Episode07:形跡
「廃屋撤去は危険を伴い、精神的にも肉体的にも大変な作業だ」なんて幾ら言われても、実際作業に入るまで
生活観がのしかかってくる。住人が消えた日から止まったまま何年もなりを潜めていた時間が、撤去作業と共に少しずつ動き出していくのだ。色あせたカレンダー、カーテンや畳、壁の染み、食器や衣類まで、住人の残した思い出があちらこちらに見え隠れする。リサイクルしようにも出来ないたくさんのゴミが新たに発生していく。
一号室から十号室まで、四と九を飛ばした全八室、一号室から順に荷物を運び出す。流となぎさがごみを分別し、それを
地道な作業、思ったよりも作業が進まない。涼しい風が入り込んでくるものの、ほこりが舞い、マスクとゴーグル無しでは作業できない室内で、もくもくと作業を続けるのはただでさえ根気が要る。それだのに流の手は、数分前から止まったままだ。
「流君、文字は読んじゃダメだよ」
なぎさが言う。
流ははっとして、日記帳らしきものから手を離した。ミミズののたくったような老人の字で、毎日の食事が記してあった。ページを進めるにつれどんどん貧しくなっていく食事と、少なくなっていく文字数に、流は記憶の中の何かを重ねていた。
「誰かの記憶の中に入り込んだら、抜け出せなくなる。割り切って考えるしかないんだよ。これはあくまでもゴミ、所有者のないゴミなんだって。誰か必要としている人がいたら、今までこんな風に放置されてるわけないじゃん。このまま放置され続けるより、私たちがきちんと分別してリサイクルに繋げてあげる方が、よっぽど幸せだと思うよ。──はい、分かったら、仕事仕事」
「……結構、非情なんだな、なぎさは」
流は目を潤わせて、作業を続けるなぎさを感心したように眺めた。
「あのね、流君、手は止めないの。作業が滞っちゃうじゃない。それに私が非情なんじゃなくて、この世の中が非情なのよ。自分の親も兄弟も、どこでどう生きようが死のうが関係ないって思ってる人、増えてるよね。ま、うちの親も流君の親も、今は刑務所だし。お互いどんな生活をしてるかなんて考えたこともないわけだけど。希薄なんだよ、それほど。人間関係ってやつが。分かる?」
「う、うん……まぁ、分かるっちゃ分かるけどさ」
「分かったら、仕事ってさっきから言ってるじゃない。まだ二号室だよ。あと六部屋あるんだからね。私たちの作業が遅くなったら、その分康司君や川岸さん、田村さんの仕事にも響くんだよ。ちゃんとやろうよ」
なぎさの真剣な瞳に圧倒され、流は渋々と作業を始める。棚の中、賞味期限のとうに切れた缶詰、しなびた菓子、妙に小奇麗な茶道具……。確かに『誰かが生活していた』跡がくっきり残っている。
彼女の言うように、『人間関係が希薄』なんだ。だからこそ、こうやって、どこにも行き場のない思い出が蓄積されていく。何もそれは、ここの住人たちだけに言えることじゃない。自分自身も、血の繋がりを断ち切るようにここにいる。一ノ瀬に引き取られたときから、自分は今までとは違う人生を歩めると、親とは係わり合いになることは金輪際ないと、そう信じていた自分を思い出した。
流が一ノ瀬に引き取られたのは、五年前の春のこと。初めはなかなか懐けなかった。いけ好かないオヤジだと今でも思う。それでも一緒に過ごしてこられたのは、子供のいない一ノ瀬夫妻が本当の子供のように、自分や自分と同じように養子にとられた孤児たちと接してくれるからに違いない。なぎさもその一人。児童虐待が原因で刑務所に入れられた両親と離れ、施設で暮らしていた二人は、一ノ瀬と出会い、引き取られたことで一人前の人間になるための道を開いてもらったと今でも思っている。
ぶっきらぼうで心地いい愛情を注ぐ一ノ瀬と、記憶の中の本当の両親があまりにも違いすぎて、どこまでが現実でどこからが虚構なのかさえ分からなくなるほど──、充実していた。
まだ幼かった時分、言葉に出来ないほどの悲しみと貧しさがあったことだって、こうして誰のものとも分からぬ日記を読むまで、思い出せやしなかったのに。『精神的にも肉体的にも大変な作業』と言って、一ノ瀬や田村が作業をさせたがらなかったのが、今になって分かる気がする。
「あ、また。手が止まってる。ダメだよ、流君」
またもなぎさの声に気付かされ、流は慌てて身体を動かした。
「いつもの流君らしくない。こんな作業くらいで参ってたら、これからもっとヤバイ物件行かなきゃいけなくなったとき、どうすんの」
ダンボールに瀬戸物を片付けながらなぎさが言う。
「ここはいいよ。人が完全にいなくなってから十年近く経ってる。人の気配もすっかり消えて、モノだけが残ってる状態だから。これがさ、『昨日死体が見つかりました。死後一週間です。腐ってます。蛆や臭いが酷いけど苦情が多いので、何とかしてくれませんか』って依頼もあるんだから」
「ま、マジか」
「そういうのを何とかしてるのがベテランの田村さん、中堅の川岸さん辺りだよ。あの二人には足向けて寝られないんだから」
「──そういえば、田村さんが言ってたな。『密室の中で腐り果てた人間を見たことがある』って」
「そゆこと。だから、こんなところでつまづいてちゃダメ……と、川岸さん。どしたの」
二号室の入り口で、川岸が汗だくになってこちらを見ていた。
小柄な川岸は、被っていた帽子を脱いで頭を何度もタオルで拭い、持ってきていたペットボトルをがぶ飲みしながら、流となぎさの会話を立ち聞きしていたのだった。
「いや〜、仲がよろしいな、ご両人」
「川岸さん、冗談はいいよ。あれ、もしかして、休憩時間だった?」
なぎさもようやく手を止め、ゆっくりと立ち上がった。ひざの上のほこりを払い、ゴーグルを外して汗をそっとふき取りながら、川岸の方へ歩いていく。
「まだ時間には早いけどな。ちょっと休憩。──事情が変わったんだよ」
「事情って何?」
奥で作業していた流も、川岸の台詞に触発されて作業をやめた。
「区の江川さんの話では、ここは随分長居間空き家で権利者もいなくなったからって話だったが、どうやらちょっと前まで人がいたらしい。もしかしたら、今も出入りしているかもしれないんだ」
まあ来いよと、川岸は二人を屋外に誘った。半信半疑のまま、流となぎさは川岸の後ろについて歩いた。
塀と建物に挟まれた五号室裏、大人一人がようやく通れるその場所に、田村の大きな体が屈んでいた。昨日の草刈ですっきりしているとはいえ、かなり窮屈そうだ。
「何してんの、田村さん」
流の声に、田村は大きな身体をのっそりと持ち上げた。
「みんな、来たのか。すまんな」
田村の陰から、康司の姿も見えた。どうやら二人で何かを覗いていたらしい。
「実はな、この建物から隣の敷地に配線が繋がっているようなんだ。電柱から盗ってるのか、それとも隣家から盗んでいるのか。とにかくこの建物の中で、電気やガスが止まった後も誰かが長期間住んでいたような、そんな形跡が三号室と五号室にある。ここを見てくれ」
田村は足元の塀に空いた小さな穴を指差した。太く黒い線がアパートの壁を突き破り、地面を伝って塀の穴から外に続いていた。
「昨日、草刈作業が終わった夕方は、ここも暗くて気付かなかったんだがな。さっき、荷出し作業が遅いから先に三号室を見ておこうと康司と川岸と一緒に部屋に入ったときに、パソコンが数台、しかも最近の機種が置いてあるのを見つけたんだ」
「え、それってつまり」
頭の悪い流にだって、簡単に理解できる。
「そう。何者かがこの建物を使って、何かをしていたということだ。作業は中断だ。とりあえず、社に戻って社長に知らせよう。もしかしたら、また警察沙汰になっちまうかもしれないからな……」
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