第三章 彼女の噂
第20話 カニちゃん
七月上旬、皆が文化祭の興奮を引きずったままにやってくるのは期末テストである。
文化祭が終わってから早二週間弱、衣替えも完全に終わり、これさえ乗り切れば夏休みに突入するという期待と焦燥の入り混じった何とも言えない空気が校内を覆っていた。
あの文化祭が終わってから、僕の気持ちはなお熱を帯びている。
それ程までに、あのステージは僕の人生の中で劇的なものだった。
スクールカースト最底辺、「無関心」という称号を持つ僕の学校生活も、ほんの少しだけ変化があったのである。
「おう、おはようウォークマン!」
「おはよう、
彼は文化祭の日、屋台の前で話しかけてきた野球部部員だ。
あれから、特に交友が深くなったわけではないが、朝教室で顔を合わせると声をかけてくれるようになった。
「あ、おはよーウォークマン!」
「おはよー市川!」
彼が僕に話しかけるようになってから、こうして朝話しかけてくれるクラスメイトが増えたのだ。
これについては、少し前の僕ならば煩わしい問題だったのかもしれないが、今はそこまで悪くないものだと感じている。
「お、おはよう。善一」
僕が席に座ると、望月さんが遅れて教室に入ってきた。
「うん、おはよう。望月さん」
テスト期間中は必ず教室でテストを受けなければならないので、この期間だけは彼女も終日教室にいることになる。
あの文化祭は、結果的には僕にとっては意味のあるものだった。
しかし、当初の目的のことを考えれば、やはり失敗してしまったと言わざるを得ない。
あのステージは僕の身の回りこそ変化はしたが、肝心な彼女へのクラスメイトの関心は殆ど変わることがなかった。
あの後も、何度か彼女は教室で授業を受ける努力をしたが、ついぞ彼女に話しかけようというクラスメイトはいなかった。
そればかりか、彼女は前にも増したように感じる好奇の目に耐え切れず、当面の教室での授業は見送ることになってしまった。
なので、彼女がこの教室に顔を出すのは、今日が一週間と二日ぶりになる。
――やはり彼女にスポットライトを当てるのは迂闊だっただろうか?
直後の僕は当然そんな考えに悩まされていた。
しかし、あれが彼女にとっては全くの無意味だった、なんてことは考えられない。考えたくない。
ならば次の一手を考えるべきだ。あれが決定的な改善につながらないのであれば、次の策を練るしかない。
僕は彼女をまともな女子高生に戻すことを自分で決めたのだ。一回駄目だったからあきらめるなんてことはもう考えない。
そうして僕は、それについて悩むのをやめた。それはいいのだが……。
彼女の方を見やると、やはり顔色は優れなさそうだ。
彼女は多分、僕が教室に入るタイミングを見計らって入ってきたのだろう。
流石に僕が居ない状況でのこの空間は今の彼女には想像を絶するストレスだと思う。
ならば、前みたいに一緒に登校してくればいいだけの話なのだが、何故なのだろうか。
ここ二週間近く、望月さんが教室に来なくなる少し前から、何故だか望月さんには避けられているのだ。
それについては望月さんに問い詰めようにも、彼女は僕が授業を終えるころにはもう帰宅してしまっているし、屋上にも顔を出さない。
メールをしても返信を返さないし、電話に至っては通話を切られる始末だ。
いよいよ痺れを切らして、一昨日自宅に押しかけたところ、お婆さんが出てきて「本屋に行っている」とタイミングが合わず、結局話せずじまいだった。
そんなわけで、この朝の挨拶は実は、二週間弱ぶりの僕たちの会話だったのである。
もちろん、彼女が僕を避けている理由については、僕は全く心当たりがない。……が、まぁ彼女もこの教室ではそんな話をする余裕もないだろうし、僕が味方になってやらないことには彼女はこの場で独りになってしまう。
その話題については、今日の放課後にゆっくりと聞けばいいだろう。
「望月さん、顔色悪いけど大丈夫か」
僕は、周囲の目を気遣って、後ろは向かずに望月さんにだけ聞こえるボリュームで話をする。
「う、うむ。心配はいらん」
「テスト期間中は、何かあれば言ってくれよ」
「あぁ、いや。君の手を借りなくても、大丈夫だ……」
そんなぎこちのないやり取りを交わしながら、彼女の心情を探る。
やはり、どうしたって彼女にとってはこの期末テスト期間中は、憂鬱な期間になるのだろう。
しかしこれが終われば夏休みだ。彼女の高校生活を取り戻すために、その期間を使ってできることを僕は今から必死に考えなくてはいけない。
――そんな期末テスト一日目は、三時間で終了した。
いつもより短い時間割で、しかも部活動がないこの期間中、他の生徒は少しお得な期間で「帰りどこ寄っていく?」なんて話をしているが、この猶予はテスト勉強をするための猶予であるという本分を見失ってはいけない。
なんて言いながら、普段からテストのための復習はそれなりにしているので、僕もこの期間に関しては屋上が開けられないこともあって、足早に帰宅しては積み置きした本を一気に読み漁ったりしてしまうのだけれど。
「ウォークマン、また明日なー」
「うん、また明日」
声をかけてくれるクラスメイトに返事をしながら帰り支度を進めると、この二週間にわたる均衡の謎を今こそ明かさん、と僕は後ろに座る望月さんの方に振り向いた。
……しかし、彼女の姿は既に、鞄と共に忽然と姿を消していた。
うーん。……と、帰り道に僕は頭を悩ませる。
やはりどう記憶をたどっても、彼女を怒らせてしまうような事案は見当たらない。
女心は男には理解し難い、という事を幾千という小説の中で見てきたような気もするが、彼女の場合なんとなくそれとは違うような気もする。
そもそも、彼女は怒っているのだろうか?
それが解らないのだから、もしかしたら僕が頭でいくら考えたところで謎は解けないのかもしれない。
僕は少しため息をつきながら、帰り道のコンビニに入った。
今日は三時間までなので、学校での昼食はない。
朝方、母は多分僕がテスト期間であることなんて知らないだろうし、今日は弁当も作っていなかったので家に帰っても恐らく昼食は用意されていない。
ストックしているカップ麺も昨日底をついたので僕はここで昼食を買って帰ることにした。
適当に棚から、普段食べているカップ焼きそばとラーメンをいくつかかごに放り込んでレジに持っていく。
「あ、すいませんあとホットコーヒーを一つ」
「お会計千百四十円です」
レジでカップを受け取ると、横に併設されている機械でコーヒーを注ぐ。
こんな初夏の気温の中でも、やはりブラックコーヒーはホットでないと僕は駄目だ。なんて、そう言えばそんな会話を、スタジオの帰りのコンビニで望月さんとしたこともあった。
彼女は、あすなろのことをどう考えているのだろう。
僕はあの時本気で、彼女と音楽がしたいと思った。そして今ももちろん思っている。
彼女と一緒に、同じ目標をもって進んでみたいと思っているのに、彼女はどうして僕を避けているのだろうか。
そしてそれは、前まで彼女の方から願っていたことではないか。
僕は歩きながら熱いコーヒーをあおる。火傷しそうな太陽の下でホットコーヒーを飲んでいるせいか、額から汗の粒が流れ落ちた。
家の近くまで来ると、公園の多人数用のベンチで女子生徒がたむろしていた。
ちらっと視線を向けると、どうやら五人で集まって駄弁っている中、煙草を吸っている者もいるようだった。
僕は特に気にも留めずに、家の方へ向かっていると、どうやらその中の、クラスメイトである女子の一人がこちらに気付いたようだった。
「エリやばいって。ウォークマンに煙草見られたっぽいよ」
僕は聞こえないふりをしてコーヒーを飲みながら、通り過ぎようとする。心配しなくても僕はチクッたりしない、安心しろ。
「ウォークマン?誰それ」
「あれじゃん、文化祭でカニちゃんと一緒にステージ出て歌ってたやつ」
「あぁー、陰キャだろ。別に大丈夫じゃん?」
僕は何も聞こえないふりをして通り過ぎるつもりだったが、思わず足を止めてしまった。
今の会話に、少しだけ気になることがあったからだ。
カニちゃんと一緒にステージ出て歌ってたやつ……。
確認するまでもなく、ウォークマンは僕のことだ。てことは、カニちゃんは望月さんのこと?
『望月茜』と『カニちゃん』というあだ名の関連性は、全く見えてこない。
特に大したわだかまりでもないが、何故だか僕はそんな些細な問題が、気になって仕方がなかった。
彼女はああいう環境の中、校内で友人はいないはず。なのに、何故陰では「望月」ではなく「カニちゃん」などという不可解な愛称で呼ばれているのか。
それが気になって仕方がなかった。
僕は気づけば、その女子生徒のたむろする輪の前に立っていた。
「あ?なんだよおめー」
先程エリと呼ばれていた女子生徒は、唐突に前に立った僕に対して、敵対心をむき出しにする。
当然の反応だろう。この状況ではどう見たって、僕が彼女の吸っていた煙草を注意しに来たと思う。
他の四人は、何も言わずに今起ころうとしている喧騒の行方を見守っている。
僕はそんな中、自分の気になったことを正直に聞き出そうとした。
「悪いね、邪魔するつもりはないんだけど、ちょっと聞きたいことがあるんだ」
「はぁ?」
「カニちゃんって、誰のこと?」
僕がそれを聞くと、女子生徒は全員きょとんとした顔をした。
「は?お前あいつと付き合ってて、知らねーの?」
「悪いけど、僕に付き合ってる女性はいないよ。で、誰のことか聞いてるんだけど」
「望月だろ、わかんだろ、話の流れでさ」
「やっぱりそうか。で、彼女は何で、カニちゃんって呼ばれてるのかな」
「いや知らねーよ。みんな呼んでるから呼んでるだけだよあたしは」
‘‘エリ,,がそう答えると、その横にいたショートカットの女子が、会話に割って入った。
「あ、あたしも聞いただけだからよく知らないんだけど……カニちゃん、なんか気味悪い噂があるらしくて、そっから付いたんだって。なんか、難しい言葉だったから忘れたけど……」
他の女子の顔を見てみると、僕が喧騒を巻き起こしに来たわけではないことにホッとしているのか、興ざめしたのか興味なさそうな表情をしている。
恐らく、事情を知っている者はこの中にはもういないのだろう。
「そう、ありがとう。ごめんね邪魔しちゃって」
「んだよ全く。早く帰れよ。それと煙草のことチクんじゃねーぞ!」
「あぁ、別にそんなつもりはないよ。でも喫煙する女性は、モテないって本に書いてあったからやめた方がいいよ。それじゃあね」
僕がそんな捨て台詞を残すと、後ろで彼女は何かギャーギャーと叫んでいたが、僕の耳にはすでに入らなかった。
またしても噂、か。ここにきて僕の高校生活の経験値が、障害になっている。
僕は特に校内で他人と会話をすることがなかったし、他人の会話を聞いたりする趣味もないのでその噂の内容が解らない。
しかし、あの女子生徒の様子を見る限り、噂の全容をしっかりと理解している者はもしかすると少数なのかもしれない。
だとすれば、彼女の心因的なものが大きな障害となって、学校生活に支障をきたしているのだろうか。
ということはその噂とやらは、彼女にとって衝撃的なもので、ただ一人にでも知られていることが辛い内容なのかもしれない。
だったら、それを僕が掘り返すようなことはやはりするべきではないのかもしれないな……。
家に帰ると、そんなことを考えていたことは一旦忘れてベットに飛び込んだ。
文化祭の練習、テスト勉強と立て続けに時間の取れない日々が続いたせいか、古本屋でまた買いためてしまった文庫本の消化が著しくない。
僕は昼食をとることもすっかり忘れて、積み置きしている一番上の本を手に取って、ページを開いた。
読み始めた小説の内容は、少しバイオレンスな内容を含むサスペンスだった。
内容は、愛する妻を愛するがゆえに、殺してしまった男の話。
妻の年々冷め切っていく愛情に耐え切れず、男はその愛が冷めぬうちに殺してしまうことを決意する。
妻の失踪が発覚し、警察はすぐに夫である男を重要参考人として捜査を進めるが、捜査をどれだけ進めても、妻の死体の行方が分からない。
なかなか殺人事件として検挙することが出来ず、行方不明として捜査を続けるが、最後には状況証拠から導き出したある刑事の立てた推理によって男はすべてを白状することとなる。
最愛の妻が腐りはて、土にかえることを是とせず、それならば我が身として共に生き続けると。
そう思った男は妻の血肉を一片残らず食らいつくすことにした。
だから、妻の死体の行方は解らなくなってしまったのだった。
僕は読書に選り好みはしないので、こういったバイオレンスな話も抵抗もなく読む。
推理小説を読むうえで登場人物がショッキングな死に方をするのはよくある話だが、まあそうはいっても今回のはなかなかパンチが強かった方だろうが。
しかしそういう小説にも独特な哲学があり、多角的な視野をもって読んでいけばまた違った見解があるので面白いのだ。
「しかしカニバリズム物は流石に望月さんには貸せないな」
そんなことを一人で呟きながら、僕は読み終えた本をカラーボックスに入れた。
時計を見やると、もう既に十四時を回っている。いい加減、僕の腹の虫も機嫌を悪くしていた。
僕はベットから起き上がると、食事の準備をする気を起こすために、精一杯伸びをした。
―—カニちゃん。
ふと、先程聞いた彼女のあだ名が頭をよぎる。
――カニちゃん、なんか気味悪い噂があるらしくて、そっから付いたんだって。なんか、難しい言葉だったから忘れたけど……——
難しい言葉。気味悪い噂。カニちゃんというあだ名。
「難しい言葉……。カニ……」
それがよぎった瞬間僕は、背筋がぞくっとした感覚を、見逃すことは出来なかったのである。
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