第2話
風が唸りを上げて木々を横殴る。黒く厚い雲が太陽を完全に覆い隠し、まだ昼だと言うのに夜のように辺りは暗かった。
魔宵い日。数日間続く数年に一度あるかないかの魔物が活性化する日だ。太陽を隠す黒く厚い雲は、高名な魔術士が言うには膨大な魔力の塊らしく、教会が言うには女神に背いた邪神が女神の力を覆い隠しているらしい。
髪も瞳も黒く、外套の色も黒いジークはまるでその世界に溶け込んでいるように見えた。足を止め太陽を隠す黒く厚い雲を見上げた。
そこまで魔法が得意じゃないジークには雲の魔力を感知する事が出来ないのでそれが事実か確かめようがない。
そして相変わらず女神だ、邪神だと言う教会はクソ喰らえだと吐き捨てる。
ただこの雲はどうやったら晴れるのだろうかと思ってしまった。
魔宵い日は雨が降る前日のような前触れは無く急に空に現れる。影が射した気がしてふと空を見上げると、黒い小さな雲が太陽を少しだけ隠している。その成長速度は速く、五分もしない内にその雲は太陽を覆い隠すほど大きくなり、一時間もしない内に大陸全土に広がる。
そうして世界が黒に染まったら魔物が活性化する。数が増え、凶暴になり、生命力もあがる。この数日間で大きな被害を被る町もあり、過去には一国が押し寄せる魔物に滅ぼされたという記録も残っている。
それ故に多くの人々は前もって対策することのできないこの魔宵い日に恐怖し、この数日間家の中で過ごしている。
ただどんな事にも例外はいるわけで、この日を待ち望んでいる者もいた。それは冒険者と呼ばれる職業の中でも一握りの高位の者達だ。魔宵い日の魔物は手強いが、倒した時に落とす魔石がいつもより上質になっていることが多いからだ。
これが国や個人に仕える騎士や兵士ならば任務中に倒した魔石は主に献上しなければならないが、主のいない冒険者は違う。その全てを自身の懐に入れることができる。
そしてこのジークという男もその高位の冒険者の一人だった。ただ彼の目的は他の冒険者とは少し違った。
ジークは視線を空から前方へと移す。森の深い所まで来た。仮に魔宵い日ではなくても、この伸びた木々達は太陽から溢れる光を遮ってこの場所を暗くするだろう。
魔力で強化された視界で前方を睨む。気づかれていることがわかったのか茂みから五匹の狼がゆっくりと姿を現した。
シルバーウルフ。銀色の毛並みは月の様に美しくて、その体躯は大人の背丈を超える程にもなる。魔物の中でも上位のランクに位置し、鋭利な爪や牙、鎧ごと肉を噛みちぎる程の咬筋力を持つ。
そして最も厄介な所は頭がいいということだろう。どんな獲物でも決して油断はせず群れで動き、多数の獲物を狩る時は身を隠し一人や少数になったところで今のように囲んで狩りを行う。
その思考は少しでも狩りの成功率と群れの生存率を上げる為だけに働いている。
シルバーウルフはジークを威嚇するように牙を見せ唸り声を上げる。隙を見せたその一瞬でとびかかれるように身を低くし、蹴り足に力を込めている。
対するジークは自然体のままだった。体からは緊張による強張りが見られず、戦う意思も感じられない。
そしてゆっくりした動作で剣を抜いた。
その動きに一匹のシルバーウルフが一際大きく吠えると同時に地面を蹴り一気にジークに駆け寄る。
けれど、その動きは途中で止まりその狙いはジークの背後にあった。前方の五匹に意識を集中させて、背後に潜んでいる一匹が奇襲をかける。最悪殺せなくても血を流しさえすれば人という種族は動きが鈍る。シルバーウルフにとってその結果はどんなに軽傷だったとしても致命傷と変わらなかった。
ジークはずっと前を見ている。背後には息を殺した同胞がもう一飛びで首元に喰らいつける。
そしてその同胞は牙を剥き最後の一飛びを、地面を蹴った。
――その瞬間全身の毛が逆立つ。
ジークから爆発的に放たれた殺気。それは暴風のようにシルバーウルフの毛を逆立て、氷雨のように高揚していた心を凍て付かせた。時間さえ止まってしまったと思えたこの場所で前の五匹はジークの剣先が後ろを向くのを見た。
飛び出していた一匹は抵抗する事も出来ず、その切っ先へと自身の体を埋めていく。届くはずだった牙はまるですり抜けたかのように空を噛んだ。
自身の体が剣を否応なく受け入れていくことに痛みと死を感じつつも群れの生存の為最後の足掻きとして爪を上げる。
ジークの装備は鉄鎧では無い。シルバーウルフ達にとっては何の防御力も無いような紙切れ同然の布地だ。
力無く落ちる爪でも十分に傷をつけることが可能だと死の淵で判断した。幸いなことにもう殺したと思っているのか、ジークは後ろを見ていない。
それは何処までも同胞の事を想うシルバーウルフの意地だった。上げられた爪がシルバーウルフの絶命と共に振り下ろされる。
けれど、その爪もすり抜けるかのように空を切った。
前方の五匹は倒れ行く同胞を眺めていることしかできず、ジークが血ぶりをしたことにすら無反応だった。
ジークは剣を払ったあと魔力を眼から両足に移す。そして現実を理解していないのか未だに呆然としているシルバーウルフを斬っていった。
魔族領から最も遠い位置にあるクラスタ王国。その中心地とも言える王都から西へ馬車で10日間程行くと、国境に近いサカラの町に着く。
そして町からほど近くにクラスタの大森林と呼ばれる森が広がっている。国境を跨いで広がるその森は、ゴブリンなどの中位の魔物が多く生息し、度々街道に出てきては通る人を襲っていた。
普段はゴブリンやオークなどの中位の魔物しか現れないのだが、稀に森の深部にいると噂される上位の魔物が街道に現れることがある。
ジークが受けた依頼はその稀ごとであるシルバーウルフの討伐依頼だった。
オークならまだしもサカラの町にシルバーウルフを討伐出来るような実力者はいない。サカラの町の冒険者ギルドの依頼が王都にまで回って来るのにそう時間はかからなかった。
ジークは王都から10日かけてサカラの町まで行きすぐにクラスタの大森林へと入っていった。
ジークからすればシルバーウルフは臆病な魔物だった。
ウルフ系統の魔物はランクに関わらずほぼ全てが力量の差に敏感である。
それが上位になる程彼我の戦力差をはっきりと認識しだす。決して自分達より強い者には手を出さなくなるのだ。避けるように身を隠し、敵が過ぎるのをじっと待つ。
これがただのウルフならまだよかった。奴らは戦力差を考えるといっても大抵が実際に戦って見ての結果による。戦う段階にまで行くのならジークは魔物を取り逃がすことは無い。
けれどシルバーウルフは違う。自分達で勝てる獲物ではないと戦わない。それも複数で固まっているのならわざわざ分散させる程の慎重さも持ち合わせている。
ジークは殺気を消し、森に慣れていないというような動きをして迷い込んだふりをした。
それでもシルバーウルフ達は慎重だった。最初から一人のジークに対して警戒を高めたのか中々襲いかかってこなかった。
一日目。結局シルバーウルフは襲ってこなかった。迷って遭難したと見せかけるため手持ちの食料を少しだけ食べる。
二日目。過剰に警戒を強めないよう出会った魔物を少しだけ余裕を見せて斬った。
そして三日目の昼頃。世界が暗闇に覆われた。
ジークは憎々しげに黒く厚い雲を見た。
魔宵い日。魔物が凶暴になる日。この日が来なかったら、シルバーウルフはまだ数日ジークを遠くから見張っていたかも知れない。ジークも最悪飲まず食わずで衰弱してみせる気でいた。
何にしてもシルバーウルフは攻めて来た。 魔宵い日で昂ぶった気を抑えきれなくて。
ジークは殺気を隠すことなく森を歩いていく。歩いた後にはシルバーウルフがまるで道標のように倒れていた。来た道を忘れない為と、辿れば自分がいるぞという道標。
彼我の戦力差を重視するシルバーウルフだが、条件を満たせば彼等は生を厭わず攻めて来る。
その条件とは仲間が虐殺されることだ。
シルバーウルフは仲間意識がとても強く、複数の仲間がやられると群れ全体で報復に向かう。
相手がどんなに強くても、例え一国だったとしても関係なく襲って来る。
死を覚悟したシルバーウルフは普段よりも手強いのだが、ジークにとっては普段の臆病な方がある意味手強かった。
来てくれるのならあとは殺すだけ。黙々と作業のように斬っていく。恐らく他の群れもいたのだろう――その数は十を超え、二十を超え、三十にまで至ろうとしていた。
眼前に残る最後の一匹から剣を抜く。ジークを見ていた怒りを宿した眼が、虚ろになり地面に倒れる。
周囲の気配を探った後、懐から出した回復薬を飲んで小休止する。少しだけ上がっていた息を整えた後再び気配を探った。
近くに魔物の気配はない。
打ち止めか。そう思ったのか剣を納め、代わりにナイフを手に取る。そして討伐の証になる魔核をその辺に転がっているシルバーウルフの体内から取って行く。
依頼内容は群れ一つ――恐らく十体前後と書かれていた――だった。随分誤差があるが、魔宵い日という異常のせいで依頼主を責めることは出来ないだろう。
依頼内容に沿う数の魔核を回収するとあとの死体は放置する。本来は他の魔物の餌にならないように焼いたりするのだが、ジークに火の魔法を使う程の余力はない。
売れば金になる魔核も、金に困っていないので必要ではないし、わざわざ取り出すのが面倒なのだ。
他人からすればまさに大金が落ちているような道を、やはりジークはそれらを見もせず歩いて行く。
――ォォオオン!
遠吠えが微かにジークの耳に届く。すぐさま足を止め、魔力で聴力を強化し、耳をすます。
「……まだいたか」
三度聞こえた遠吠えで大凡の位置を把握する。
依頼された数は既に達成している。それなのにジークは一瞬たりとも迷う事なく走り出した。
極論を言えば依頼など関係ない。皮、肉、爪、牙、魔核。金にもなるし、装備の素材にもなる。だがそれすら望んでいるわけではない。
答えは全てジークの全身から溢れ出ている。
――殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すッ!
どろどろと蠢く憎悪と殺意を身に纏いジークは走った。
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