第5話


 自分がどれくらいの時間気絶していたのかはわからない。目が覚めた時、ジークが一番最初に見た光景は幼い少女を魔人が殺そうとしている瞬間だった。


 意識が纏まらない頭でもその状況は瞬時に理解できた。彼にとってその光景はどんなに意識がはっきりしていなくても理解出来ない訳がない光景だった。


 魔力で強化した足で地面を蹴りあげ、少女と魔人の間に割り込む。幾らジークが身体強化と魔力のコントロールに長けていても間に合う筈がなかったのだが、それでも間に合ったのは魔人が甚振る為に時間をかけていた為だろう。


 割り込んだと同時に魔力を剣へと移動させる。魔人の皮膚は硬く、普通の武器では擦り傷一つ付けられない。それをなんとかする為にジークは魔力で斬れ味を何倍にもする。


 斬れるわけがない。そう思っているのか避けようともしなかった魔人の腕を斬りとばした。


 思いもかけない痛みに魔人が叫ぶ。


 本来なら痛みに叫ぶその隙を見逃すジークではなかったが、回復したばかりでまだ意識がしっかりしていない事と、背後の少女の存在がジークに絶好の隙を逃す要因となってしまった。


 魔人が後ろに飛び距離を取るがジークがそれを追撃することはない。


「前を向け」


 流石に背後を振り返る愚かはしない。

 二度目のその言葉で少女なら前を向くだろうと確信があった。


 視線は魔人から離さない。

 吹き飛ばされた時に気配など微塵も感じなかった。暗闇の中背後から襲ってくるシルバーウルフを振り向きもせず殺せるジークが気付かなかった程だ。気配を完全に消し去れる者をこの暗闇の中もう一度見失う訳にはいかない。ジークは魔力で強化した視力で魔人を睨む。


「――ぁああああぁぁあああああっ! よくも、よくもよくも、ゴミの分際で、私の腕を!」


 魔人は切り落とされた腕を断面に押し付けながら叫ぶ。その声、目には怒りの感情はあれどまだまだジークを敵と見なしていない。


 魔人は生命力も何もかもが人間とは比べ物にならない。子供でも知っているその事実を知識だけではなく実戦でも知っているジークは、あの腕もすぐに治ってしまうと見切りをつける。


 仕切り直しだ。


 剣を握る手に一度ぐっと力を込めたあと、いつも通りに必要以上の力を体から抜いていく。


 いつだってそうだ。殺すか殺されるか。撤退の二文字はない。ジークは精神を研ぎ澄ましていく。思考を極限まで殺意に変えていく。



 ――いつだってそうだったのに。



 殺意に染まっていくジークの頭に撤退の二文字がうすらと浮かんだ。

 あり得ない。けれどそれは自身ではなく背後の少女を生かす為の選択肢だった。

 急に湧いて来たその感情に一瞬戸惑い、そして自分でも驚く程のその人間らしい感情に身を任せてみる気になった。


 自分にあまりにも似ている少女。


 強くなる為に人間らしさを捨てた。復讐する為にそれ以外の時間を捨てた。人並みの幸せも、人並みの不幸も、喜びも悲しみも。全て捨ててただ殺意と憎悪の中に身を置いてきた。

 この十にも満たない幼い少女がそんな自分と同じ目をしていた。同じ世界に生きていると見た瞬間に感じた。


 そして、少女を人並みに戻したいと思ってしまった。



 この剣を振るうのに必要なものは殺意と憎悪だけだ。他に何の感情もいらない。そこには怯えなどは勿論、自身が死ぬかもしれないという恐怖すら無かった。

 自分の為だけに戦ってきた。消えることのない憎しみに身を任せて殺してきた。混ざり物の無い殺意と憎悪。それがジークを魔人と戦える程に強くした。


 けれど、それだけだったのだ。


 ジークが求めたのは勇者の称号。強い者に与えられると伝えられている女神の加護。それさえあれば魔人をより多く、より速く、より簡単に殺せると言われている。7年間血みどろになりながら渇望したそれは未だにジークの元に現れていない。


 もう、疲れたのかも知れない。


 ふとそう思ったジークの口から息が漏れた。


 思えば今日久し振りに戦闘以外の事を考えた。雲が晴れるかどうか。自分と似た少女のこと。その少女が拾ってきた見事なまでの毒きのこや木の実の数々。他にも自分は武器だと言った少女の真意など。


 殺意と憎悪の世界。体は平気だとしても心までは平気ではなかったのかも知れない。自分の心はもう終わりたいのかも知れない。


「この道をまっすぐ走れ。暫く走っていれば森から抜けられる」


 ジークがそう指差した道には魔人が立っている。その言葉に少女は自分の役割を即座に理解した。


 自分が囮になり、その隙をつく。


 それは、お互いが似ていると思っていたからこそ生まれた齟齬だった。変わりつつあるジークの心とそれを知らない少女。その齟齬が少女にジークの言葉を言葉通りに受け取らせない。


「……わかった」


 そう言って少女はジークの前に出て魔人に駆け寄っていった。






*****






 文字通り受け取ればそれはまるで私だけでも逃げろという様な言葉だ。だが、この男にそんな情などあるはずがない。この言葉の真意は恐らく私を道具として使うという事だろう。


 確かに私はあの魔人に手も足も出なかった。武器としては何の役にも立たないだろう。だが、この男はそれでも私を道具としての価値があると認めた。


 戸惑いはなかった。上手く囮をこなせばもっと私を認めさせることが出来る。


 男の前に出て、走り出す。何故だか落ち着き始めた心で暴れていた魔力を押さえ込みながら、魔人の状態を見る。

 思った通り腕はまだ回復出来ていないみたいだ。斬られた腕の断面を黒い魔力が蠢いている。


 ……言った通り耐性はあっても完全に効かない訳ではないみたいだ。回復を阻害するだけでも十分役に立つ。あとは私が上手く奴の注意を引き――っ!?


「うぐっ!」


「何を考えている!?」


 急に服を持たれて後ろに引っ張られた。首が締まり、前に踏み出そうとしていた足はその場を踏み体のバランスを崩した。倒れると考える程の余裕などなく、傾いた体を支えられた事で初めてその考えが頭に浮かんだ。最もその考えも直ぐに消え失せ、敵が前にいるのにも関わらず振り返り背後の男を睨む。


「それはこっちの台詞だ! 何故邪魔をする!」


「邪魔だと? お前は死にたいのか」


「……何を言ってるんだ。私が上手く囮をこなせば殺せるんだろう?」


 男の表情が意味がわからないと言っている。そしてそれは私も同じだ。ここに来てまた男の考えがわからなくなってきた。


「……ああ。そういうことか」


 ほんの少しだけ睨み合った後、男は何かを理解したかのように声を漏らす。その後私を見る目が苛立たしさを含んだ。その目を向けられて私は思わず視線を外してしまう。


 考えてみれば何故私は視線を外したのだろうか。意味がわからない。私には何の落ち度もなかった。そんな目で見られる謂れはない。


 顔をあげ負けじと苛立たし気に男を睨んだ。だが男はもう既に私を見ていなくてその視線は魔人に向いている。


「いや、俺が悪かったな。もういい、側から離れるな」


「……なにを言っている」


 意味がわからない。なにを言っているんだ。そう言い返そうとした瞬間またも服を掴まれて後ろに引っ張られる。


「――っっぁああぁああああああああっ!」


 驚きに目を見張る私の前には伸ばされた魔人の腕とそれを削ぐように置かれた剣先があった。開かれた掌から肘にかけてがぱっくりと裂かれ、そこから噴き出す血は私の全身を赤く染めあげた。


「ああああああああっ、なんで! なんなの! なんなのよアンタは!?」


 男に切り落とされた腕は辛うじてくっついている状態らしく、叫ぶたびにぶらぶらと揺れている。つぎはぎの繋ぎ目からは未だに黒い魔力が蠢いていてその再生を阻害していることから完治にはまだ少し時間がかかることがわかる。


 けれど、魔人の体内に送ったあの魔力はもう殆どその力を失ったみたいだ。ついさっき二つに裂けたはずの腕がもう元に戻っている。そこにはあの黒い魔力はなかった。

 その回復の早さがこの魔人が特別な存在なのだと嫌でも理解させられる。普通の魔人よりも優れた回復力を有し、どうやってかは知らないが魔法も無効化出来る。勿論その体も普通の武器では傷をつけることも困難だろう。


 ……いや、待てよ。ならなぜ今魔人は腕を斬られている。以前、魔人をも斬れる武器として宝具と呼ばれる物が少ない数あったが、男が使っている剣はそれなのだろうか。だがあれは国宝扱いされていて、その国の王から直接貸し与えられなければ所有することも使用することも許されない筈だ。それにあの王家の紋章をうつした派手な装飾がないから恐らく違う。


 以前私はそれを途中で剥奪されている。その国におもねかなかったので、その国の代表としてついてきていた剣聖にその資格が渡り、その後剣聖は、戦っている最中に何処かへ消えた。

 ……いや、あのバカだけではないな。聖女と呼ばれたアバズレは剣聖以外の傷を治そうともしなかったし、賢者と呼ばれたアホは私がいる場所に魔法を打ち込んできた。そしてどいつもこいつもいつのまにか消えていた。



「ゴミの分際で、なんで魔力が吸収されないのよ!」


「……そっちの腕は随分回復が遅いようだな。となると、時間稼ぎのつもりか」


「じ、時間稼ぎですって!? たかが人種に、ゴミ如きに、私がそんなみっともないことをするわけがないでしょ!」


「……わかっていたことだが、腕や足では意味が無いな」


 男は剣を下に向けると後ろに飛んだ魔人との距離を無防備にも歩いて詰めていく。片方の手は未だに私の服を掴んだままだったので私は引き摺られる形になった。


「ちょっ、おい、待て!」


「なにをしている。側から離れるなと言っただろう」


「わかったから引っ張るな!」


「……ちっ」


 男の足が止まり、その隙に男の隣に並び立つ。後ろではなく隣に立った意味を理解して、男が苦々しく呟いた。


「……奴は魔力を吸収すると言った。恐らく魔法は効かないぞ」


「すでに試した。それに言った筈だ。私は魔法より剣の方が得意だと」


「……剣など持っていないだろう」


「……予備は持っていないのか」


 私の言葉に男は懐から出したナイフを手渡してきた。

 要するに、これしかないということか。


「守りだけ考えろ。もう一度言うが、俺の側から離れるな。そして自分の守りだけを考えろ」


 頷くことで答える。何だかんだ言ったがどうせ私のする事は決まっている。もう一度黒の魔力を魔人に喰らわせることだ。今の私に出来ることはそれしかない。


「あら、相談は終わったの? うふふ。待ってあげてたのよ。私は特別な存在なのだから」


「腕は治ったみたいだな。ついでに頭の血も下がったか。時間が経って得したのはお前みたいだが」


「……本当にベラベラとうるさいゴミね。もういいわ、その口二度と開かないようにしてあげる」


 接近戦は不利だと思ったのか、それともそもそも魔法が得意だったのかは知らないが、魔人の生み出した炎の魔法が私達を襲う。

 最初は手の平大の大きさだったそれは魔人の手から放たれるとすぐに私達を飲み込む程の大きさへと成長した。


 地面を焦がしながら迫るそれに男は戸惑う事なく突っ込んで行く。……私の手を引っ張って。


「待て! なにを考えている!」


 魔法には魔法をぶつけて相殺する。もしくは避けるしか対抗手段などないのに、盾も持っていない中突っ込むのなんて自殺行為としか思えない。


 くっ、間に合うかどうか、いやそれよりも発動してくれるのかどうかわからないが魔法に頼るしかない。


「水の――」


「うるさい黙ってろ、舌を噛むぞ」


 直後男が蹴り上げた地面が爆ぜ、私の足は地面から離れた。口を開くどころでは無くなり、目の前には肌を焼く熱と太陽と見違える程大きく見える炎の塊があった。


 なぜここで加速する!?


 問い詰める余裕などなく、ただこの炎に呑み込まれるだろう結末が頭を埋め尽くす。焼かれて、焼き尽くされ、焦がされ、灰すら残らないそんな結末だ。


 目をそらすことすら出来ない圧倒的な炎は一切の慈悲もなく、命乞いすら聞かぬとその成長を止めないまま私達を呑み込んだ。




 ――魔人すらもそう思っただろう。



 あの巨大な炎の塊は呑み込む直前でその体を四つに分散し、私達が通れるだけの僅かな隙間を作った。

 いや、四つに分かれたのではない、斬られたんだ。


 男が剣を振り道を作る。その道を駆け抜け、驚きに目を見張る魔人の下まで一瞬で辿り着いた。ここに来て魔人とは反対に私の頭は現実を理解する。


 魔法を斬るなんて聞いたことがない。本来ならその方法を問いたいが、今はそれをする時ではない。


 私は私のやるべきことをやる。


 男の剣が一閃する。迷う事なく魔人の首を斬り落とそうと横一線に振られた剣は、ギリギリのところで反応した魔人に避けられた。


 剣は首を落とすまでにはいかなかったけれど、私の方は上手くいった。咄嗟に後ろへ下がり致命傷を避けても、それは剣の間合いだ。私の攻撃はあくまでも魔力だ。間合いに関しては剣と比べるまでもない。


 ……直線的な私の攻撃が難なく当たる時点でこの魔人が誰を脅威と見なしているのかがわかる。


 浅く斬られた首を抑えている魔人を睨む。その手の隙間から黒い魔力が蠢いていて、目論見通り回復を阻害している。

 即座に回復が出来ないことは十分な有効打の筈だ。だがそれでも魔人の視線は私に向いていなかった。


 男が追撃に動く。当然のように引っ張られた私の足はまた地面から離れた。


「――っナメるなぁあああァぁアアアアアッ!」


 魔人の叫びが響いた。怒りに満ちたそれに呼応するかのように魔力が膨れ上がり、膨大な量の魔力はそれだけで脅威となり壁としての役割を持った。


 警戒からか男の足が止まった。それでも未だ膨れ上がる魔力量を見て表情が強張っていく私とは正反対に男の表情からは焦りなどを読み取れない。


 馬鹿げている。この魔人が他の奴とは違うということは嫌という程知った。けど、その認識すら甘かったと覆すあり得ないほどの魔力量だった。


 そう、あり得ないんだ。あり得ていいはずがないんだ。なぜならこの魔力量は数回前の魔王と変わらない、私より強くなった時の魔王と変わらない魔力量だ。

 魔力は本来透明だ。魔力感知に長けた者はその透明な魔力を色では無く、感覚で認識する。見えないけど見えている。存在を感じられる。そんな確証が無い曖昧な表現でしか説明出来ない。

 だからこそこれは異常だ。あまりの濃密さに周囲が歪んで見えている。


 ふざけるな。魔王が2体いるようなもんじゃないか。


 絶望するには十分な理由の筈だった。何せ私はこの魔人に会って既に一度膝を折ってしまっている。この魔力量はその時以上の衝撃なのは間違いない。諦め、膝を折り、首を差し出し殺されるのを待つしかない。もしくは足掻いて足掻いて、何の意味も無く足掻いてその末に無力感に襲われながら殺されるのを待つか。どちらにせよ結末は変わらず死しか待っていない筈だ。


 それなのに私の心は絶望しなかった。なぜなのか。隣に立つ男の顔を見る。

 どんなに魔力に鈍感な人でもこの圧力を感じない筈がない。そして感じたのなら思い知ってしまう。敵のそのあまりのあり得なさに。それなのに、同じ敵を見ている筈の男の表情からは恐怖や焦りなどの感情が一切読み取れない。


「……勝てるのか?」


 馬鹿な質問だ。そう思ったけれど、つい聞いてしまった。この安心感は私の勘違いなのかどうか、私はあまりの現実から目を背けているだけではないのか確かめたかった。


 声にして、言葉にして、態度にして、示して欲しかったんだ。この安心感が本物だってことを。


「……こんなところで、死にはしないよな」


 漏れでた声は震えていた。一度諦めた私が何を言うんだと笑われるかも知れないけれど、生きたいと強く願ってしまった。屈してしまった絶望とは違うその願いのことを何て言うのか、私は知っている。

 ……ああ、それは自分が生きている世界とは違う世界の出来事だと無感情に切り捨てていたものだ。いつだってそれは私を避けて、時には私を犠牲にして他人に降り立っていた。


 いつの頃からか思い出せないほど昔にもう願わないと決めた。もう想わないと決めた。乞うだけ無駄だと切り捨てた。


 それなのに私は今願ってしまった。想ってしまった。生きたいと、彼なら現状を打破してくれると、彼がいれば何とかなると。


「……当たり前だ」


 彼は僅かに口角を上げて笑ってみせた。そして私の頭に手を置き数回動かした。慣れていないのか、それとも不器用なのかはわからないが、笑んだ顔は無理矢理作ったものだとわかるほど不恰好で、頭を撫でるその手は力加減が中途半端で痛みを感じる。


 けれど――。



「……そうか」


 心臓がトクンッと大きく動く。その中心から暖かさが広がり手足の先まで余す事なく満たしていく。

 声はもう震えていなかった。僅かな恐怖すらも逃げ去り、安心感で満たされる。


「安心しろ。さっさと終わらせてここから出るぞ」


「あぁ……、そうだな……」


 高鳴る心臓のその理由も、絶対的な安心感も、今まで一度も感じた事のないものだった。

 未知の感覚に対する戸惑いからなのか、それともこの訳の分からない暖かさからなのか、私の口は本来の私ならば有り得ない言葉を紡いだ。


「……任せた」


 たった一言、記憶にある限り誰にも言ったことのない言葉が漏れ出る。同時に無意識にぎゅっと力が込められた手は彼の裾を掴んでいた。




 魔人と相対する。絶対的余裕からか敵は不意を攻めるような事はしなかった。ただその圧倒的なまでの魔力量に任せて魔法をぶつけるだけで終わるのだからわざわざ不意をつく必要などないのだろう。


 隣の彼だけを視界に写して魔人は笑う。先程見せた激しい怒りはそのなりを潜め今の魔人からは強者の余裕を感じられる。それでもゴミだと思っていた種族に激しく感情を動かされた上に、全力を出さないといけないことがプライドを刺激したのか、蠱惑的な笑みを浮かべていてもその目に宿るどろどろとした殺意までは隠しきれていなかった。


 対して彼はどこまでも自然体だった。その姿は魔人の余裕の表情も殺意も、それを具現化した景色を歪める程の膨大な魔力も、まるで全て見えていないかのようだった。体からは余計な力が抜け、剣はその切っ先を地面へと垂らしている。魔物を倒した時のような凶暴な殺気も発していない。どう見てもただ呆然と立ち尽くしているようにしか見えなかった。


 それでも当然のように魔人は油断もしないし最初のようになめてかかることもしない。笑みを引っ込めて真剣な表情で魔力を操る。大気を揺るがす程の膨大な魔力は周囲を歪めながら徐々にその範囲を小さくしていった。


 それは決して出し惜しみをしているわけでも、まして情けをかけようというわけでもない。圧縮していっているのだ。魔力量に任せて放出していただけのものを、圧縮し濃密にし指向性を持たせようとしている。歪んで見えていた景色はその範囲が小さくなるにつれて、見えなくなっていった。

 出来上がったのは不透明な球状の塊だった。私の頭くらいの大きさのそれは、透き通っているようで透き通ってなく、その色は言うなれば白色に近い。


 純粋な魔力の塊。本来無害であるはずの魔力自体が膨大な量を圧縮することによってどんな魔法よりも強力な魔法となった。

 人では到達し得ない領域、いや、他の魔人でも決して不可能だろう。そこに到達した唯一の魔人は汗で滴る髪の毛を払ったあとまた笑ってみせた。


「ふふふ、貴方のそれを参考にしてみたわ。初めてやってみたけど、上手く出来たと思わない?」


 魔人は圧縮した魔力の塊をふらふらと漂わせながら彼に話しかける。その声は柔らかく、まるで親しい友人に話しかけているみたいだった。その殺意に溢れた目さえなければだが。


「魔力って破壊そのものだったのね。今まで魔法に変換していた私が馬鹿みたいだわ。……それをゴミ如きに教えられたのは癪だけれど、まぁいいわ。授業料はこれで払ってあげる」


 ゆらゆらと漂っていた暴威がぴたりとその動きを止める。その先には彼がいて、あとは主人からの命令を待つだけだ。


「貴方の魔力操作と私の魔力圧縮、どちらが優れているのか……、ふふ、あははははははっ。結果が楽しみねぇ」


 結果なんて見なくてもわかる。この暴威に純粋な力比べで勝るものなんてない。仮にいくら彼が魔力の扱いに長けていて、同じように魔力を圧縮したとしても圧縮した魔力量が違いすぎる。


 そう、見なくてもわかるんだ。それなのに彼は、この理不尽を前に、触れただけで消し飛ばされそうな暴威を前にして一瞬の逡巡も、戸惑いすらもなく、真っ直ぐとその先の魔人へと駆けた。左手に剣を、右手に私の手を握り。


「――――ッ!!」


 全ての感情は喉元すら越すことも出来ず、その代わりに心臓がその全身を使い音を荒げる。激流のように体を巡る血が指先の末端までその血と共に昂揚を運んでいく。肌は粟立ち、力が入る左手とは反対に両足は地面に立つ事を放棄し力が抜けていく。手を引かれるまま先程の言葉の通り私の全てを彼へと委ねた。


 委ねた、けれど、ただ、一つ。全身に巡っていた安心感は今は何処にも、体の何処にも存在していなかった。


 何故私の手を引っ張る!?


 魔力で強化したであろう足は私というお荷物を引っ張っていても魔人との距離を何倍もの速さで埋めていく。何か予想外だったのか狼狽えた魔人のその僅かな隙で彼はその理不尽の塊を剣が届く間合いまで詰めた。

 けれど、剣を握っている左手を振ることはしない。真っ直ぐと最短距離を進んでいた彼の体が僅かにずれる。浮いている私もそれを追うようにずれ、直後私の目の前をあの暴威が通り過ぎた。



「――なッ!?」


 一瞬理解が出来なくても仕方がなかった。いや、避けるのはわかっていた。当たり前だ。あれに正面から立ち向かってどうする。そんなのは自殺と変わらない。だから私を連れてく理由はわからないが、手前で避けるのだろうとは予想していた。だがその距離は予想を超えて遥かに近く、揺れる髪の毛が当たりそうで当たらないぐらいの、本当に紙一重の距離だった。


 死、そのもののようなこの塊を前に誰がこんな近距離まで引きつけられるだろうか。紙のように薄い生と死の狭間を彼以外の他の誰がこんなにも限界まで近づくことが出来るだろうか。ここから出るといった彼は生きることを選んでいる。死んでも構わない捨て身というわけでもないのに死に触れるか触れないかの距離を渡り歩いている。

 それは相手からしたら死んだと錯覚しても仕方がないだろう。殺した筈なのに生きている。そして気付けば自身に死が迫っている。死を運ぶだけではなく、自身も最も死に近づける存在。だから彼は死神と言われているのかも知れない。


 勝てる。そう思った瞬間私の体は彼から引き離された。瞬間私の顔に生温い何かが飛び散った。


 ぁああ……、そうだ、そうだった。何を浮かれていたんだ私は。こいつはいつだって私を嘲笑うかのようにやってくる。いつだって私に降りかかるのは希望なんてものではなくこいつだ。


 私の視界には私を突き飛ばした彼の右手が避けたはずの暴威に飲み込まれていく瞬間が映し出されている。


「ぁ、ぁあぁあああ……、なんで、なんでこんなっ!」


 右手を喰らった暴威は彼の身体を吸い込むように腕まで飲み込んでいく。こうなってしまったのは恐らく私を庇ったせいだろう。あの魔人は未だ彼ではなく私を狙っていたのか。

 どうにかしないと、そう思う頭とは反対に足は動かない。目の前のこれは死そのものだ。一度希望を抱いてしまった私に自らその絶望に落ちていける程の気概はなかった。こんな所で死んでしまうことを恐れてしまった。


「……想定していたことだ。心配するな、問題はない」


「な、にをっ!?」


 絶望的な状況だ。何せ今彼は死に飲み込まれようとしている。それなのに彼は表情を崩さなかった。その目は隣に迫る死ではなく、悦に浸っている魔人へと今も尚向いていて、その魔力で強化された足は地面を蹴り上げ、死を置いてけぼりに魔人との距離を詰めた。


 ――そう、あの魔力の塊を置いてけぼりにしているのだ。


 彼の右腕は目の前にある。震える手を動かして顔に触れてみる。そして顔に飛び散っていたものの正体に至る。血だ。彼はあの瞬間自分の肩から下を斬っていた。

 そして勝利に油断したその隙をついて一気に魔人の目の前まで距離を詰めた。


「な、なんで、なんで私が狙う先がわかったのよ!」


「お前ら魔人はいつもそうだっただろう。これでようやく終わりだ」


 終わりを宣言すると同時にこの魔人との戦いで初めて彼から殺気が放たれる。どろどろとした憎悪と殺意の塊が爆発したかのように一気に放たれる。それから感じるのはやはり死のイメージだ。少し離れている私ですら気圧されるのだ。これを間近に、それも向けられた魔人はどれほどの死を体感したのだろうか。後退しようとした足は絡まり倒れた。起き上がる力も入らないのか足に動く気配はなかった。辛うじて地面についた手が震えながらも魔人の体を支えていた。塗り替えられたかのように魔人が生み出した死はその姿を霧散させ、殺意を宿していた目からは涙が溢れていた。


「い、や……、いや、いや、近づかないで、近づくな、来るな! なんで、なんでよっ、おかしいでしょ、私は特別なのよ! ゴミ如きが見下すな! 死ねよ、あんたが死――」


 震える手を精一杯に動かして魔人は彼から距離を取ろうと足掻いていたが、彼の一撃は魔人の首に深く刺さった。

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