第22話 彼女の過去

 これはもう、四年も前の話である。

 その時の私、望月茜は中学三年生。高校受験の真っただ中ではあったが、私は市内の進学校の校内推薦が決まっていたので、周りの学生よりかは幾分か余裕があった。

 その頃の私は、成績はクラス一位、学年七位。そしてそのころから趣味にしていたギターも、全国ジュニアハイスクールギタリストンテストでも二位と、私は周囲よりは比較的順風満帆で、私の周りからの印象は、一口にいえば「いい子」だった。


 幼くして父を亡くした私は、父の話を母や祖母からよく聞いていた。

 そして私は、望月家の一人娘として恥じぬように、父の様に立派な大人になることを志していた。

 幼いころからのそんな私のたゆまぬ努力は、この奇妙な話し方を代償とはしたものの、勉強への興味や努力の達成感を私に与えてくれたように思う。

 そんな私の周囲には、そのころはどちらかと言えば数は少ないが、それでも親しくしてくれる友人だっていた。

 そんな私の人生は、母が亡くなってしまったあの日にすべてが変わってしまった。



「お父さんの命日なんだから、少しくらいお洒落したらどうなの、茜」

 その日は父の命日だった。

 いつも通り、制服姿を身にまとった私を見て、母はため息をついている。

「別にいいだろう。それに私の中学生活は今回で最後だ。お父さんにこの制服を見せられるのもこれで最後かもしれんだろう」

「そうは言うけどあなた、いつも制服しか着て行かないじゃない。お父さんも茜のお洒落な姿、見たいと思うわ」

「ほら、茜ちゃん。お母さんがこないだ買ってくれたワンピースを出してやるから着ていきなさい」

「べ、別にいいのだ。それに私はスカートなど似合わないし……」

「あんたねぇ……その制服だってスカートでしょうが」

「これは別なのだ!」

 そんな会話をしながら、私たちは父の墓参りの準備をしていた。

 その日、祖母は腰の調子が悪く母から自宅に残ることを勧められたので、私と母で出かける予定だった。

 私の外出着の押し問答は結局私の粘り勝ちで、制服で出かけることになった。

 母が購入したワンピースは、白基調のふわふわしたデザインで、九月上旬の残暑にはちょうどいい物ではあったが、私にはかわいすぎる気がしていた。

 何よりも、背が低いことがコンプレックスな私は、少しでも大人びて見える服を着ていきたかったのだ。父の前で、少しでも見栄を張りたかった。


「それでは、行ってきます。おばあちゃん」

「ああ、気を付けてね」

 そういって母と二人で、私は出かけたのだった。

 父の眠る霊園は、そのころ住んでいた家から電車で四十分程の、山中にあった。父の実家から近い場所だ。

 ちなみに、一緒に住んでいるのは母方の祖母で、父方の両親はその実家に住んでいる。

 母方の祖父は私の生まれる前に他界しているという。

 大体いつも、父の墓参りが済んでからそちらの実家に顔を出すようにしているのだが、年に何度かしか顔を合わせないので、その度に父方の祖母や祖父は喜んでくれる。

 だから私はこの日も、祖父母に顔を出すことも楽しみにしていた。


 私と母は他愛もない話で談笑しながら、ガラガラの電車に揺られ道中を過ごしていた。

「おじいちゃんとおばあちゃん、あんた見てびっくりするかもね」

「ん、どうしてだ?」

「あんた去年と全然身長変わってないからさ」

「な、なんだと!で、でもお母さんは背が大きい方だから、私だってそのうち……」

「お父さんに似たかもねぇ、あんた。お父さん背が低い方だったから」

「な、そうなのか?!」


 そんな会話を繰り広げている最中、その事件は起こった。

 突然の轟音。そして謎の浮遊感。けたたましく耳を突き刺す破裂音と金属音。

 その凄まじい一瞬の中で、母が叫び声をあげた。

「茜!!!」

 私に残っているその時の記憶は、母が急に険しい顔で私の小さな体を抱きかかえたこと。

 そして窓ガラスが割れていく瞬間に見えたものは、青空ではなくコンクリートの壁だったことだけだった。

 目が覚めた時には、辺り一面は薄暗い闇に覆われていた。

 辛うじてわかったのは、どうやらここが電車の車室であるという事だけだった。

 しかしよく見ると、所々変形しているし、出口は瓦礫に覆われているので、外に出ることは出来ない。

 私は、その時に初めてと気付いた。

 それと同時に、私は戦慄が走り大声で「お母さん!!」と叫ぶ。背中に嫌な汗がぶわっと噴き出すのが分かった。

「茜……無事でよかった……」

 薄暗い車室の中で目を凝らすと、私とそう離れていないところに母の影があった。

 私はホッとして「お母さん……よかった」と母に駆け寄ろうと立ち上がる。

 しかし、足に鈍痛が走り、私は上手く立てなかった。

 どうやら私は事故の衝撃で足を骨折してしまったらしい。

 私は、体全体を動かしてみたが、どうやら他にけがをした個所はなさそうだった。

 とんでもない事故に巻き込まれてしまったが、怪我の程度がこれで済んでまだよかった方だろう。

「私は足が折れてるみたいだが、お母さんは怪我はないか?」

 私がそう母に呼びかけると、少々間があってから「えぇ。心配ないわよ」と帰ってきた。

 少しだけ胸をなでおろしたが、状況はそう安心していられるものでもない。

 そもそもなぜ、電車の脱線事故で私たちは生き埋めのような状況になっているのだろうか?

「救助が来るまで、どれくらいの時間がかかるかな?」

「ん……さぁね」

「お母さん、持ち物は無事か?」

「いや、事故の反動で携帯が壊れちゃったの。私も暫く意識がなかったし、今の時間も解らないわ……」

「む……そうか」

 事態は思っていたよりも深刻だった。

 携帯が使えないのであればこちらから救助を呼びかけることは出来ない。

 電車の脱線事故なので、流石に救助されないという事はないが、どういったわけか私たちの居る車室はどうやら他の車室と現状つながっていないらしい。

 だとすれば、ここに優先して救助が回ってくるかどうかは解らない。

「でも絶望していても仕方がないのだ。救助が来ることを祈ろう」

 私は、自分の中に襲い掛かった不安をごまかすようにそう言うと、故障した足を引き摺りながら母のもとへと近づいた。


 母は床部に座り込み、座席にもたれかかかっている。

 脱線した時にどこかの水管を突き破ったのか、天井からぽたぽたと水が垂れていて、床は所々水たまりが出来ている。

 私はその隣に気にせず座り込むと、不安を紛らわす様に母に寄り掛かった。

 すると、母は私の頭を撫でてくれた。

「そういえばお父さんも、なんだか似たようなことを言ってたわ」

 母は、私の不安を悟ってか、父の話をしてくれた。

「お父さんも、病気になって医者に余命半年だって言われてからね。''絶望しても仕方ない。少なくても生きられる可能性に掛けなくてはな,,なんて言ってたわ」

「強い……人だったんだな。私のお父さんは」

「えぇ。でも、それからきっちり半年で死んじゃったけどね……。でも、生きたかったんだろうなぁ、と思うと……切ないね」

 母のその声色は、この非常事態の中でも奇妙なほど、落ち着いていた。

 私は、亡き父のことを思うほどの思い出は持っていない。

 辛うじて残っている記憶は、病院のベッドで満面の笑みで幼い私を抱き上げる姿だった。

 母から聞いた話では、その姿は父の亡くなったその日の昼間だという。

 その時も、私という自分の『子供きぼう』を抱き上げ、『絶望』と戦っていたのだろうか。

「茜も、お父さんににて、強い子に育ったよねぇ。体は小さいのにさ」

「ち、小さいことは関係ないだろ」

「ふふっ。でもお母さんもね……今ならお父さんが、最後に茜を抱いて笑えた理由もわかるかも」


 母は、私の体を自分の方へとぎゅっと抱き寄せる。

「茜。お母さんの話を聞いてね」

 先程までの声色とは違って、母の声は真剣なものだった。鬼気迫るものがあるほどに、気圧されるものだった。

 私は、なんだか嫌な予感がして、体をこわばらせた。

「お母さんの記憶だとね、多分この車室だけ、線路沿いのテナントビルに叩き付けられて埋まってしまったと思うの。だから他の車室は埋まらずに外にあるんだと思う。だからね、この車室の救助はきっと、後回しにされると思う」

 私は事故前の記憶が不鮮明だったので、明確にそれを理解はしていなかったが、母の言うように救助が後回しになる可能性は私も考えていた。

 だが、何故今、それを私に言うのだろうか。いやな予感はまだ収まらない。

「もしかしたら、これだけの瓦礫を撤去するのに、丸一日……下手したらそれ以上かかるかもしれない。だから、ね。茜にお願いがあるの」

「い、いやだ……」

 私は、気づいてしまった。母が今、私に何を言おうとしているのかを。

 私を抱きしめる体は、確かに徐々に体温を失っていっている。


 私はどうして気づかなかったのだろうか。そんな当然のことに。

 母は、

 抱えられた私の足が骨折しているのだ。だから母が何も怪我をしていないはずがないのだ。

「いやだ!!!お母さん、いやだ!!!」

 私は泣き叫んだ。今まで出したことのない悲痛な声で、泣き叫んだ。

「茜は、わがままを言わない子だから、私の言うことを聞いてくれるよね?」

「いやだ!!!いやだお母さん!!!」

「お母さんはもう駄目だから、茜だけでも生きて。そしたらお母さん、笑ってられるわ」

「いやだぁ!!!」

 私を抱える母の両腕は、少しずつ力を失っていった。


 私は、どんどん冷たくなっていく母の体を抱きかかえながら、早く救助が来ることを祈るしかなかった。

 そんな中で、私の膝の上で母は、力の続く限り私と話をした。

 私が運動会の徒競走で一位を取った話、クラスの男子と喧嘩をして私が勝ってしまった話、祖母と母と三人で旅行に行った時の話。

 そして私が、ギタリストを目指し始めた時の話も。

 そんな話を聞きながら、私の涙は枯れることなく流れ続けたが、母は終始笑っていた。

 


 ――そして、ついに母は私の膝の上で、静かに息を引き取った。

 私は誰もいない車室の中で、自分を守ってくれた母のことを思って泣いた。

 このどうしようもない運命を呪って泣いた。母を救わなかったこの世界に絶望して、泣いた。

『絶望しても仕方ない』

 数時間前に言ったそんな自分のセリフは、もう露と消えていた。


 それから約三十時間後、私は救出されるまで、どう過ごしたのかはもう覚えていない。

 救出されたとき私は、うつろな目をしながら、両足を失った母の遺体を抱きしめて離さなかったという。



 それからの私は、精神的に立ち直るまでかなりの時間を要した。

 母を目の前で失ってしまったショックは、私にとって大きな傷となった。

 それから一ヶ月もの間、入院生活と並行してカウンセリングを受け続けた。

 それでも祖母も、父方の祖父母もことあるごとにお見舞いに来てくれたこともあってか、私は少しずつ立ち直る努力をするようになった。

 しかし、私の生活を捻じ曲げる障害は、それだけではなかったのだ。


 事故から二ヶ月。

 私は退院して学校生活に復帰できることになった。

 私の身元の引き受けは、父方の祖父母も強く希望したようだが、親権の相続の優先は母方の祖母になるし、私は祖母が一人になることもあって、私が元の生活を希望した。


 登校の初日、私は当然かなり大きな話題になってしまっていることを覚悟はしていた。

 事故自体は私は見ていないが、私や母を含め、被害者の実名公開までされて大きなニュースになっていたと祖母から聞いた。

 しかし、現実は私が予想していたものの斜め上のものだった。


 私が教室に入ると同時に、クラス内はぴたりと静まり返った。

 そして程なくして、騒然とする。しかし何やら様子がおかしい。

 私と親しくしている友人ですら、私とは目を合わそうとせず、近くにいるものとひそひそと話をしている。

 私は、何やら釈然としないものを抱えながら席に着く。そして、少し嫌なものが背筋を走った。

 私を見つめる視線が、どうしても奇異なものに感じてしまったのだ。

 私は異様な違和感に包まれた。普通ならば、衝撃的な事故に巻き込まれた友人が、奇跡的に生還したというこの状況は、喜ばれこそすれど、奇異な目を向けられる覚えはない。

 ……


 その違和感の正体は、その日の休み時間に判明したのだ。

「おう、生還おめでとう。カニちゃん」

 唐突に話しかけてきたのは、特に親しいわけでもないサッカー部のクラスメイトだった。

「む、ありがとう……なんだ?そのカニちゃんというのは」

 私がそう尋ねると、その生徒は私に嫌な笑顔を向ける。

「決まってんだろ。だよ」

 彼がそう言うと、他のクラスメイトの視線が一気にこちらに集まった。

 私は全く訳が分からない。

「カニバリズム??何の話をしているのだ?」

 私がそう尋ねると、彼は驚くべきことを口にした。


「とぼけんなよ!お前、母親の両足食って生き延びたんだろ?!」

 私はその言葉を聞いた瞬間に、脳を揺さぶられた感覚に陥った。

 母親の両足のない遺体が私の頭の中でフラッシュバックする。

 それにつられて連鎖的に火が付いていく私の事故の記憶が、私の何とか取り繕っていた張りぼての精神を崩してしまったようだった。

 そうして泣き崩れてしまった私が「そのような事実はない」と。そう一言返さなかったことが、返せなかったことが、私のこの先の学校生活を壊してしまった。


 後から知った話だが、とあるネットニュースでの記事で、救出時の私の写真が出回っていたらしい。

 その記事の内容は、「母の両足を食べて生き残った少女?!」というものだった。

 その記事は事故の事実が明らかになるにつれて、色々なところからのバッシングを受けて削除されてしまったようだが、うちの中学の生徒の中でもそれを見てしまった者も多く、瞬く間に私の噂は校内に広まった。

 校内での私のあだ名は、「カニバリズムのカニちゃん」になったのだった。


 それを見かねた先生は、推薦入試までの休学を進めた。

 私も、暫くはいじめと戦う気力など沸いてこず、それに甘えることにした。

 そうして私の中学生活は終わりを迎えたが、それは結局高校へ進学しても改善されることはなかった。

 当然、市内の進学校という事で、元の中学が同じ人間もたくさんいる。

 だから結局私は、程なくして高校に行かなくなった。



「茜ちゃん、引っ越そうか。ここは辛い思い出が多すぎる」

 祖母は、高校に行かない私を見かねて、そう言った。

 そうして私はこの善一がいる高校へ、編入してくることになったのだった。





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