Episode08:被害者

 薄く延びたいわし雲が空全体を覆っていた。暮れかけた日が空全体を赤紫に染めてゆく。冷たく渇いた風が、色付き始めた街路樹の葉を大きく揺さぶった。夕暮れ時になって、更に気温が下がってくる。本格的な秋がもう、すぐそばまで来ているのだ。

 便利屋一ノ瀬の社屋まで、五人はワゴンとトラックに分乗して向かった。本来なら、日が沈むギリギリまで作業をしているはずなのに、予想外の出来事があって作業中断。全身筋肉痛のながれにとっては、少しありがたかった。

 連日の作業でぐったりと疲れ果て、なぎさは後部座席で寝息を立てている。助手席の流も、少しうとうとし始めた。


「おい流、なぎさに聞いたぞ。作業が殆ど進まなかったそうじゃないか。何か考え込んでいたようだったって。まさか、あの遺体のことを未だ引きずっているんじゃないだろうな」


 十分ほど車を走らせた辺りで、田村が切り出した。


「いや、それもあるけど」


 流は目をこすりながら、車窓に肘突いて窓越しに流れる景色をじっと眺め、答えた。


「俺の知らない、誰かの思い出とか、そこにあったはずの人生だとか、そういうものが頭を巡るんだよな。なぎさは『割り切って考えろ』だなんて言ってたけど、俺、そういうことできるほどまだ器用じゃない。普段は全然考えたりしないのに、あの場所にいると目の前に見える気がするんだよ。あの部屋の持ち主がさ」


「同じように、ゴミ処理場で死んでいたあの子にも、人生があるはずだった」


 さらりと言ってのけた田村の一言が、流の心を串刺しにする。また例の映像が流の脳裏に浮かび、彼は思わずぎゅっと目を閉じた。


「いくら時代が進んでも、人は母親の身体から産まれ、いずれ死ぬ。それは変わらない。愛情の有無に関わらず、生まれた子供には生きる権利があるし、死ぬまで幸せに生きる権利があるはずだ。だのに処理場のあの子は、生まれたままの姿で放置されて死に、あのアパートの住人は遺品を引き取る親族もなくどこかで死んだ。世の中、無常なもんさ。それでいて、幸せなヤツはどこまでも幸せで、こんな荒んだ世界が広がってるだなんて知りもしない。──流、お前、自分が一番不幸だなんて思うなよ?」


「な、なんだよいきなり」


「お前の親が刑務所にいることは、社長から聞いた。なぎさの親もそうらしいな。どんな過去を背負っているか、俺は知らん。だけど、自分だけが不幸だなんて絶対思うな。世の中には、自分より酷い境遇、酷い環境で生きてるやつがごまんといる。下を見ればキリがないが、上を見てもキリがない。人生てヤツは、それほど不条理なもんなんだ」


 視界の先にある商店街には、少しずつネオンが光り始めていた。薄暗い景色の中で幻想のように漂う赤や黄、青などの光の粒は、交錯する車のテールライトやヘッドライトと混じって、よりいっそう美しく光り輝いていく。立ち並ぶ高層ビルの窓の明かりは光の波を作り出し、その起伏の合間をいくつもの光の粒が駆け抜けた。


「俺も、若いときは自分が一番不幸だと思っていた。今のお前か、それ以下か。──経験を積めば、人間は変われる。お前もいつかきっと、今、自分の目の前で起こっていることが自分自身を作り上げていくんだと実感する日が来るさ。その日まで、辛抱するんだな」


 田村の話は、どこか哲学的で、曖昧だ。決して話の核心には触れず、ただ自分の心にある想いを漠然と伝えているようにさえ思う。それでも、その日の流にはなぜか響き、黄昏に浮き出る夜景とともに心の奥底まで染み込んだ。

 車は郊外の住宅地を抜け、商店や事務所の立ち並ぶ賑やかな通りに出た。眩しいくらいにチカチカと光るネオンや街灯、昔から変わりないせわしなく走る車の群れが目の前に現れると、それまでノスタルジックな気分に浸っていた流もシャッキリと目が冴えた。夕闇とは関係なくガンガン響く音楽に、暴力的なまでに降り注いでくる光の嵐。一気に現実に引き戻されていく。

 どこもかしこも、人、人、人。道行く人、店で買い物する人、立ち止まり話し込む人。サラリーマン、OL、学生……。窓を閉めていても、それらの人の話し声が全て聞こえてきそうだ。

 通りの中央にはビルの壁面を使った巨大ビジョン。ニュースやバラエティ番組の画面が幾重にも重なり、空の上にテレビが浮いているようにさえ見える。


「ここはいつでもデリカシーがないな」


 田村は言って溜め息をつき、左にハンドルを切った。

 その直後、それまでの道に大きな黒い影が覆い被さり、何かが通り過ぎていったのを、流も田村も気付かずにいた。



 *



 事務所に到着する頃になると、すっかり暗くなっていた。商店街と住宅地の間、ネオンの届かない郊外の事務所の明かりは、その近辺では一番明るく見えた。LEDライトになり損ねた電柱のパチパチした明かりの下を通り、事務所の駐車場にワゴンが入ると、待ってましたとばかりに先に到着していた康司こうじが一階の窓から手を振った。


「おい、流! 刑事さんが来てるぞ!」


 刑事さん、と聞いても、流はピンとこなかった。


「岬刑事のことじゃないのか。あの事件のときにいた、美人の刑事だよ」


 田村に言われ、ようやく思い出す。流は慌ててワゴンから降りると、事務所に駆け込んだ。

 道具や書類が無造作に置かれた事務所の奥、応接セットに座った女の後姿が見えた。あの真っ直ぐなストレートの髪は、よく覚えている。

 流と、眠気まなこをこすりこすりするなぎさを抱えた田村が事務所に入ると、


「おう、ようやく来たな。流、田村も、まず座れ」


 一ノ瀬がいつになく真剣な顔で二人を呼んだ。なぎさを事務室隣の休憩室の畳に寝せ、流と田村は渋々奥まで進んだ。一ノ瀬の合図の通り、岬の前へと腰掛ける。

 彼女は最初にこやかな顔で挨拶したが、すぐに表情を凍らせた。


「実は、あの日あなたたちが見たあの乳児遺体の母親が見つかったの」


 思ってもみなかった台詞に、流と田村は互いに顔を見合わせた。それは、よかったのか、それとも悪かったのか、どう反応したらよいのかさえ分からない。ただごくりと唾を飲み込むのが精一杯。


「しかも、遺体でね」


 ──わっと、流が大声を上げた。思わず身体全体を仰け反らせた。

 田村も口を開けたまま、目玉を右往左往させている。


「ど、どういうことですか。母親は、自殺した……」


 と、田村。


「いいえ。他殺よ。しかも、バラバラ遺体で発見。夜のニュースでこれから流れるはずだわ。発見場所は金属ゴミの集積場、廃車置場。三箇所に分散して、今朝方から昼にかけて発見されてる。どれも、一ノ瀬の現場の事件や総合リサイクルセンターでの資源ゴミ盗難事件を受けて独自調査を行ったところ、発見されたらしいわ。──それから」


 岬は小さな応接テーブルに広げられた写真の一つを指差した。


「これ、見て。遺体発見現場付近の監視映像よ。この、黒いの、なにかしら」


 ゴミ処分場の均等に並んだガス抜き管と、その下に広がるゴミの大地、その中に小さく見える白いものがくだんのレジ袋であろう。その、真上。夕闇に不自然に浮き上がった更なる黒。ピントが合わず、ぼんやりと霞んでいる。

 雨雲のような、それでいて、無機質な黒い影は、連続写真の数枚にだけうっすらと写っていた。


「なんだろう」


「なんですかね」


 写真をじっと除きこむ二人の後ろで、一ノ瀬が腕組みをしながら、


「刑事さん、こりゃ、うちらの手に負えませんよ。少なくても長い経験上、こんな変な物体は見たことがない。監視カメラの映像だから、全体像も映っとらんし。画像分析の専門家にでも頼んだ方が早いかもしれませんよ。──で、その母親と思しき女性の身元は判明してるんで?」


「いえ。それがね。手がかりになるものがないのよ。全裸で、顔も判別できない。歯の治療痕で見つかるかどうか。今、捜索願のリストと照らし合わせてるところよ」


「しかし、母親まで殺されたとなるとなァ。あの赤子も報われんなァ」


 薄い頭をぼりぼりと掻く一ノ瀬の後ろから、つけっぱなしのニュースの音がする。写真とにらめっこしながら、溜め息を何度もする流。二人の会話と、テレビの音声が頭の中で交互に響く。

 もやもやする。あの、報われない小さな手のひらを思い出せば、岬の淡々と語る事実にどうしようもなく怒りがこみ上げてくる。怒りというより、それは憤りなのか。田村が車で言った「幸せになる権利」だなんて、そこにはあったのか。


『ここで、臨時ニュースです』


 テレビ画面で、緊急を知らせるチャイムが鳴る。それまでの経済ニュースから突然画面が切り替わり、見慣れた繁華街が映し出された。


『今日午後六時半頃、──区の繁華街に何者かが侵入、通りに面した商店数軒がなぎ倒され、通行人と、自動車数台が巻き添えになりました。けが人のはっきりした人数はわかっていません。目撃者の話では、黒い影が通り過ぎ、気が付くと全てなぎ倒されていたということです。警察と消防は……』


「あれ、さっき通ったとこだ」


「そうだな。丁度、俺たちが通った後だ」


 壁掛けのテレビ画面に釘付けになった。惨劇の始終が生々しく報じられ、画面のあちこちに赤い血と赤いランプが見え隠れした。


「黒い……影って、言ってたよ」


「だ、なァ」


「ま、まさかな……」


 写真を握り締め、流はぐっと唾を飲み込んだ。

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