第二章 あすなろ

第9話 Studio LUKE

 件の雨の日から一週間後。

 この日も大概、空模様は難色を示している様子ではあったが、まぁ少し早めの梅雨入りだと思えばこんなものだろう。

 午後六時過ぎ、自宅で少し早目の夕飯を済ませた僕は、とある約束の時間に遅れまいと支度をしていた。

 とは言うものの、持っていくものは特に思いつかないので、取り敢えずミネラルウォーターと簡単な筆記用具、ついでに使う予定のない予備のノートを一応鞄の中に放り込んでおいた。

 携帯電話で予め聞いておいた待ち合わせ場所を地図アプリに入力する。

 "STUDIO LUKE"

 丁度ここから自転車で十五分程度の距離だ。

 待ち合わせ場所の六時半には早いが、僕は鞄を背負うと誰もいない家を「行ってきます」と呟いてから後にした。



「少しずつ、スタジオ練習をせねばならんな!」

 僕ら二人のユニットが結成された後、屋上での集会は少しずつ文化祭に向けての練習時間になっていた。

 そんな中、望月さんはまたいつものように脈絡もなく言い出した。

「やはり善一も、音楽的な環境の整ったところでしかと練習してみることも大事だぞ」

「しかし望月さん。僕はまだ基礎練習もきっちりクリアしていないというのに、そういうのは形から入るような感じがして気が進まないいんだけれど」

「なに。モチベーションを上げるというためにもやはり形も大事だとは思うぞ。明日は雨だと言うし、放課後少しでもスタジオ練習をしてみるのはどうだ?」

 望月さんがまたにひひ、と笑いながらそう言うので、僕もまぁ音楽的な観点に関しては望月さんに任せるか、と流れで今日スタジオ練習を敢行することになった。

 しかし、駅前や商業地区のように人の集まる所ならまだしも、住宅街から少しずれた公共施設が集まるブロックの一角にぽつりと立っているような寂れた出で立ちでありながらなかなどうして、中年のブラスバンドやジャズ、ブルースユニットなどが近くの公民館で定期的にイベントを開催するようで客はそれなりに多いようであり、時間の予約は前日では七時からの一時間しか出来なかったようだ。

 僕が初めて行くので、色々気を使って三十分前からの集合に設定してくれたみたいなのだが、僕が到着したのはそれよりさらに十分程早かった。



 店の中に入ると、壁際にはゴツゴツしたレンタル用の機材がきちんと整頓されて並べてある。今のところ僕にはどれが何の用途で使われるのかはわからない。

 その他は店員や店長の趣味なのか、人気のアニメフィギュアなんかが所々に飾られている。

 店の奥に進むとカウンターがあり、そこに座っていた店員がどうやらこちらに気付いたようだった。

「いらっしゃいませー」

 天然パーマを適度に伸ばした男性店員が、愛想よく挨拶をする。カウンターの上に『吉川』と書かれた名札が置いてあるが、おそらくこの店員の名前なのだろう。

「すみません、七時から予約をしていると思うのですが」

「えーっと、お名前いいっすか?」

「望月で予約してるかと」

 僕がそう答えると、途端に吉川という店員は表情を明るくした。

「あぁ!茜ちゃんの相方っすか!茜ちゃんから聞いてますよ、善一君っすね!」

「は、はぁ……」

 どうやら望月さんは僕の話を僕の知らないところで勝手にしているようだった。

「茜ちゃん、二年ほど前からうちのスタジオに通ってくれてるんですけど、今じゃここのアイドルみたいなもんなんすよ!」

 やたらと上機嫌で愛想よく喋る店員さんだ。この人当たりの良さも立地の割の繁盛に一役買っているのだろうか。

「へぇ、彼女がアイドルですか」

「えぇ、このスタジオ中年客が多いっすからねぇ。若い女子高生がいるとやっぱ目の保養になりますから。それに茜ちゃん、ギターもめちゃくちゃ上手いですし」

 成程、彼女は人懐こい性格をしているので、恐らくこのロビーで出会った中年客とも楽しい会話を繰り広げながら交友を広げたりするのだろう。

 しかし、彼女のギターの腕前はやはり業界の中から見てもレベルが高いのだろうか。僕は少し気になったので、吉川さんに掘り下げて聞いてみる。



「僕は音楽の経験が浅いのでまだはっきりと理解していませんが……彼女やっぱり結構上手いんですか?」

「そうっすねぇ。うちに来るお客さんの中ではトップクラスに上手いです。彼女より上手いとなると、スタジオミュージシャンの人か、専門学校の講師さんくらいじゃないですかねぇ」

 大人と比べても遜色ないレベル。しかも比べて上手い人は尚且つもうそれを職業にしている人たちだ。ということはやはり、僕が彼女の腕前に素人ながら抱いた印象は間違っていなかったみたいだ。

 そう考えるとやはり彼女の思想や目標にもかなり説得力が沸いてくる。そして同時に、今すぐにどうしようもないというのに、彼女に対して湧き上がる劣等感が増していく

 それは、業界の中でも彼女と一緒にバンドやユニットをやりたがる人は沢山いるのではないか?というのが当然の疑問だからだ。

 どう考えたって一から音楽の研鑽を積んでいかなくてはならない僕よりも、既にある程度のレベルに達している相方と組んだ方が絶対に近道になるはずだ。

 というよりもそこまでの実力があるなら一人でだってどうにかなれそうだし、実際僕がいなければ一人でもやるつもりだったというのであれば、僕と組むことなんてデメリットしかないのでは?

 それとも、学校内で疎外されている理由はこちら側の活動にも影響を与えているのだろうか?

 僕は勝手に心配になり、再度吉川さんに問う。

「彼女、他のバンドから誘いとか無かったんですか?」

「いやぁ、勿論沢山あったみたいですよ。でも全部断っちゃうんです。だからユニットを組むなんて話を聞いたときはびっくりしましたよ」

 僕はそれを聞いて少しだけホッとした。

 どうやら校内で彼女を疎外している原因は、校外での活動にまでは影響がないらしい。

「そうなんですか。しかしならどうして僕なんでしょうね」



「まぁまぁ。それはそのうちわかることだぞ、善一よ」

 聞きなれた声が後ろから飛んできたので、慌てて振り返るとギターを背負った望月さんが腰に手を当てて立っていた。時計を見やると、時刻は丁度六時半を指している。

「茜ちゃんお疲れ様です!」

「おぉ吉川。今日も愛想がいいな!」

 この二人の上下関係は、いったいどうなって居るんだろう。心なしか吉川さんは嬉しそうだ。

「約束の時間丁度に来るなんて珍しいな、望月さん」

「む、そんなことはないだろ。しかし善一は相変わらず早めの行動だな。感心するぞ!」

 望月さんは気まぐれなので、大抵時間に結構遅れてくるか、かなり早めに来るかのどちらかである。とは言っても僕は、学校の朝の登校の様子や放課後の屋上の練習時間の時くらいしか望月さんの時間の感覚は理解していないが、少なくともその範囲ではそんな感じなのだ。

「まぁ今日は善一にとって初めてのスタジオだからな。先に教えておきたい事もいくつかあるしと思ってな。吉川、そこのテーブルを借りるぞ!」

「えぇ、どうぞ、今日は三番スタジオです!」



 スタジオ内には、ドアが計六つある。そのそれぞれのドアに番号が書いてあり、どうやら練習を行うブースはこのドアの向こう側ということになるのだろう。

 そして、今僕たちがいるロビーには四人ほどが向かい合って座れる簡単な個別シートがこれも計六組ほどあり、あとは空いたスペースに休憩用のソファがある。隅には自動販売機、化粧室、喫煙室といった感じだ。

 その個別シートの中で空いている所を選ぶと、望月さんはギターを邪魔にならないところに下ろして腰を掛ける。

 僕もそれに倣って、望月さんとは反対側のシートに鞄を下ろして腰かけた。

「何だか落ち着かないな。僕の人生でこんな場所に出入りする日が来るなんて思わなかった」

「まぁそうだろう。しかし人生とは奇跡の連続というしな」

 望月さんはまたにひひと笑う。

「さて善一。そんな善一にもわかるように、スタジオのことを少しだけ解説してやろう」

 望月さんは妙にうきうきとした様子だ。僕はそれを黙って聞くことにする。……頬杖を突きながら。

「形も大事だ、と先日言ったりもしたが……スタジオ練習が必要な理由も形以外にちゃんとあってだな。まぁ一番の理由は、しっかり機材を使って練習に挑むことだな」

「僕が使う機材ってなんだよ。マイクぐらいだろ」

「ふふ。善一、たかがマイクと思っているだろうが、されどマイクなのだぞ。まぁ入ってみればわかるだろう」

「なんだよそれ」

 そもそもマイク自体、そんなに使ったことがないが要するに声を増幅させる機械だろう。

 それを使うのだから、普段通りの声量が出せないということだろうか?今の時点では、望月さんの言ってる意味がよくわからなかった。

「それに、アンプを通したギターの音量も乗るから、ライブ時に近い音量で練習するということはかなり大事なのだ」



 いくら知識が乏しいとはいえ、僕にだってエレキギターとアコースティックの違いくらいわかる。

 望月さんが普段使っているギターはアコースティックギターの方だし、今日持ってきてるのだっていつものやつだ。

 ギター伴奏のみで歌う僕たちのユニットはアコースティックギターを使って演奏する前提であるし、だとしたらエレキギターをアンプにつないで演奏するなんてことは特に必要ないのでは?……なんて風なことを言ってみると、望月さんは「は?」という顔をしていた。

「善一、アコギもアンプに繋ぐんだぞ、普通に」

「え、そうなの?」

「当り前だろう。まぁ繋がないにしろそれこそマイクを使って音を増幅させたりもするし、どのみち音量の底上げは絶対にするだろ。でなければどうやってライブをするのだ」

 もっともだ。僕は馬鹿だったみたいだ。あんな音量の生音でも、大きなライブハウスやホールになれば流石に音が響くわけないだろう。だったら何らかの音を増幅させる工夫をしているのは当たり前の話だ。

「私が使っているのはエレアコと言ってな。普段も生音で通常のアコギとして使えるのだが、ほらここ」

 望月さんはギターを持ち上げて、ボディの底側にある金具の部分を見せる。

「これは通常ストラップ……まあ要は肩から掛けれるようにするためのこの帯を装着するための金具なのだが……ここに穴が開いてるだろう」

 確かに底部に付いている金具には穴が開いている。

「ここにギターと各種機材をつなげるためのこのケーブル、シールドというが、これが刺さる様になっている。これでアコギの音をアンプから出せるような作りになっているのだ」

 感心の言葉しか出ない。というより、言葉も出ない。

「人間の考えることは賢いな」

 僕がようやくひねり出した言葉は、どこに向けた言葉なのかもわからないものだった。

 望月さんと音楽をする、というのは突発的なものであるし、まだまだどの程度関わるのか、僕がどんなことをしていくのかはかなり漠然としているものだけれど……ひとまず僕は死ぬほど勉強不足なのだということだけはわかった。

 こんなど素人をつかまえて一緒にユニットをするという酔狂な目の前の少女の頭の中は、一体どんなビジョンが見えているのだろうか。

 少なくともそれは僕にはまだわからない。

「まぁともあれ、そんな理由もあってスタジオ練習はちゃんと意味のあるものということだ。あとは中で練習しながら文化祭で演じる曲目でも決めていこうじゃないか」



 彼女とそんな会話をしているうちに、時刻は六時五十五分を指していた。

 すると三番スタジオのドアが開き、今まで練習をしていた奏者の人たちが次々と部屋から出てくる。

 僕たちとは違って大所帯で、人数は五人ほど。しかも機材もかなり多いようでせっせと片付けと運搬を繰り返している。

 この作業時間も加味して、次の利用客に時間通り明け渡すために、早めに退場するのがマナーなのだろう。それを見て変に生真面目な僕は、自分もそうしなければと密かに思う。

 望月さんのスタジオ解説を引き続きなんとなく聞いていると、しばらくしてから吉川さんがこちらへ呼び出しに来た。

「三番スタジオどうぞー」

 望月さんはギターを生身で担いだままブースに入っていったので、僕は一応鞄を持ってついていくことにした。


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