼が見えなければ。

 耳が聞こえなければ。

 この世界がなければ。

 はじめから、出会わなければ。

 ――苦しまずにいられたのに。



 美術室の中は、空気がこもっていた。

 どうしてこう、たかだか十数時間締めきっただけでこうなるのか。いつも通りに窓という窓を開け放しながら、優貴は心中溜息をついた。


 まだ誰もいない。

 まだ、他の部活仲間が来るには早い。

 昼の暑さを予告するかのような日差しに背を向けて、椅子に座った。目の前には、100号のキャンバス。


 綺麗な青い空間。

 幻想的な世界。

 所々に見られる遊び心。

 ――優貴の、憧れて止まない技量、想像力。

 これが一人の手で描かれたなんて、信じられない。


 どのくらいの時間か、優貴はそれを見ていた。


「優貴」

「あ……おはよう」

「おはよう」


 戸口に立つ桐香は、何故か息を弾ませていた。立ちあがった優貴が、首を傾げる。


「走ってきた?」

「え? うん、ちょっとね。優貴こそ、どうしてこんなに早いの」


 とがめるような声音こわねに、わずかに眉をひそめる。

 この学校を描いた、自分の小さなキャンバスの前に移って、優貴は手を伸ばした。どの色を使うか、考える。


「いつも私が一番乗りだよ。珍しいのは桐香の方」

「えー、それってどういうこと」

「夏休みに時間通りに来たこと、今までで何回あった?」

「だって今日は」

「今日は?」


 水をんで絵の具を出して。筆を湿らせ、パレットにく。油絵よりも水彩が、優貴の好みだった。

 桐香からは返事がないが、えて無視することにした。

 絵に集中しよう。でなければ、壊れてしまう。ぎりぎりまでまっているキタナイ心が、あふれ出してしまう。


 ――出会わなければ。


「この絵、いつ完成?」


 肩越しに覗いているのがわかった。絵筆を握る手に、力がこもる。


 写すことしか出来ない絵だ。こんなの、失敗したっていい。大体、何のために描いてるのか。

 プロになるのに十分な才能も技術もないのに、嫉妬だけ一人前なんて、どうしようもない。   


「もうすぐ」

「優貴、仕上げが綺麗だよね。絵が生き生きしてくる」


 教室に、ぽつぽつと他の部員が入ってくる。いつも通りに部活が始まると、桐香も自分の絵の前に座った。天日油てんぴあぶらの匂いがする。


 ――出会わなければ。

 苦しまずにすんだのに。


 優貴が小休止に絵のない教室の前の方で話をしていたとき、それは起こった。

 破裂音、いで色とりどりの紙が降る。クラッカーだと気付くまでに、数秒かかった。そして、友人たちが口々に「誕生日おめでとう」と言う。

 優貴は、ただ呆気にとられていた。


「誕生日おめでとう。はい、プレゼント」

「…誕生日?」

「でしょ、今日」


 もしかして忘れてた?と、誰かが言う。優貴は、素直に肯いた。何人かが呆れ顔になる。だと思った、という声も聞こえた。


 桐香が言い出したんだよ、これ。


「朝一で来てクラッカー仕掛けとこうと思ったのに、先に来てるんだもん、焦っちゃった」


 笑顔で、桐香は袋を差し出した。綺麗にラッピングされた包み紙は、綺麗な青色をしていた。


「はい」

「…ありがとう」



 ――出会わなければ良かった。でも。

   会えて良かった。



 だからどうか、私の気持ちには気付かないでいて。

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