第13話 彼女の前進

 橋の下での練習があった翌日。

 例に漏れず梅雨の弊害で小ぶりな雨が続く朝。

 僕は朝食を食べ終えると、いつもより少しだけ早めに支度をした。

 控えめに「行ってきますと」一言添えてから家を出る。

 今日も屋上の練習はお預けになって、恐らく昨日の宣言通り望月さん宅でライブDVDを見るという一日になるのだろうか。



 自宅から少しばかり進んだところの郵便局前に行くと、望月さんがしゃがみ込んで携帯を触っている。

「おはよう、望月さん」

 望月さんはこちらに気付くと、朝の割にいつもと変わりないテンションで挨拶を返してきた。

「おはよう善一!今日も爽やかな朝だな!」

 小ぶりな雨が割と陰鬱な朝だが、まぁ僕は彼女と違って朝は割とテンションが低い方なので取り敢えず流すことにする。

 特に毎日僕たちは二人で登校しているというわけではないけれど、今日は特別な理由がある。

 文化祭に出る交換条件として彼女に僕が出した「少しずつ授業に参加する」という約束を果たす、今日はまさに初日というわけだ。

 初めて授業に参加するまでに約束より時間が開いたのには理由がある。



 いくら彼女がこんな性格とはいえ、疎外されてから二年近くも経過しているのだから、やはり彼女としてもいきなり授業に参加するというのは気が重すぎるだろうと配慮してのことだ。

 そのために前準備として、日笠先生に相談して席替えを要求し、彼女の席は教室に最後尾の入り口から一番近いところに設置し、その前の席が僕の席になるように席替えを細工してもらった。

 そして今日の授業の一限目は現国。日笠先生が担当する授業だ。

 まず最初は一番気兼ねしない状況から慣れていくことが大事だと思い、暫くは現国の授業で、彼女がストレスがなくなるまでリハビリをしていこうということだった。



「ぜ、善一。こんな早い時間に行ってしまって大丈夫だろうか……?私が教室に入ってざわついたりしないだろうか?」

「大丈夫だよ。朝の教室は大抵、既にざわついている」

 彼女もやはり人の子である。

 久しぶりの授業の参加には不安がいっぱいといった感じだ。

 テストの時は教室で受ける、というのは既に恒例化しているため、その際には別段クラスメイトが好奇の目を向けるということは少ないのだが、まぁ正直授業をまともに受けるとなると多かれ少なかれそれは避けられないだろう。

 それは十二分に承知している。



 それでも、彼女が無事にこの学校を卒業して、世間で活躍していく将来を考えれば、きっとこれは避けて通れない試練なのだろう。

「まぁ今回は試運転だ。今日難しそうならまた時間を空けてチャレンジしよう」

 僕は少しでも彼女が気楽になるように言葉をかける。

「う、うむ」

 それでも彼女は気が気じゃないようだ。



 そうこうしているうちに、学校にたどり着いた。

 校門を潜り抜けてからは、より一層彼女は人見知りの子供みたいに僕の後ろにピッタリとくっついて歩いている。

 いつもならここで「じゃあ善一、放課後な」と別れて颯爽と去っていく彼女なのだが、今日に関してはまさに借りてきた猫のようだ。

「ぜ、善一。本当に大丈夫なのか?」

 普段の威勢は見る影もない。

 しかし僕がここで不安になってはいけない、と僕は胸中に抱えているものを無理やり押し込んで堂々と構える。

「大丈夫だよ。黙って一時間授業を受けるだけだ」

 そういうと僕は上靴に履き替えてさっさと教室の方へ向かう。

 出遅れた彼女は慌てて靴を履きかえて僕の後をついてきた。



 教室に入ると、まぁいつもの様に騒然としている。

 僕が入っていったところでクラスメイトは見向きもしないが、今日に関してはやはり反応が違った。

 僕の後ろをピッタリとついてくる望月さんに気付いた数名が、少しだけ談笑を止めた。

 それにつられてほぼ全員のクラスメイトが望月さんの登校に気付いた。

 僕は気にせず着席するが、望月さんの方を見やると、俯いて冷や汗をかいている。

 やはり注目されたことに気が付いてしまったようだ。

「大丈夫だよ。最初だけだ」

 僕は望月さんにだけ聞こえるようにボソッと呟いて鞄の中身を机の中にしまった。

 望月さんも、俯きながら「う、うん」と返事をすると、同じように一限目の授業の用意を机の中にしまっているようだった。



 教室中の生徒は望月さんへの注目はひとまず中断して、また雑談に戻っているようだ。

 しかしこの空気感に少しでもなれるために早めに来たが、彼女には酷だったのかもしれない。

 彼女は僕とは違って他人に愛があるし、なんなら誰からも好かれたいと思っているタイプだ。

 言い方を変えるならば、彼女は割と他人の顔色を気にするタイプなのだ。

 文化祭の選曲の話し合いだって、みんなが知っている歌をやってはどうかと言い出したのは彼女だったわけで。

 そんな彼女からすれば、正体不明の視線が集まるこの状況は僕とは比べ物にならないほどのストレスなのかもしれない。



 それでも、彼女はまともな女子高生に一度戻るべきなのだ。

 ある意味これは僕のエゴなのかもしれないが。



 チャイムが鳴るまで彼女は、机の下から僕のカーディガンの裾をつかんでいた。

 普段の彼女からは信じられないが、抑えきれないほどの緊張感と不安だったのかもしれない。

 暫くして日笠先生の姿が見えたと同時に、彼女は少しだけ落ち着きを取り戻した様子だった。



 日笠先生は、教室に入るなりこちらの方を見ると、少しにっこりとして機嫌がよさそうに話し始めた。

「みなさんおはようございます!それでは出席をとります!」

 いつものように、進んでいく点呼だが、いつもと違うのは、彼女がいることだ。

「望月茜さん!」

「は……はい」

 緊張と照れを含んだ声色で返す望月さんに、先生は少しだけ微笑むと、それ以上は何も言わずにいつもの様に続けた。



 そんな日の放課後。

 結局望月さんは一限目の授業が終わると同時にそそくさと保健室だか、特別教室だかへ移動してしまったので、二限目以降は結局姿を現さなかった。

 まぁそれでも、一限だけでも授業に参加できたのだから上出来だろう。

 しかし今日の様子を見る限り、彼女が普通の女子生徒としてまともに授業を受けるようにするには割と時間がかかりそうだ。



 僕は携帯電話を開くと、彼女にメールを送る。

 そういえば今日、彼女の家でDVDを見る約束をしていたが、待ち合わせの時間も何も聞いていなかった。

 彼女の家の場所は知っているが、下校時間が自由な彼女は最悪行ってもまだ帰っていない可能性だってある。

 仕方なく自習して教室で待っているかと思っていると、案外早く返信が返ってきた。

『すまない、連絡を忘れていたようだ。先に帰って待っている』

 文面まで堅い彼女だが、そういえば今日初めて彼女が力なく「うん」と言っているのを聞いたことを思い出して、少しだけ僕はクスリと笑った。

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