第3話 音の無い町 

 彼女は「幸枝」と名乗った。本名なのかどうかさえ分からないけれども、初対面で僕の死を人質にした女ライダーの名前なので、僕は死ぬまで忘れないだろう。

「勘弁してくれ。疲れてるんだ」

 僕は運転席のウィンドゥを戻し勢いよくバックした。腰に手を当て立ったまま微動だにしない女ライダーを一瞥し、走行車線へカイマンを走らせた。「やれやれ。」残り僅かなセブンスターの1本に火をつけ、煙を吐くと同時にアクセルに力を入れる。

 これまで星の数ほど患者を診てきた。自分が正しいと信じ、それが根まで達っしてしまうと、それは患者の世界となり、全てとなる。治療は困難を極め、長期化する。幸枝が喋る内容と様子から統合失調症を疑った。僕は彼女のドクターではないし、彼女は僕の患者でもないので考えるのも億劫になってしまったが、僕の世界から勝手に幸枝という女性を診断し、何とか合理的に自分の気持ちを落ち着かせた。


 「道を歩いていて小さな変わった形の小石に躓いただけさ。ただそれだけのこと。何も影響しないし、さざ波も立たない。これまで通りさ。」バックミラーを確認すると、どこまでも続く退屈な国道と情景だけが過去に吸収されていった。幸枝は追いかけてこない。僕はタバコの火を消す。そして彼女のことも忘れることにした。忘れることは人間に許された高尚な機能なのだから。曖昧でおかしなことは遠避けた方がいい。そのほうがずっと生きやすくなる。僕は経験則からそういう考え方をするようになっていた。曲はいつの間にかInner City Bluesに変わっていたので僕はモカを飲みたくなった。とても濃いモカをブラックで。


 グローヴァー・ワシントン・ジュニアのアルバムリピートが2週し、また最初の曲に戻った頃。僕はオロロンラインの終着点、天塩町へ辿り着いた。カイマンは約4時の間、弱音を吐かず付き合ってくれた。でもガソリンメーターは心細い位置を示していたし、エンジンの熱気による疲弊は想像に難くない。僕のニコチン切れも限界に近い。とりあえず最初に目に入ったガソリンスタンドへ入ることにした。


 給油機に横付けしエンジンを切り様子を伺うが、妙だ。セルフではないのに威勢のいいスタッフは駆け寄ってこないし、レジのある店舗の中を車から覗いても人の気配がまるでしない。少しだけ待って、僕は車を降りた。スタンドに併設されている店内に入るがもぬけの殻だ。「すみません!誰かいませんか?」しばらく待ってみたが返事はない。仕方なくレジ後方にある事務所ドアをノックし開けてみる。車に関連する法律書類やら経理の帳簿がデスクに乱雑に並べられ、PCは業務用のアプリが起動したままだ。まるでつい5分前には灼けた肌の中年店長が何らかの作業をしていたかのように。もちろんそんな店長はいなかったのだが。


 店の外に出て車検地域最安値の看板を掲げるガレージに入ってみるも、人気はない。ここだけ時計の針が止まっているような不思議な感触を覚える。

 「俺さ、ド田舎の適当でゆーっくりしてるところ好きなんだ。知ってた?このご時世でも家に鍵さえ掛けない地域があるんだ。鬼素敵じゃない?そういうのって」函館方面にある森町というド田舎の診療所に自ら進んで志願して行った友人ドクターの言葉を思い出す。彼から暫く便りはないが、きっとガソリンを補給することすらままならない土地が大好きなのだろう。僕は御免被るけど。埒があかないし仕方がないのでケイマンに戻りエンジンをかけて次のスタンドを探すことにした。


 かからない。何度起動ボタンを押しても、キーを回してもエンジンは無反応だ。スタンドに停めたままのケイマンの運転席で僕はダッシュボードからマニュアルを引っ張りエンジンが掛からない時は、のページを読む。バッテリー劣化が指摘されていたが先月交換したばかりなので、当てにならないと思った。「やれやれ」マニュアルを助手席に放り投げた。僕はケイマンをピピッとエンジンキーで施錠し町をうろつくことにした。


 やはり変だ。静か過ぎる。風車が回るほどあった風がまったくない。町の筈なのに人も車も通ってない。幾つかの個人商店や食堂のシャッターは上がっているが、やはり人の姿がない。「すみませーん!どなたかいらっしゃいませんかー?」腹いっぱいに力を入れて声を出す。どの商店からも声は反ってこない。100メートル程先にコンビニ・セイコーマートの看板が見えたので仕方なくそこまで歩いた。店内に入るとおでんの湯気が出ていた。肉まん蒸し器の中は肉まん2コとピザまんが1コ補充され美味しそうだった。暇そうにタバコを補充する店員とカゴを持ったスェット姿の客がいてもおかしくなさそうな雰囲気なのだが、誰一人いない。ただの1人も。奇妙なことに、店内にかかっている筈の音楽もなかった。忽然と人が消える。こんな事があり得るだろうか?微かな戦慄が走る。僕は外に出て大声で叫んだ。声は空しく響き空から雲は消えていた。


 絶対に変だ。そうだ、携帯。iphoneをタップする。この場合は消防か?いや、警察だろう。僕は110をタップしたが反応しない。「嘘だろ」それじゃ・・・119もダメだ。原因は・・・電波がない。あり得ない。僕はセイコーマートの事務室に走り込みタイムカードの下に置かれた受話器を取った。無音。どのボタンを押しても無反応だった。頭の中でサイレンが鳴った。まずいな。やばい状況だ。「どんな絶望的な状況でも冷静沈着に。君の判断一つで患者の人生は大きく変わる。生かすも殺すも君次第なのだから」指導担当の教授から聞かされた胸に刺さる言葉。僕の生存本能が声にならない声をあげている。どんな絶望的な状況でも、か。いったん冷静になろう。そうさ。きっと避難訓練か何かで町民は公民館にいるのかも知れないじゃないか。もしくは町をあげてのイベントで一時的にどこか別の場所で楽しく祭りでもやっているのかも知れない。ここは田舎なのだから都会の常識を押し付けちゃいけない。僕はセブンスターを1箱ポケットに入れ、460円とメモを残し店を後にした。

 


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