決戦! さらば、サイコシルバー<後編>

 かつて、クリスが爆弾騒ぎを起こす際に使わせた、光学迷彩。ハドソン川に潜ったサイコシルバーは、それを使った。

 よく目を凝らせば見破れてしまう、ちゃちな擬態ではあるが、警察ごとき一般人相手には充分だった。

 哀れ、被疑者が水底に沈んでいると思い込んでいる警官隊は、ハドソン川をさらい尽くす勢いだ。

 そんな彼らの側を、不可視になったサイコシルバーは、悠々と駆け抜けた。水をかぶったので、余計に人型の歪みが浮き彫りとなっているのだが、誰一人として気付かない。

 



 市街地の喧騒が、遠く聞こえる。サイコシルバーは、悪しきABLアッシァー・バイオニクス・ラボラトリー本部ビルの前に来た。

 広大な敷地も、遠大な工場も、山のようなビルも、もぬけの殻だった。夜闇の中、点々と光が灯るだけの高層ビルが、そびえていた。

 サイコシルバーは、そのふもとへ近寄る。やはり、人の姿は無い。

 ガラス張りの、開放的な入り口だ。とても、この巨塔を支えているとは思えないほど、華奢なガラス細工に見える。

 では、セキュリティは如何いかほどのものか。

【彼女は、君が正面から挑む分には、自分一人で対処する気だ】

 マナの思考を読んだ相棒が、そう告げた。

 乾愛いぬいまなとして、サイコシルバーと真っ向から勝負する。それは裏を返せば、サイコシルバーが正面対決を拒否し、外壁破壊などの力技に訴えれば直ちに通報すると言う事だ。

 そういう意味では、相手がマナで、まだ良かったとも言える。マナであれば、例え敗北したとしても、それを覆すような卑怯な事はしない。

 ともかく、サイコシルバーも、敵に応じる事にした。ごく普通の来客のように、入り口に立つ。自動ドアは固く閉ざされている。

 施錠は……思いのほか小振りな端末が司っているらしい。

 マナの事だから、一〇年は先を行く精度の網膜センサーや、指紋認証くらいは作っていそうだったが……。

【まあ、警備員を力ずくでセンサーにかけられる危険を予測したのだろう】

 それもそうだ。人間が鍵になるのであれば、これほどやりやすい施錠もない。もっとも、それで警備員に傷でも負わせようものなら、ヒーロー結社に連行されるのだろうが……。

【それくらいやりかねない、と思われているな。君、案外信用されていないね】

「まあ、いいさ」

 サイコシルバーは、改めて、ドアロックの端末を見た。

 古きよき、パスワード式のロックらしい。拍子抜けすら覚えるが、かえって恐ろしい事でもある。だが、何も手掛かりが無い以上、応じるしかない。

 とりあえずサイコシルバーは、右腕から細いケーブルを出した。それを端末に接続。南郷は、この日の為に、サイコシルバーにハッキング機能の実装を行った。まともにパスワードを推理するつもりなど、更々無い。

 サイコシルバーは信号盗聴システムを起動した。パスワードを管理するシステムを検知し、そこから出る微弱な信号をキャッチし、即座に解答を表示してくれる。

 すぐさま、サイコシルバーの視界に、一〇桁もの文字列が表示された。流れる指さばきで、その通りに入力してみる。


 Password:**********

 “Error パスワード不整合”

 “あと九回以内に、正しいパスワードを入力してください”


 そんな文章が、ロック端末のディスプレイに表示された。

「……一〇回もチャンスをくれるのか。太っ腹だ」

 サイコシルバーは、抑揚無く言った。

 確かに、正しいパスワードを入力したはずだが。

【彼女が、リアルタイムで書き換えている】

「やっぱりか」

 サイコシルバーが正答を入力すると同時に、マナが解答を書き換えているようだ。

 言われてみれば、もっともな対応だ。

 マナがパスワードの書き換えを機械に任せていたなら、それごと盗み見れば良かった。だが、最後の入力が人力で行われるのなら、ハッキングの余地がない。

 しかし。サイコシルバーの指は、スーツの機能に任せた、超速タイピングを可能とする。更に、脳波に連動させられるので、サイコシルバー自身が指に意識を巡らせるよりも速くタイピングが出来る。一〇桁程度のパスワードなら、一秒とかからない。

 肉体的にはただの女子高生でしかないマナが、ヒーローに対して先回りしてのけるとは。

【まあ、サイコシルバーのそのタイピング機能も、結局はABL製なわけで】

 つまり。マナは、サイコシルバーが装備している物と同等か、その上を行く脳波タイピング装置を着用しているのだろう。

 それをハッキング……は、恐らく不可能。マナに超速タイピングをさせたいだけなら、ネットワークに繋ぐ必要がない。

 彼女が装備する生体機械類は、スタンドアローンと見て間違いない。

「まずは戦力比を計測する」

 今のパスワード攻防で生じた通信から、サイコシルバーは、自分とマナ、それぞれの反応速度を計測する。

 ヒーロースーツのアシストを受けている、しかし本体スペックとしては凡夫のサイコシルバー。

 一般人ではあるが、世界一のIQを持つマナ。

 二人の、最終的な処理速度は。

「……ほぼ等速だ。今回の数値では、やや、彼女が速い」

 最悪の結論が出た。処理速度が等速、と言えば互角の条件に見える。だが、サイコシルバーは“攻め”で、マナは“守備”である事を忘れてはならない。

 サイコシルバーは、現在のパスワードを解析した上で、それを実際に入力しなければならない。対するマナは、サイコシルバーのアクセスを感知した時点で、別なパスワードを用意し、待ち構えていれば良いのだ。

「実際には、回数をこなせば、彼女の反応力も多少揺らぐだろうけれど」

 窮地のヒーローは、何の慰めにもならない事を言う。

 だが、この入力合戦でサイコシルバーが勝利するには、マナの反応速度の微妙な揺らぎを利用するしかないのは事実だ。

 となれば、

「おのれ、悪のDr.ドクターマナめ。卑怯な手を使う。正義のヒーロー・サイコシルバーが、貴様を許さない」

 恐らく、ビルの要所には漏れなく盗聴器が仕掛けてあるはず。このビルの中であれば、どこからでもマナに声を届ける事が出来るはずだ。

 事実、

《わたし、博士ドクターじゃないよ。博士号持ってないし》

 どこぞのスピーカーから、馬鹿正直な応答があった。

「いいや、悪の組織を、並外れたIQで支える者は、例外なくドクターと呼ばれるべきだ」


 Password:**********

 “Error パスワード不整合”

 “あと八回以内に、正しいパスワードを入力してください”


《なにそれ。横暴》

 どさくさ紛れの入力を、Dr.マナはきっちりブロック。

《ムダだよ。君にわたしは倒せない》

 それは、サイコシルバーに残されたマナへの想いとか、そういう甘っちょろい要因ではない。

 互いのスペックと条件、あらゆるデータを総合して導き出された、冷酷なまでの戦力比。純然たる事実が、マナにそう言わせたのだ。

「Dr.マナめ。何という増上慢か! 貴様をそのように育てた覚えは無い」


 Password:**********

 “Error パスワード不整合”

 “あと七回以内に、正しいパスワードを入力してください”


 Password:**********

 “Error パスワード不整合”

 “あと六回以内に、正しいパスワードを入力してください”


 Password:**********

 “Error パスワード不整合”

 “あと五回以内に、正しいパスワードを入力してください”


《育てられた覚えもありません》

 サイコシルバー、怒涛の三連打を、Dr.マナは無情にもさばき切った。

「くっ、まだだ!」

 マナが書き換えるパスワードは、一見して無秩序だ。だが、間髪入れずに畳みかけてやれば、無作為の入力にも必ず法則性が――、



 Password:**********

 “Error パスワード不整合”

 “あと四回以内に、正しいパスワードを入力してください”


 Password:**********

 “Error パスワード不整合”

 “あと三回以内に、正しいパスワードを入力してください”


 Password:**********

 “Error パスワード不整合”

 “あと二回以内に、正しいパスワードを入力してください”


 前言撤回。法則性など、無かった。

 ヒーローの反射神経に対し、Dr.マナは、その全てを、純然たる無秩序な文字列で対抗しきったのだ。とても人間技とは思えない。

【あっと言う間だったな、一〇回なんて】

 もう後がないと言うのに、呑気な文章を送りつけてくる。

「そろそろ助けてくれ」

 サイコシルバーは、白旗を上げた。猶予はあと二回。

【わかった。俺のメッセージと、サイコシルバーの指を接続させて欲しい】

「君が代わりに打つのか」

 選手交替した所で、何になると言うのか。そう思えど、サイコシルバーは疑うこと無く指示に従った。

 ……、……。

 …………、……。


 サイコシルバーの指が、勝手に動いた。


 Password:**********

 “Error パスワード不整合”

 “あと二回以内に、正しいパスワードを入力してください”


 休むまもなく、サイコシルバーの指が走る。


 Password:**********

“パスワードを認証しました”

Craigクレイグ Allenbyアレンビー様、お通りください”


 ロックが解除され、自動ドアが開いた。

 ちなみにCraig Allenbyとは、サイコシルバーが適当にハッキングした、従業員のアカウントだ。

「……驚いた」

 サイコシルバーが、呆気に取られたように呟いた。いったいどんな魔法を使ったのやら。

 何はともあれ、門前の攻防はサイコシルバーが勝利したのだ。

 ビルに、遠慮無く踏み込む。

《やられた。さすがだね》

 Dr.マナが、素直な賛辞を放送した。

【恐れる事は無いよ。相手は所詮、マナ・イヌイ。いつも通り、二人でからかってやればいい】

「そうだな……!」

 改めて気合いを入れ直し、走り出す。

《今、ふたりして、わたしのウワサしたでしょ》

「さて、どうかな」

 流石に聡いと思った。

《最低。けど、絶対に負けない》

 一〇年早い、と言いたい所だったが、

【センサーが来る避けろ】

「!?」

 無数の赤外線センサー。

 上下左右、斜めに至るまで、あや取りのように交差しながら、サイコシルバーを襲う。

 当たれば、警備会社に通報され、ゲームオーバー。と言った所か。

 サイコシルバー一人分の通れそうな隙間があったので、辛うじて潜り抜けた。

【油断するなまだ来る】

「わかっている」

 今度は形を全く変えて、センサーの網がサイコシルバーを襲う。

 今度も、隙間があった。間一髪、潜り抜ける。

 一度センサーが通過すると、数秒程度のインターバルがあるらしい。この隙に、少しでも距離を稼がねば。

 サイコシルバーは、がむしゃらに走る。

【三波目、抜け道は向かって右】

 文体にいくらか余裕を取り戻した相棒が、抜け穴の位置を教えてくれた。

 その、一瞬速い情報が、サイコシルバーにも余裕を与えた。今度は、楽々と潜り抜けられた。

「さて、上に行きたいけど」

 まず、エレベーターが目に入ったが。

【エレベーターは自殺行為だ。階段を使おう】

【左に避けろ】

 四波目のセンサーもやり過ごし、サイコシルバーはエレベーターから視線を外した。

 言うまでもなく、今のビル内はDr.マナの体内に等しい。エレベーターのような電子的に繋がっている物に飛び込むは、自ら彼女の胃に飛び込むのと同じだ。

【五波目、次は難しいぞ、真ん中だが、一メートル上】

「まるでイルカショーだな!」

 イルカが輪を飛び潜るように、サイコシルバーはこれもかわした。

 着地。

 視線を、非常階段へ。

 後はもう、消化試合だ。

 センサーの綻びをかわし、階段に向けて走るだけ。

「解せないな、Dr.マナよ」

 サイコシルバーが、語りかけた。

「こんな安全地帯など作らず、絶対に避けられない密度のセンサーを放てば、俺を容易に下せるものを」

【正面、下だ。伏せてかわせ】

 サイコシルバーのもっともな問いに、応じたのは、新たなセンサー網。

 やはり、足元の高さに網のほころびがあった。サイコシルバーはこれを、伏せて回避した。

「何故だ。先程のパスワード合戦と言い、非効率的すぎる。

 貴様の能力であれば、絶対に解けない防犯システムで完封する事も可能なはずだ。口惜しい事にな」

 言いながらも、サイコシルバーにはわかっている。

 マナは、彼との正面対決を望んだ。それは、言い方を変えれば、自分が負ける可能性を残したということ。

 かといって、無条件で負けるくらいなら、はじめから黒幕・乾浩司に手を貸してないだろう。

《わたしにも、もうわからない》

 そんな事を言いながら、Dr.マナは、際どい逃げ道を残したセンサー網を走らせる。サイコシルバーは、これも抜ける。

 階段に到達。

《ここも、わたしの負けかな》

 一〇〇階はあろうかという階段を、サイコシルバーは駆け上る。

「わからない? それは妙だ。貴様は、本当はわかっているのではないか。自分が――貴様の父・ミスター乾が間違っていると」

《わたしもお父さんも、正しくはない……とは思う》

 このまま何事も無ければ、黒幕達のいるフロアまですぐだが。

《だから、わからない》

「……」

 サイコシルバーは、淡々と階段を駆け上がる。恐らくは、この階段を上っている間が、自分に許された、最後の対話時間。

《ねえ、愛次くん》

「“どうしました、マナさん”」

《バーモント、楽しかったね》

「“もちろん。マナさんも、それなりに楽しかったのでしょうけど、俺は貴方以上に楽しかったつもりですよ?”」

《うっそー? わたし、ずっと愛次くんに片思いしてたんだよ?

 相手にされてなくてもいいって、そこまで達観してて。そんな相手にお泊り旅行誘われて、ほんとは天にも昇る思いだったんだから。わたしのほうが、愛次くんより楽しんだ度数上ですから》

「“いいえ。俺の方がマナさん以上に楽しんでましたよ”」

《やれやれ。男の子って、どうしてこうも子供っぽいのかな》

「“俺はマナさんの百億万倍楽しんでましたから”」

《はいはい。相対的なアレはこの際どうでもいいとして、お互い楽しめてよかったですね》

「“何か、納得いきませんね。その、勝ちを譲ってあげたと言いたげな論調が”」

《めんどくさ。もうこのネタはいいよ。

 それでね。うちでサンクスギビングした時も楽しかったね。お父さんとお母さんといっしょに、ごはん食べて》

「……」

《去年のクリスマスイブもさ、愛次くんがごちそう作ってくれて、プレゼント交換して、ビリーの打ち立てたアレな伝説の話題で笑い合って……》

「“……、そんな日が、いつまでも続けば良いと思いましたか?”」

 お互い、当たり前のように、クリスマスイブを共にしてきた。となれば、少なくとも嫌いなはずはない。

 けれど。

 相手が自分の事をどう思っているのか、いまいちわからず、フワフワと。そんな、少年少女的な悩みが、どれだけ有難いものなのか。

 南郷は昔から知っていた。

 マナは、今にして悟った。

《わたしたち、お互いを想って行動したはずだよね》

「“そのつもりです”」

《なんでこうなるんだろ》

 マナは、寂しく呟いた。

「“ままならない。本当に、そう思う”」

 そして。

「ついに、最上階に辿り着いたぞ。観念するのだな、Dr.マナ!」

 サイコシルバーは、再び、ヒーローとして、悪の幹部に言い放った。

《やだ。絶対に観念しない。最後の問題、いくよ》

 非常口から中に入る。

 ダンスホールのようにがらんとした空間がある。

 向こうにある分厚いスライドドアの向こうに、乾なりマナなりの部屋があるのだろうか。

 そして。

 寸胴のような、サイコシルバーの腹くらいの背丈の、ロボットらしきものが何十体と設置されている。恐らく顔と思われる位置に、何やらカメラめいたレンズが。

《それらは、わたしが作ったやつ。“なだめるくん”って言うんだけど》

「貴様、こんな物まで設計出来たのか。今まで隠していたとは、卑怯な」

《別に隠してないし。今まで必要に迫られなかったから、作りかたを知らなかっただけだよ。なんか、勉強したら作れた》

 ASIMOアシモが実現したばかりのこのご時世に、さらりと恐ろしい事を言う。

《それで、この“なだめるくん”だけど。わたしやお父さん、この研究所に対して敵意がある人を見抜いて、警備会社に通報してくれるメカです》

「異議あり」

 サイコシルバーが、即時、申し立てた。

《異議を認めます》

「その条件で通報されるのでは、貴様がこのロボットどもを起動した瞬間、俺の負けになる」

《そうだね。君はわたしやお父さん、研究所そのものに敵対して、ここまで来たのだから》

「フェアでは無い。第一、“敵意”などと言うものを、どうやって測定する? また、学校浄化装置か?」

 あの日、乾の散布したナノマシンを吸ってしまったのは、サイコシルバーも同じだ。もしも、先の学校浄化装置と同じ要領で、何らかの生体システムに接続されていたら――、

《安心して。君の人格を、機械でいじろうなんて思ってない。もっと、単純な仕掛けだよ》

 “なだめるくん”の瞳が、照明の白光を虚心に反射している。

《えっとね。人の顔にはパーツがあるでしょ。目とか口とか鼻とか。それらの振動数を検知して、敵意の有無を判定するって理屈なんだけど……わかるかな?

 怒ってるけど我慢してる時とか、よっぽどじゃないと表情には出さないでしょ? けど、人間が表情を隠すのには、限界があるみたい》

 また、付け焼き刃で勉強したような物言いをする。

 だが、かのDr.マナが仕込んだ装置なら、理論的にも精度的にも間違いは無いだろう。何しろ、彼女は嘘が絶望的に下手だ。

 この“なだめるくん”には、敵意測定機能が備わっているのは、間違いない。

《怒った顔の人を“説得”するロボットだから“なだめるくん”。将来、テロリストとか強盗を見分ける装置として、運用予定です》

「だが、俺はヘルメットをかぶっている。それも、ヒーロースーツの。表情など、どうやって検知する」

《残念ですが、“なだめるくん”のセンサーは、厚み三〇ミリの鉄板でも透過します》

 慈悲の欠片もない。

 今まで散々からかわれてきた意趣返しも、それなりにあるのだろうか。

《そしたら、五カウントの後に“なだめるくん”を起動するよ》

「ならば!」

《先に言っておくけど、“なだめるくん”に少し触れただけでも通報されるから。

 それと、一機でも壊れたら、他の“なだめるくん”が、やっぱり通報する》

 手近な“なだめるくん”に拳を振り上げたサイコシルバーに、またも酷薄な現実が言い渡された。

「くっ!」

《これを破れられれば、わたしの負け。いくよ。五、四、三……》

 あと二秒で、サイコシルバーは改心しなければならない。

 マナを負かそうなどと考えず、乾の計画に反発を覚えず、ABLに何ら被害を与える気持ちがない、真っ白な心にならなければ。

 それら全てを倒そうとここまで来た。そんなサイコシルバーが、この窮地を脱するには――、

《ゼロ。“なだめるくん”起動》

 サイコシルバーに考える猶予も与えず。

 マナが、エンターキーを押す音と共に、多数配置された“なだめるくん”の起動音、及び、冷却ファンの回転する音が、次々に鳴り出した。

 寸胴ロボットどもは、皆、一様にサイコシルバーの方を向き、無機質なレンズの瞳を向けてきた。プロジェクタが投影する光のように、サイコシルバーを無遠慮に照らす。これが“敵意測定”というもののようだ。

 だが。

 ……。

 ……。

 ……、…………。

《敵意が検知されない?》

 Dr.マナが、言った。

 マナを倒し、乾から件のシステムを奪い、悪の組織ABLを撃破する! それだけの“敵意”をもってこの場に臨んでいるサイコシルバーを直視した“なだめるくん”は、即座に警報を叫び散らすはずだった。

 なのに、一機として、サイコシルバーを糾弾する様子がない。

 当然、IQ二〇〇超のDr.マナに限って、兵器の設計ミスなどあり得ない。となれば、サイコシルバーが何かをしたに決まっている。

 ……。

 いや、

《違う》

 Dr.マナは、最初に浮かんだ安易な考えをばっさり切り捨てた。

 サイコシルバーはむしろ、何もしていないのだ。

 ……ただ、目の前の光景をあるがままに受け入れる。

 光があり、音が聞こえて、腹の高さほどの物体が多数存在する。自分の思考を、そこまで単純化したのだ。

 “この寸胴じみたロボットたちは、Dr.マナの手先であり、自分を通報する忌まわしき存在である”

 ……と言うような、嫌悪や利害の価値判断さえも、今のサイコシルバーからは消え去っている。

 今、彼の精神は“瞑想”状態にある。主観的思考の一切を放棄する事で、サイコシルバーは、瞬時に無心へと転じたのだ。

 元々の目的が何であろうと、今現在、無我の境地に達した人間を、敵意測定装置が検知する事は出来なかった。

《いっそ、出家して、お坊さんになったらいいのに》

 スイッチを切り替えるように“じょう”の境地に到達したサイコシルバーに対し、Dr.マナは呆れた声で言った。

「――」

 サイコシルバーは“なだめるくん”以上に感情の無い所作で、奥のドアを目指して歩き出す。

《けど、肝心なことを忘れてない?》

 Dr.マナの声と共に、キーボードのタイプ音が放送された。それが何を意味しているのか、瞑想状態のサイコシルバーには、すぐに理解できなかった。

 そして、

 彼の周囲を取り囲む“なだめるくん”が、突如、歩き出した。いずれも、サイコシルバーへ向かって。

《さっき言ったよね? “なだめるくん”に少しでも触れれば、おしまいだって》

「――」

 感情を封殺しているサイコシルバーだが、Dr.マナが発した“言語”の意味は理解している。

《ぼんやり歩いている人を捕捉できる程度のAIは、組んであるよ》

 サイコシルバーめがけて殺到してくる“なだめるくん”は、かなり素早かった。普段のサイコシルバーならいざしらず、心を半ば休止させている状態では、回避行動も単調になってしまう。とても、この数のロボットを回避しきれない。

 かといって、今、瞑想状態を解けば、たちまち“敵意測定”に引っかかり、やはり通報される。

 だが。

【安心して、ぼんやりしているんだ。君には、俺がついている】

 送られてきたインスタントメッセージを、無我の境地にあるサイコシルバーは、論理として理解した。

 瞑想状態は維持したまま、あとは相棒サイドキックに全てを委ねれば良い。

 軽く手を引かれるような感覚。先のパスワード合戦の時、指のコントロール権を相棒に渡したままだった。

 それに導かれ、サイコシルバーは歩く。

 その側を、“なだめるくん”がすれ違う。

 ここには居ない半身に手を引かれるまま、サイコシルバーは、殺到するロボットのことごとくを回避。

 意識すれば、敵意を検知されて、通報される。

 意識しなければ、体当たりを受けて通報される。

 ならば、二人で補い合うまで。

 もとよりサイコシルバーは、二人で一人なのだから。

 サイコシルバーは、右手を引かれるように、千鳥足で進む。

 しかし、縦横無尽に駆け巡る“なだめるくん”のどれも、サイコシルバーにぶつかる事は出来ない。

 そうして。ドアの前に到達。

 その瞬間。

 “なだめるくん”達の体内で回転していた冷却ファンの音が、次々に鎮まっていく。

 そして、全機がぴたりと動きを止めた。

《とうとう、負けちゃった》

 諦めたように、そしてどこか吹っ切れたように、Dr.マナが呟いた。

 それに呼応するかのように、分厚いスライドドアが開いた。サイコシルバーは、淡々と進み出た。

 ドアの先は、何の特徴もない廊下だった。左手に、ドアが三つ。手前二つは、近代的なスライドドア。最奥にあるのは、米杉の無垢材で出来た、艶やかな木製扉。

「いかにもボスが居そうなのは、奥のドアだが」

 瞑想を解き、心を取り戻したサイコシルバーが呟くと、

《奥の部屋はお父さんの執務室。そこは今、誰もいないから、手前の部屋に入って》

 Dr.マナが誘導してきた。サイコシルバーは、素直に手前のスライドドアへ歩み寄った。

【良いのか?】

 どこか念を押すような文章が、視界に浮かんだ。

「今さら、罠も無いだろう」

 ……。

 相棒は、もはや返答しなかった。

 ここもパスワードで施錠されているが、手から伸ばしたケーブルを端末に接続。今度は抵抗もなかった。

 ロックを解除してやると、ドアが開いた。そこは、ただただ真っ白な部屋だった。無数のパーティションと潤沢な機材が、大がかりな開発が行われた名残だ。

「ABL中枢部へようこそ、サイコシルバー」

 乾の、落ち着き払った声。ひときわ高い位置、最も機材が多い場所を背に、父娘は立っていた。

 サイコシルバーは、無言で彼と彼女に歩き寄る。父娘もまた、逃げる素振りは無い。

「つい先程、“理想的な米国”システムは完成したよ」

 組織の黒幕・乾の表情は、日頃のそれとなんら変わりがない。

「腕ずくでも、奪うつもりかな?」

 満を持して手に入れた、新たなる世界秩序。それが危険に晒されていると言うのに、乾は慌てる様子もない。

「……そのつもりだ。それで俺が、ヒーロー結社に処断されたとしても」

「……」

 静かに頷く父の傍ら、マナは唇を引き締めた。

「それは、いや」

 沈んだ声での否定。すねた女児のような、たどたどしい調子の声だった。

「君が犠牲になるくらいなら……これはあげる」

 そうしてマナがデスクから取り上げたのは、大学ノート大の薄型端末。

 かつて、サーシャが与えられた“学校浄化装置”のそれとよく似た、タブレットだ。

「わたしが自分の意思で渡したのなら、ヒーローのルールを破ったことにはならないんでしょ?」

 サイコシルバーは、歩みを止めない。その代わり、

「貴様はそれを、黙認するつもりか」

 黒幕に向かって、問う。

「ここまで突破された以上、どの道、君からシステムを守り切る事は不可能となった。それに、娘がここまで強く望んだ事となれば……私にはもう、口を挟めない」

 出来過ぎている、とは思う。だがサイコシルバーは、それでも、システムを差し出すマナに近づいていく。

「私の目的は、このシステムで全米の人間を統制する事。それにより、娘の盤石な人生を確保する事だった。だが」

 黒幕の口調は、どこまでも平坦だった。

「娘を守る為と言うのなら、必ずしも私がそれを実行する必要はない。

 全米を掌握するのが私であろうが、君であろうが、マナの悪いようにはなるまい?」

「……」

 ついに、マナに手が届く位置に、サイコシルバーは到着した。

「お願い、愛次くん」

 あまりにもあっけなく、禁断のタブレット端末が、マナの手からサイコシルバーの手へと。

 受け取る物を受け取ったサイコシルバーは、何も言わずに踵を返した。

 父娘を振り返ることなく、立ち去って行った。




 それから三〇分余り歩いただろうか。遠くで車の走る音や、何かの機械の駆動音が、かすかに聴こえる。

 静かなものだ。

 夜天を穿つ、ABLの摩天楼も、一目で全容が見て取れるほどに離れた。

 サイコシルバーは、立ち止まった。

 この三〇分で、考えと決心は固まった。後は、実行するだけだ。

 ワンタッチで可能な、全米管理統制を。

 マナから渡された端末に、今一度視線を落とす。

 シンプルなインターフェース。

 真っ白な背景に、薄灰色のボタンが一つ。


      [システム実行]


 あまりに質素なデザインのアイコンだ。手抜きも良いところである。

 これを押せば、もう、


【どうにもならないんだな、これが】


 不意に。

 サイコシルバーの視界に、相棒からのインスタントメッセージが浮かんだ。

「何?」

 何の脈絡もない文章に対し、理解が追い付かず。サイコシルバーは、そう返すしかない。

【悪いけどそれは、全米を統治するシステムなんかじゃない】

「待て、何を言っている?」

【深読みするなよ。言葉通りの事さ】

「……」

【その装置を起動した所で、君の望み通りにはならない】

「まさか、彼女に偽物をつかまされたとでも?」

【半分正解、半分はずれ】

 無慈悲な文字列が、サイコシルバーの視界を走る。

【けど、あの二人が、システムを手放したのもまた事実なんだ】

 サイコシルバーの背筋に、氷水のような、言いようのない怖気が走った。

「何だ、その喋りは。おかしい。君は、何を――」

【君が手渡されたその端末。それは、起爆装置だ】

「何? 起爆――」

【そう、起爆装置。爆弾の。ABLビルに仕掛けられた爆弾に点火するための装置だ】

「……!?」

 この時。

 サイコシルバーは、ようやく悟った。

 二人で一人だったはずの、唯一無二の半身。

 お互い、生まれ持った才の為に、隠し事一つできなかったはずの、そんな存在が――今、自分の知らない事を知っていて、そして。

【その装置を起動すれば、君は、悪しき黒幕と、腹心のDr.マナと、組織のビルを誅殺出来る】

「馬鹿な、俺はそんな事をするつもりはないッ!」

 半身が、恐らく自分を裏切った。そのあり得ない事態に対する狂乱を吐き散らし、サイコシルバーは端末を投げようとして、

【忘れたかい? 君の指だけが、俺の支配下にある事を】

 投げ捨てる事叶わず。

 相棒に委ねていた指が、何のためらいも無く、端末をタッチした。

「や、やめろぉおオぉおォおォォおぉ!?」


 ――。

 轟音。

 ABLビルの中腹で、白い煙が放射した。

 そして。

 ダルマ落としのように、垂直に崩れていくビル。

 天をも貫く、悪の拠点が、瞬く間に崩れ落ちて。

 超高層ビルという圧倒的な質量が、遥か遠くの地面を乱打する。

 その振動は、ここに居るサイコシルバーの足裏にまで伝わってきた。

 大気の軋みが、ここまで伝わってきた。

 そして、ビルは瓦礫の山に成り下がった。

 一瞬の事だった。

「ぁ……ぁ……あ……?」

【悪の組織の基地は、最後に爆発するものだろう?】

 あの中には。

 あの中には、マナが……。

 サイコシルバーが放心を垂れ流す傍ら。

 膨大な粉塵を舞い上げた瓦礫の真上で、流れ星が躍ったように見えた。

 いや、それよりも。

【君は、これを“起爆装置”だと知った上で、作動した。ヒーローの姿で、あのビルを破壊したんだ。……だから】

「サイコシルバー。君を、ヒーロー活動法違反で、連行する」

 呆然と立ち尽くすサイコシルバーのもとへ、禍々しい黒のオペコットスーツを纏った不審者が三人。

 いつから、そこに?

 今更、なぜ?

 サイコシルバーは、そう問いたくて仕方がなかったが、

 執行人のヒーローどもは、そんな事を微塵も斟酌しんしゃくする気は無いようだ。

 ただ、正義の使命を果たすために。

「さあ、来てもらおうか。サイコシルバー」

 サイコシルバーを、凝った夜闇の中へと引きずり込んでゆく。




 こうして、サイコシルバーは、終わった。

 さらば、サイコシルバー。

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