第3話 私はこの世界をクズと思っている
強めに吹いた風の寒さで目を覚ました。すでに辺りは薄暗くなりはじめている。
「え……やばっ!」
独り言と共に跳ね起きた僕は、慌てて携帯を開き時刻を確認した。―――十六時四十四分。どうやら熟睡してしまったようだ。
溜息をついてから我に帰ると、慌てても仕方がないので本を鞄にしまってゆっくり立ち上がり、精一杯欠伸と伸びをする。
ふと、フェンスの方を見やると、真っ赤で綺麗な夕日がこっちを見ていた。
先程読了した物語の中で、主人公たちが別れを言い合った印象的なシーンも、確か夕日が舞台だった。
柄にもなく、ノスタルジーな気分になり、僕はもう少しはっきり夕日を眺めることにした。
高さ二メートル強のフェンス越しでは、イマイチ興が削がれる気がしたのだ。
しかし幸い、このフェンスは下をくぐればなんとか外には出られるし、フェンスを越えてもまだもう一つ高さ八十センチ程の柵が設置してあるので、安全面にも申し分ない。
僕は鞄を置いて、
見上げた夕日は、先ほどよりも鮮明で、やはり綺麗だった。桜の景色しかり、自然の生み出すものはやはり目を見張るものがある。
僕はこの先も、沢山の人との交流や、情などに価値を見出すことは難しいのだろう。だからこそ、自分の中にある数少ない、こう言った価値観はきっとこの先も大事にしなくてはいけないものだ、と思った。
そう思いながら、しばらく夕日を眺めていた。
「おい、君!」
唐突に、背後から投げつけられた声は、少しだけ焦りを含んだものだった。
振り返ると、見覚えのある女子生徒が、フェンスの向こう側で立ち尽くしていた。
「そんなところで何をしているのだ!」
声を荒げているその女子生徒は、件のクラスメイト、望月茜だった。
何故彼女はこんな時間に、こんなところに居るのだろうか。僕も人のことは言えないだろうが……。
彼女は、ハッと我に返ったような顔をしてから、少しだけ落ち着いて再び口を開いた。
「いや、すまない。君を驚かせるつもりはなかったのだ。少し一緒に考え直さないか」
彼女は、先程の表情とは打って変わって、今度はその顔を緩めて微笑んだ。
綿紗を当てた痛々しい頬だが、先程とは違って正しくとかれた長い髪と相まって、夕日に照らされた彼女は非常に可憐だった。
二秒程見惚れてしまったようだが、僕はその時やっと彼女が、何かを勘違いしているらしいことに気づいた。
「あの、望月さん……だっけ?君は多分……」
「少し私の話を聞いてくれ、クラスメイトくん」
突っ込みたいところは沢山あった。まずお前が人の話を聞けと言うところとか、確実に勘違いをして居ることとか、クラスメイトくんって呼び方とか。
しかし次の言葉で僕は、彼女に耳を奪われてしまったのだ。―――それは多分、永久に。
「私はこの世界をクズと思っている」
彼女は、フェンス越しに僕の目を見て、そう言った。
まるで、僕ではない何かに向けて突き刺すように、僕の目を見てそう言ったのだ。
「君の思うように、生きる価値もない世界かもしれない。何の罪もない人が虐げられ、罪を犯したものがのうのうと生き永らえて甘い汁を吸う。そのような世界だ、くだらん」
彼女の特有な、少し偉そうな口調も相まって、それは凄く冷たく、感情的な言葉に感じた。
「だからこそ私は、むしろ生きてやろうと思っている。この救いようのないクソみたいな世界にある、救いようのある何かを掴むために、生きてやろうと思うのだ!」
彼女の顔は、一生懸命で、素直で、真剣だった。それが可笑しかった。
彼女は僕が自殺に悩む根暗な男子生徒で、それを必死に救うべく、自分の思想を力一杯僕に語っているのだ。
盛大な勘違いによる自爆である。僕は、我慢ができなかった。
「クックッ……」
「な、何が可笑しい!」
「ハッハッハッハッ!」
赤面する彼女を尻目に、僕は腹を抱えて笑い転げた。
だってこんなこと、笑うなと言う方が無理がある。
見知らぬ女子生徒が、勘違いして、僕を救おうとしていて、熱弁したことが、とんでもなく綺麗事でどうしようもないほどくさいセリフで。
そして何故か、その声には説得力があって。
全く一体何年振りだろうか。腹を抱えて笑い声を上げることなんて。
「あー、可笑しい」
「な、何だ君は、生意気だぞ!今にも死のうとしている分際で!」
「ははっ、全くやめてくれよ。僕はここで夕日を見てただけだ」
「何だと!」
彼女は、ようやく自分の勘違いに気づいたようで再び顔を火が出そうなほどに真っ赤にしながら今度は蹲ってしまった。
「あー、こんな面白い事も、現実にあるもんなんだね。それで望月さん、こんな時間に、どうしてこんな所にいるんだろう?」
そう問いかけると、彼女は顔色をコロリと戻して答えた。
「そうだ。私は君に用事があったんだった。保健室にプリントを届けてくれたのは君だろう?日笠先生に挨拶に伺った時、ついでに君がここにいることを聞いたのだ」
「それで、わざわざお礼を言いに来てくれたわけか。お釣りのことといい、本当に律儀な奴だな君は」
「あぁ、やはりあれは君だったのか。通りで見覚えがあると思ったのだ」
どうやら彼女は気づいてなかったらしい。
「あーいや、お礼を兼ねてももちろんそうなのだが。ほら、君ファイルごと私にくれただろう」
「あぁ、それはもう使っていないものだから、必要なければ処分してくれて構わないのだけれど」
何だ、そんなことか。本当にどこまでも律儀な奴だ。
そう思って答えると、彼女は少しだけ、悪戯にニヤリと笑った。
「”まるでステンドグラスみたいだ”」
「?」
さながら、何かのセリフのような言葉を、彼女は口にする。
「”散る瞬間の方が綺麗なんてな”」
そのセリフには、何だか聞き覚えがあった。……いや、正確には見覚えだろうか。
恐らく実際に声に出されて『聴く』と言うのは初めてだと思うが。
そういえば、あのクリアファイルはいつのものだったか?
使わないまま、どれくらい鞄の中に……僕はハッとした。
「返せ」
フェンス越しの彼女に、僕は短く冷たく投げかけた。
悪戯に笑う彼女は、「さぁ、どうしたものかな」と、先程の痴態を覆したように優位な姿勢を見せる。
僕はとりあえずフェンスをくぐり抜けて、もう一度短く「返せ」と言った。
「冗談だ、勿論返すよ。君のものだしな。プリントも助かった、礼を言う」
悪戯な笑みから、柔らかい笑みに変わった彼女は、白いファイルと一枚の紙を僕に差し出す。
「しかし、蒸し返すようだが、純粋に良い詩だった。私は好きだ。他にはないのか?」
「作家になるのは諦めていたけど、詩ならどうかと一度書いてみただけだよ。しかしまぁ、僕もそんなものまだ自分が持っているなんて思っていなかったよ。残念ながら後にも先にもこれっきりだ」
「そうか、残念だな」
「まぁ、お互い恥ずかしいものを見られたってことで。痛み分けで頼むよ」
僕は、照れ隠しの溜息をついて鞄の中にそれを隠した。
「さぁ、日も暮れたし、そろそろ先生に鍵を返しに行かなくちゃ」
僕が鞄を拾うと、望月さんも自分の鞄を拾い上げて「職員室まで同伴しよう」と言った。
クラスメイトと長く会話をする事は珍しい。それが女子だと言うならなおさらだ。
基本的にそんな事は、班別の特別行事や授業などでしかありえない。
「あれ、その南京錠は閉めなくても良いのか?」
「うん、これは巻いているだけなんだ」
後ろから覗き見てくる望月さんを見て、初めて気づいたのだが、彼女は案外背が低い。
僕だって、男子の中では少し背の低い方だが、それでも彼女とは十センチ以上は差がありそうだった。
「そういえば、君の名前は市川と言うそうだが」
「うん、先生に聞いたのかい?」
「そうだ。それで、下の名前も教えてくれないか」
彼女は、少しニッとして言った。頬にある綿紗は愛嬌だ。
「善一だよ。善悪の善に、数字の一」
「善一……」
彼女は少し考えながら何度か僕の名前を反芻している。
「成程、良い名前だ」
凄く嬉しそうに、上から目線で彼女は言った。
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