第2話 屋上

 新しい教室は、三年生ということもあり、一階となっていた。

 我が校は代々そういうルールのようだが、受験勉強のストレスへの配慮ということらしい。

 三年生五クラスの中の、ちょうど真ん中に位置する三組が、どうやら僕が今年度の一年間、学校生活を送るための教室のようだった。

 ちなみに、二年次も一年次も同じ三組だった。

 そして、どうやら担任を務める教師も前回と変わらないようだ。

 しかし、当たり前のことだが前回と同じクラスメイトはやはり五分の一程しかいないようだ。

 僕は殆どクラスメイトを記憶していないが、隣で騒いでいる男子生徒がそのようなことを言っていた。



 僕は出席番号のせいで、比較的端前に位置する自分の席に着くと鞄を開けた。

 とりあえず勉強のために必要な常設道具は全て机の中にしまっておきたい。

 僕は筆箱やそのほかの文房具などは、いちいち持って帰ったりしないことにしている。

 図書館などで勉強することもあるが、それはそれで鞄に予備を入れている。

 やはりこういう場面でも、僕は面倒くさがりなのだと思う。

 面倒と思うが故に、効率化のための準備は怠らないことにしている。

 それすらも面倒とは思っているが、ここを甘えて仕舞えば、きっと僕はダメになるんだろう。



 それからややあって、チャイムの音と共に担任の教師が教室に入ってきた。

 前年同様、現国の女性教師だ。

「はいみなさん、チャイムが鳴ったので席についてくださいね」

 ハツラツとした声で生徒に呼びかけている彼女は、前年度に初めて担任のクラスを受け持ったような若手教師だ。

 年配者の教員に比べると、少しだけ頼りない部分はあるが、僕のような目立たない生徒のことも真っ直ぐに気に掛けてくれる様は、素直に好感が持てるし、僕も勉強についての相談はごく稀にすることもある。

 なにより、彼女は僕がスクールカースト最底辺に居ながらも、いじめなどにあっているわけではないということを、様々な誤解を経て認識してくれているので、僕はその点について、彼女が今年も担任を受け持ってくれることに安堵している。

「今年度も三組の担任をすることになりました、日笠美代ひがさみよです。みなさんよろしくお願いします。それでは、新しいクラスになって沢山思うところもあると思いますが、先ずは出席を取っていきたいと思います。元気よく返事してくださいね!」

 笑顔から放たれるその声に、少しだけ茶々を入れる男子生徒とのやり取りをかわしながら、彼女は出席番号順に名前を呼んでいく。

市川善一いちかわぜんいち君!」

「はい」

 高校生にもなって、フルネームでしかも君を付けられることに違和感を感じながらも、僕は最低限のボリュームで返事をした。

 その後もハキハキと点呼を続けていく様子を、僕は聞き流しながらなんとなく外を見ていた。



 今日は本当に呆れるほどの晴天だ。

 窓から見える道路の街路樹としてそびえ立つ桜の木々は、嫌という程の満開の花びらをつけ、それを撒き散らしながらアスファルトを彩っている。

 自然と人工物が織りなす不自然なコントラストだが、なんとなく風情があるのはどうしてだろうか。

 ふと耳を教室に戻すと、まだ点呼は続いていた。

 しかし、日笠先生の声はあるところでつまづいた。



望月茜もちづきあかねさん!……あれ?望月さん、欠席かしら?」

 教室に目をやると、確かに一つだけ席が埋まっていない。

「先生、望月さんさっき保健室に行くの見たよ」

 見兼ねた男子生徒が事情を説明する。

「そう、登校はしているのね。後で連絡しておかなくちゃね」

 彼女はそういって、点呼を再開した。

 そうすると、望月さんとやらはきっと、先程自販機で話した律儀な彼女のことなんだろう。

 あの女子生徒は多分、保健室によっていた様子だった。

 今ここにいないということは、何か事情があって保健室に戻ったか、早退したかのどちらかだろうか。

 しかし同じクラスメイトになる予定の子だったとは、まぁ割とよくある偶然だ。



 点呼が終わると、業務連絡に移った。

 年間の行事予定表などが配られたりなんかして、それをなぞるように先生が説明をする。

 そして、教科別に春休みの課題を回収していったところで、チャイムの音が再び鳴った。

「それでは皆さん、明日から入学式までは通常通りの授業になりますので、時間割をよく確認してくださいね。これから卒業まで、よろしくお願いします!」

 彼女の元気一杯の挨拶で締めくくられ、始業式の一日は幕を閉じた。



 騒然とする教室の中、いつもと同じように僕は帰り支度をする。

 何気なく教壇に目をやると、生徒と帰り際の談笑に興じていた日笠先生と目があった。

 彼女は目が合うなり話を切り上げて何故かこちらの方にやってきた。

「市川君、今年もよろしくね」

「えぇ、よろしくお願いします。僕に何か用事がありましたか?」

 話を切り上げてまで僕の方に来るのだから、何か用があるのだろうと僕は思った。

「ええ、大した用事じゃないんだけどね。望月さんの分のプリントを帰り際に、保健室に届けてくれないかしら?」

 僕は何故、と首をかしげた。

 たった今談笑を交わしていた生徒に頼めば良いのでは、と思いもしたが、しかしそうしないのには何か理由があるのだろうか。

 それに、職員室からもさほど遠いわけでもない。

 どうして僕が、と言いかけたが、「本当は今日はダメだけど、屋上の鍵、申請してたことにしてあげるから。ねっ?」

 と、先生が言うので「わかりました。後で取りに行きます」と、要求を飲むことにした。



 ことの説明をするに、我が校の屋上は任意的に開放して良いことになっている。

 理由は様々だが、部活の練習であったり、文化祭の練習であったり、その他学校生活に必要な場合は、申請さえ出せば自由に開放できる。

 しかし、これは模範的な生徒であることが前提条件で、通常一人では鍵を貸し出しすることはできない。と、生徒手帳には記入されているのだが。

 そこら辺のルールは、経年によってなんとなく緩和されていき、むしろ視聴覚室や武道場、モニタールームなど普段授業や部活で使用されない部屋が増えていくうちに、その規律すら忘れられていき、今では屋上を開放する規律など誰も必要としていない。

 そこに目をつけた僕は、駄目元で放課後の開放を申請してみたところ、すんなりと許可をもらえるようになったので、特に用事がない晴れの日などは、静かな屋上で読書をするようになった。

 風を感じる校舎での読書は、僕の数少ない楽しみである。



 流石に始業式の日までは、と思っていたが、今日はかなりいい天気だし、気温も暖かくなって来た頃だ。

 家に帰っても両親はいないし、昼食も外で済ますように言われていたので、売店で昼食を買って本の続きを読むのも良いかもしれない。

 僕は望月さんとやらに受け渡すプリントを受け取ると、もう使っていないクリアファイルにまとめた。

 これごと彼女に渡せばそれで任務は簡単に達成である。

 そうと決まれば早速、と保健室へ歩を進めた。



 教室を出ても、まだ校内は一向に静まる気配はない。

 それもそうだろう。僕のような帰宅部は何も気にせずそのまま家に帰るのだろうが、全校生徒の半数以上は部活動に在籍している。

 始業式であろうが、春休みであろうが関係なく活動をしていた彼等にとっては至極当然なことなのだろう。

 当然、後ほど寄るつもりの売店も、既に行列ができている。

 僕の行く頃にはまともな食糧は何も残ってないかもしれない。



 保健室にたどり着くと、保健医の女性が机に向かって何やら仕事をしていた。

「三年の市川です。クラスメイトのプリントを持って来たんですけど」

 保健医の女性は、眼鏡を少し下げながらこちらを見る。

 まだ初老のようだが、どうやらすでに老眼らしい。

「あぁ、茜ちゃんのクラスメイトね。この娘、まだ寝てるみたいだから先生が預かっておくわ」

 彼女がそう言ったので、僕はそのままお言葉に甘えることにした。

 特にこれ以上用事も無いので、「それじゃ、失礼します」と残して、保健室を後にした。



 教室からは僕の方が先に出たので、多分先生はしばらく職員室には戻らないだろう。

 そう思い、僕は先に昼食の調達を済ませることにした。

 売店の方へ戻ると、先ほどの勢いは少し落ち着き、店内に入る生徒は数名に減っていた。

 少し安堵して僕も自分の食糧を厳選することにする。

 しかし、と言うよりはやはり、めぼしいおにぎりやサンドイッチ、パンなどは根こそぎ持っていかれてしまった後のようで、残っているのは学生には人気のない袋詰めのスティックパンや、昼食時に必要のないラスクなどばかりだった。

 まぁ、仕方ないかと諦めて、僕はカフェオレとスティックパンとラスクを買うことにした。

 むしろこれだと、本を汚す心配もないのでちょうど良い。

 お金を払って売店を出ると、ちょうど日笠先生が職員室に戻っているところだった。



「あら市川くん。書類は届けてくれたかしら?」

「はい。望月さんは寝ているようでしたけど」

「あら、それは残念ね」

 先生は少し眉を下げながら言った。

 僕にとっては寧ろ、簡単に用事が済んだので好都合だったのだけれど。

「ちょうど僕も職員室に行こうとしていたところです。鍵をお借りしたいので」

「あはは、相変わらず固いわね、市川くん」

 先生は、僕の敬語をよく笑う。

 まぁ、確かに高校生が教師に使うと言うよりかは、僕のは部下が上司に使うような言葉なのかもしれない。

「一緒に職員室行こっか」

 先生がそう言うので、僕は後をついて行く。



「望月さんね、君と同じで周りに馴染めないんだって」

 唐突に先生が話題にしたのは、件の生徒のことだった。

「一年生の時に編入して来たらしいんだけど、それから周りと打ち解けないまま過ごして来たみたいで」

「僕の場合は自己責任ですよ」

「あはは、そうだね。でもまぁ、私が今年受け持つようになって、少しでも何か変われば良いなと思ってるんだけどねぇ」

 先生の教育姿勢は、良くも悪くもきっとまだ若いのだろう。

 真っ直ぐである反面、皮肉なことにそれは綺麗事にだってなりうる。

「それで、同じ境遇の僕に渡しに行かせたわけですか」

「あら、バレちゃった?」

 先生は少しおどけたように言ってみせた。

「まぁでも、少しずつでも変わって欲しいなぁ」

 先生はまるっきり純真な声でそう言うので

「多分余計なお世話だと思いますよ。僕も彼女も」

 と、僕は皮肉で返した。

 先生が拗ねたように「えー、そうかなぁ」とこぼしたところで、目的の職員室にたどり着いた。



 先生は入口にあるキーボックスから鍵を取り出すと、それを僕に手渡した。

「申請書は私が提出しておくから、いつも通り気が済んだら返しに来てね」

「えぇ。ありがたくお借りします」

 先生に頭を下げると、鍵を持って屋上へ向かった。

 校内はすっかり静けさを取り戻している。

 帰宅部の生徒たちはもう学校を出ているようで、部活動に励む生徒も今は昼食をとっているようだ。

 窓から外を見やると、少し気の早い運動部員が数名準備運動を始めている。

 こんな光景を見ると、ふと思いつくことがある。

『この日常は、くだらなく平和だ』

 平和に日々が過ぎて行くことは素晴らしいことなのだろうが、日常に刺激がなくては生きてる意味を問うてしまうこともある。

 だから、他の生徒たちは暇を見つけてはゲームセンターやカラオケに行くのだろうし、僕だってこうやって屋上へ本を読みに行くのだろう。

 日常の中にあるちょっとした非日常感を求めて。

 平常運転する日常は、きっとそれだけで退屈なのだ。



 階段を登りきると、少し古びた屋上への扉が見えた。

 両開きの扉にはドアノブが二つ付いていて、その上にはチェーンと南京錠がしてあるのだが、実はこれはただ巻いてあるだけだったりする。

 それを外して踊り場の端に置いてから、扉の鍵を開けた。

 立て付けが悪いので、少し扉を持ち上げながら空けるのがコツだ。

 そして扉を開け放すと、気持ちいい風が少し強めに吹いた。

 空は快晴で、日差しは正午を少し過ぎたところから、屋上のコンクリートを突き刺している。

「気温もいい感じだな」

 上機嫌で僕は思わず独り言を呟いてから、取り敢えず日陰を見つけてそこに腰を落とした。

 そして、売店で買った昼食を広げながら読みかけの本を鞄から取り出す。

 この瞬間だけ、少しばかり冷めすぎてしまっている僕でも、少年のような気持ちを取り戻すことができる。

 現在では唯一無二の楽しみだと言っても過言ではないかもしれない。



 スティックパンをかじりながら、本を開くと、ちょうど栞の挟んであるところで開いた。

 朝も気になってしまって少し読みながら登校していたのだが、絶妙に良いところで昨日は寝てしまった。

 主人公が、夕焼けをバックに、ヒロインに作品のタイトルになっている言葉を告げるところだった。

 恐らくここが、この本の一番の見どころなのだろう。

 その部分を、何度か往復し、噛み砕くように読み進めて行く。

 切なく、仕方なく別れて行く文学少年とヒロインのやり取りを頭に思い浮かべた。

 青春時代を共に過ごした少年少女。しかし、残酷な現実を前に、力ない少年少女にはなすすべはなく「僕たちがもっと大人だったら」などと負け惜しみを言って後悔をする。

 現実にもありふれている事例だが、例に漏れず人間が大人になって行く過程とは、決して綺麗なものばかりではないのだろう。

 この作品は、そのドラマを汚い部分さえも余すところなく書き切っている様子が、さらに作品の良さを押し上げているように感じた。

 僕は作品を食い入るように読み込んで、残りの五十ページなど、あっという間に読み切ってしまった。



 ふぅっ、と溜息をついて本を閉じる。

 また、良い作品に巡り会えた。

 本を一冊読み終わった後には、そんな満足感と喜びが束の間を支配する。

 心の渇ききった面倒くさがりの僕が持つ、数少ない普通の一面だ。

 ふと周りを見ると、夢中になって本を読む間に、スティックパンとラスクも無意識に平らげてしまっていたようだ。僕の悪い癖である。

 携帯を開くと、時刻はまだ三十分程しか経っていないようだ。

 ゴミを袋にまとめて、本と一緒に鞄に入れると、今度は先程とは別の本を取り出す。

 これは、普段から愛読している作家の新刊である。

 先程の文学とは変わり、今度は推理小説だ。

 一冊毎完結ではあるが、一応シリーズ物で、毎度お馴染みの探偵が奇怪な事件に現実的な難癖をつけて行くという、一風変わった推理ものである。

 この作品は連続ドラマにもなっており、かなり有名なのでイマイチ新鮮味に欠けるのだが、内容は本当に安定して面白いので、新刊が出るたびに購入している。



 二十ページ程読み進めたところで、少し眠気が襲ってきた。

 先程の作品のインパクトがまだ残っているせいか、展開がある程度見えているこちらの作品は、物語の佳境まで遠く感じてしまっている。こういう時は大体話が頭に入ってこない。

 仕方なく、僕は鞄を床に敷いて枕にする。

 寝不足気味だと言うこともあり、僕は独占した屋上で、昼寝をすることにした。

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