7. 愛しの名

泉は、そこまで深くはなかった。

 飛び込んだ、というよりは、浸かりにいった、という方が正しい。

 水が、冷たいなあなんて、ぼんやり思っていたら。

「――リース!」

 バシャバシャと、誰かが水を波立たせて近づいてきた。

 ――?

 あれ、と。ハウルに似たような声がしたなあと、思った直後。

「なに馬鹿なことしてるんだよ!?」

(……え)

 横から、ハウルが泉に飛び込んできて、そのままリースを抱えるようにしながら、陸に上がる。

(……なんで)

 その時の、月を背に見た彼の眼を、リースは忘れることはないだろう。

 そこに宿る感情は、怒り、悲しみ、不安。そして――虚無。

「真冬の夜に水に入るやつがいるか! そんなに馬鹿だったか? 死にたいのか!?」

 彼は、何かを恐れるかのように、震えていた。

「ハウルさん……?」

 そして、強すぎる力で、ぎゅうっとリースを抱きしめる。


「……もう、いやなんだ。大切なひとが、目の前でいなくなるのは」


 その声は、あまりにもか細くて、聞く側まで不安になりそうだった。

 ハウルが今、思い浮かべたのは、たぶんアルテミスの消えた時なのだろう。それしか思いつかない。

 どうにか安心させたくて、リースもぎゅうっと力を込める。

「……ごめん。きみと、アルテミスを、けっきょく比べてる」

「……私も、ごめんなさい。危なっかしくて」

 互いに、自然にでた言葉だった。

 抱きしめる腕を解いて、顔を見合わせて――笑いあった。

「……僕はもう、大切なひとが目の前からいなくなるのは、御免なんだ。それは、アルテミスでもリースでも、同じなんだよ」

「……はい。私も、そのうちにちゃんと、私自身を見てもらえるように、してみせますから」

距離が、前より近く感じるのは、決して気のせいではないと、思えた。

「ねえ、リース」

「はい?」

「ハウル、って、呼んでみて」

 それは、あえてリースが避けていたことだった。

 確か、アルテミスもそう呼んでいた。リースにとっては一番、「比べる」ことに繋がることだ。

今までは、かなり抵抗があった。しかし、なんだか今なら、呼べるような気がした。

「…………ハウ、ル?」

「もう一度」

「……ハウル」

 ふわりと、彼は笑みを――極上の笑みを浮かべた。

「……ああ。いいねやっぱり。きみに、呼びすてされるのって」

 ――ふと、リースは思う。

 リースも本当は、ずっとハウルを呼びすてにしたかったんだなあ、と。



 この数秒後、二人の歯車が、あまりにも残酷に廻ることになると、だれが予想できただろう。

 ――終わりも、始まりもない、そんな輪廻が。

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