第三話 情景描写には細部に亘る観察眼が不可欠

(ここからは食レポのため、文体が変わります)


『本当に旨い店』は、店に入る前から既にそれらしい雰囲気を醸し出している。


 特に分かりやすいアイコンは「開店前から始まっている長い行列」だろう。

 営業時間内であれば、客の回転が悪いためにたまたま行列ができてしまうこともあるだろうが、開店前の場合は味を分かっている常連か、あるいは評判を聞きつけてわざわざやってきた者しか並ばない。

 それに、開店前の行列の客は大抵が笑顔である。

 営業時間中に来てみた時に思わぬ行列に出くわすとうんざりするものだが、開店前の客は最初から並ぶところも計算のうちである。その時間も込みで楽しんでいる。

 さて、それでは今回のレポートの対象である『龍のしっぽ亭』はどうかというと――開店寸前であるにも関わらず、店の前に私たち以外の人影はなかった。

 人気店は行列を見越して店の前に長椅子を配置しているものだが、それもない。つまり、普段から行列のできる店ではない、と分かる。

 それでも老舗と呼ばれる店の中には行列を好まないところがあるし、知られざる名店という場合があるので、行列がないイコール美味しくないとは必ずしも言えない。

 言えないが――私はここで一抹の不安を抱いた。


 行列はなくとも『旨いものを出す店』には、店構えからしてどこかしら風格がある。


 例えば「きれいに掃き清められていて誇り一つ落ちていない」とか、「読みやすい文字でその日のおすすめが書かれた案内板がある」とか、「開店時間になった途端に元気な声で店員が挨拶しながら出てくる」といった、客の期待を高めてくれる何かがある。

 ところが、『龍のしっぽ亭』はそれらをことごとく裏切っていた。

 店の前に前日のものらしいゴミの袋が置かれていて、ところどころ鳥が啄んだらしき穴が開いている。そこから微妙な臭気が漏れ出していた。

 案内板どころか開店時間の表記もない。前もって周辺の店から開店時間を聞いていたから、その時間の少し前に到着したのだった。しかも、質問した時の周辺住民の回答は、だいたいがこんな風であった。

「でも、いつもその時間よりも遅れて始まるから、待っていても無駄かもよ」

 実際、既に開店時間はとっくの昔に過ぎているが、扉が開く気配はない。念のためドアを引いてみたが、中から施錠されていて開かなかった。

 それよりも――中から「元気な声」というより、微かに「悲鳴」のような声が聞こえているように思えてならない。

 なんだか居心地の悪い思いをしながら待っていると、悲鳴のようなものは止み、それからしばらくして店の扉がおずおずと開かれた。

 中をのぞき込むと、顔が青ざめた若い娘と目が合う。

「あ――いらっしゃいませ……」

 最初の微妙な「あ」は、既に客がいると想定していなかったことを如実に表している。

 

 まあ、細かいことは気にしない店主というのもいる。

 少々汚い場末の店が思わぬ名店ということも、ないことはない。


 微妙に目の端が赤らんだ店員に案内された私たちは、店の奥にある団体客用らしき丸テーブルに腰を落ち着けた。

 ここで違和感を抱いた人がいたとしたら、かなりの事情通だろう。

 そう、食事を主目的とした店が丸テーブルを置いているケースはめったにない。というより、ありえない。

 丸テーブルはカフェや居酒屋などの「飲み物中心、つまみ少々」の店には向いているが、レストランの場合は皿が並ばないし、隣に座った者との距離感が取りづらいので、基本的に使わないものなのだ。


 いや、それも店主の演出の一つ、なのかもしれない。

 しれないこともないこともない。いや、どうなんだ。


 丸テーブルにはメニューが置かれていなかった。店員も特に何も言わなかった。

 そこで、人数分の水を持ってきた先ほどの店員に尋ねてみると、

「あ、その、うちは龍のしっぽ焼きしか出してないものですから……」

 という答えが返ってきた。

 普通であれば、メニューが単品という時点で「あたり確定」なのだが、どうにもそんな気分になれない。他のことが出来ないだけじゃないかと――


 いやいや、食レポで先入観は禁物だ。

 私は心を落ち着けるために、店員が置いていった水を飲んだ。


 ぬるい。

 致命的なほどにぬるい。


 これはもう私にとっては鉄則中の鉄則なのだが、最初に出された水がぬるい店は駄目だ。

 ここが異世界だということは理由にはならない。なぜなら魔法が存在する異世界なのだから、氷結魔法さえ使えば問題解決である。それすら怠っているということは――後は推して知るべしであろう。 

 しかも、私が眉をひそめているところに三十人ぐらいの団体客が入ってきた。

 しかも大きな荷物を抱えた観光客で、時間に余裕のない詰め込みツアーであちこち連れ回された後らしく、表情が疲れていた。

 これはもう、いわゆる大当たり確定演出(この場合は外れのほうだが)――盛大な七色背景と金文字で、ここが期待外れの店であることを予告していた。

 団体客が来るのだから有名店なのでは、という疑問をお持ちの方もいるかもしれない。

 まあ、百歩譲って過去にはそうだったのかもしれないが、現時点でまともな店とは言えない。一度に大量の食事を提供することが出来る時点で、出来合いの食材を詰めただけの大量生産方式に決まっているのだから。


 私は正直、ここで「今回のクエストは終わった」と覚悟した。


 さすがにまずい料理の食レポなんて読みたい者はいないだろう。

 ここの食事代は取材費ではなく、事後の成果報酬の中に含まれる契約だから、ただの自腹である。座る場所を決めるだけなのに大騒ぎしている団体客を見つめながら、私が落ち込んだ気分でいると、


 私の背中の方からえもいわれぬ香りがしてきた。


 一瞬、レストラン内の客の動きが止まる。静寂が逆に耳に痛い。

 あれほど大騒ぎしていた団体客の視線が、私の背中の方に集中していた。

 私はゆっくりと振り返る。

 すると、先ほどの店員が皿を捧げ持つようにして歩いてくる。立ち上る湯気の向こうにある彼女の顔は白く、さながら神前で緊張する巫女のような面持ちである。

 それよりも、彼女の動きにあわせて周辺に拡散している香り――胃を持ち上げてからバックドロップの要領で後方に叩きつけたかのような衝撃が、私の胃に走る。

「お待たせしました……龍のしっぽ焼きでございます……」

 そういって彼女は私の前に、その奇跡の一品を置いた。


 白い皿の上には、直径十五センチほどの輪切りにされた厚みが五センチはありそうな丸い肉が置かれている。

 輪の端の部分、龍の皮膚に当たるところは鱗が落とされていて、普段は深緑色をしている表面は、こんがりとした狐色に変わっていた。

 しかもその皮には、いかにも食べた瞬間にぱりっと音がしそうなほどに、具合のよいひびが入っている。

 皮の下、脂肪層と思われる部分にはよい具合に熱が通っていて、わずかに透き通っている。油が熱で溶けたのだろう。

 周辺にじわりと広がっている肉汁も、それが源泉に違いない。

 その脂肪層の下には、ピンクから赤までのグラデーションを帯びた層がある。

 ここはしっぽの筋肉部分に違いない。

 焼きすぎて堅くならないように、火加減を絶妙に調整したであろうことが分かる。

 中心には白い骨がのぞいており、その中心にはゼリー状になったずいが顔を出していた。


「冷めないうちにお召し上がりください……」


 そう言って店員が私にフォークとナイフを、歯の方から差し出す。

 歯のほうではなく柄のほうを差し出すのが礼儀ながら、その時の私にはそれを指摘する余裕すらなかった。

 震える手で受け取り、

 両手に持ち替えて、

 速やかに切り分ける動作に移行する。

 その場の全員の視線が、私の手元に集中しているのを感じた。

 ナイフが端の皮のところに差し込まれ、


「ぱり」という音が店内に響き渡る。


 盛大なため息が漏れた。まるで王国一の歌姫の声を聞いたかのような切なさである。

 ナイフは皮の部分の軽い抵抗感だけを感じさせつつ、その下の脂肪層から赤身の部分までを切り分けている。

 圧倒的な柔らかさ。

 それとともに決壊したダムからあふれ出すようにしみ出てくる肉汁。

 嗅覚、聴覚、触覚、視覚をすべて持って行かれる愉悦。

 これはもう残された味覚に期待するしかあるまい。


 私は切り分けた肉の一欠片を口に含む。


 そして、肉は最初からそう運命づけられていたかのように、溶けた。

 口の奥、頬の奥の方からじわりと、最初に甘みが、その後で旨味が上がってくる。

 それが痛みを感じさせるほどに――旨い。

 皮の部分の軽い歯ごたえ。

 脂肪層は淡雪のような食感にもかかわらず、油の濃厚さを伴っている。

 赤身の部分からは適度な歯ごたえの後で肉の旨味がじわりと漏れ出している。


 私は一心不乱に手を動かした。

 私は無我夢中で口に運んだ。

 私は茫然自失しながら味わった。


 気がつけば私の仲間や団体客にも料理が行き渡っており、誰もが会話をすることもなく、ひたすらに手を動かし、口に運び、味わっていた。

 次第に小さくなってゆく肉片。

 徹夜覚悟で読み進めていた本の、残りのページを確認するかのように、私は終わりの予感に責めさいなまれながら、それでも手を動かす。

 そしてとうとう最後の一口を喉の奥に落とし込むと――


 大きくため息をついた。


 *


 と、そこで急に、空気を読まないことが遺伝子レベルでさだめられているかのような獣耳女盗賊が、釈然としない顔でこう言った。


「確かに美味しいけどさあ。なんかおかしくない?」

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