第8話 決戦! さらば、サイコシルバー<前編>
二〇〇三年一二月二四日・クリスマスイブ。
夕日が、地に没する寸前、最期の命を尽くすかのように燃えていた。
時は来た。南郷とビリーは、同時に、同じ言葉を考えた。
アインソフ・スクールは、一時閉鎖に追い込まれていた。
爆弾騒ぎに続き、前代未聞の洗脳騒ぎである。(洗脳と言うには語弊があるが)
警察と一部の職員のみが出入りし、生徒の姿は一人として無い。それでなくとも、このスクールの関係者は、まともに動ける状態ではない。
学校浄化装置の支配から急に脱せられた人々は、支配中に与えられた感情と、現在の感情とのギャップで悶え苦しむ事となったからだ。
特に、サーシャによる
とても、学校として通常運行の出来る状態ではない。
クリスとサイコクロース(相変わらず茶色・黒色のカラーリング)は、肩を並べて組織のボスに謁見していた。
「学校浄化装置の隠滅は、問題無く行われる見通しだ。これにより、現在、少年裁判所の管轄下にあるサーシャ・アベリナの身柄も、将来的には保釈されよう。
彼女の振るった凶器が、存在しなかった事になるのだから」
サイコクロースは、何も悪気が無いようで、淡々と述べる。
「だが、“かの計画”発動までにサーシャ・アベリナが復帰する事は不可能となった。彼女は最早、戦力としてロストした物として扱うべきだ」
ボスの面差しは、宵闇のヴェールに覆われ、曖昧だ。
「……他人事のような口振りだが、今回の独断専行に関する釈明は?」
ボスの詰問に、サイコクロースはしばし口を閉ざした。それは粛清を恐れて……の事ではないだろう。
サーシャ・アベリナは――、
いや、彼女のみならず、
マリー・シーグローヴも、
バスケ部コーチのコンラッド・サムソンも、
今、ここに居るクリストファー・ヘイルも、
全て、この組織に狂的な素質を見いだされ、非合法活動の駒として育て上げられた人員だったのだ。
オイゲン・ブロスフェルト教諭がパイプとなり、彼ら彼女らの入学が支援されてきた。
アインソフ・スクールを、組織の実験場とするために。
言わば、サーシャ達は、組織が送り込んだ“怪人”と言う事だ。
その怪人を独断で使い捨て、あまつさえ、計画の核となるデータを危機に晒した。サイコクロースが釈明を求められるのは、必然だった。
「これ
学校浄化装置によるサーシャの環境構築支配。彼は、これにどう対応したか?」
教諭の声で放たれた問いに、応えたのはクリス。
「脳を支配された未来の自分が、マナさんと言うスクール外の協力者に頼る事を見越して行動した。わざと罠にかかる事で」
サイコクロースは、頷きもしないが、
「南郷愛次は、自らの情動すらも計算に入れ、サーシャ・アベリナを確実に葬ったのだ。
彼女の政権は、元より致命的な構造的欠陥を抱えて居た。それだけでは、南郷愛次を真に追い込む事は出来なかった」
クリスは、表情を変えないまま、ただ押し黙った。
確かに、今回入力した南郷の行動データにより、今開発中のシステムから脆弱性が完全に消えた。データ収集を直に任されていたクリスが、一番良く知っている。
「私の行動により、必要不可欠なデータが手に入った」
サイコクロースの言い分には、全く嘘がない。真実、彼は、組織の計画を完成させるために、組織の意向を無視してでも行動したのだ。
だが。
「先生は、かなりアイジ君を買ってるようですね?」
クリスが、含みを持たせて言う。
確かにサイコクロースの行動は、計画を最良な状態にした。だが、南郷がサイコクロースの読み通りに動かなければ、どうするつもりだったのか。
確かに南郷は、自分の心さえも駒に出来る。感情とロジックを完全に分離可能な、異常者だ。そんな異常者を理解し、計画に織り込んで見せたこの社会教師は、何者なのか。
「先生。あなたは確かに最後のピースをはめたかもしれない。けれど、今はまだ他のピースがはまっていない状態だった。
いえ、サーシャがリタイアした以上、他のピースを得る手立てが失われてしまった。パズルは、永遠に未完成のままだ。これでは、本末転倒ではありませんか?」
年の功では圧倒的に劣るクリスではあるが、ここで言いくるめられるほど、愚かでも軟弱でも無かった。
これに答えられなければ、サイコクロースは、裏切り者の
だが、
「確かに、本計画に
彼はあっさり、罪を認め。
「しかしながら、他の方法でデータが得られれば良いだけの事」
堂々と、黒幕を今一度、見据えた。
「ボス。貴様の“子女”が、それを補うだけのデータを既に得ている筈だ。
サーシャ・アベリナの一件は、飽くまで保険。だからこそ、私の独走を看過したのだろう?」
泳がされていた事は、承知の上。
欺いていたのは、お互い様。
黒幕と、アンチヒーロー。
共にヒーローと対立する者ながら、絶対に相容れない同士であるがゆえに。
黒幕が静かに席を立った。
「皮肉な事だ。お互い、化かし合いながらも、その実、同じ目標に向かって手を取り合っていたと言う事か」
そして、背後の窓に歩き寄った。
宵闇に閉ざされ、色が曖昧になった工業地帯を、見下ろす。巨大な河の向こうには、ニューヨークの街並みが輝いている。多くのビルには照明が灯り始め、鈍い輝きで、空を満たしている。
都市の光に照らされた窓。黒幕の顔が、映り込んだ。
アッシァー・バイオニクス・ラボラトリー研究部長、
「そうだ。私の娘は、長らくサイコシルバーと共にあった。本計画のシステム開発を担う彼女が、彼らの近くにいたのは、結果として良い事だった」
サンクスギビングの前日、乾は、自分の娘に命じた。バーモントから帰り次第、スクールを休学し、今年中に“組織の計画”を完成させろと。
高いIQを持つ研究者・技術者の存在は、悪の組織には欠かせないものだ。
組織の黒幕・乾浩司は、ゆるりとサイコクロースに向き直る。
「しかし、サーシャ・アベリナが保険、と言うのは少々間違いだ。私は、娘に少しでも楽をして欲しかっただけ。
“あのシステム”を開発する以外の労力を、彼女に負担させたくなかった」
何故なら、
「我が子が一番大切なのは、人の親にとっては当然の事だからね」
無数の蛍光灯に染められ、白々としたオフィス。パーテーションで区切られたプログラマー達が、せわしなくタイピングをしている。
そんな中、一段高い位置に、彼女は居た。周囲の、海千山千と言った熟練技術者達に比べれば、あまりに若すぎる少女が。
だが、誰よりも多くの機材を身辺に
マナは、一心にキーボードを叩いていた。それが、近しい人をいつか救うと信じて。
一週間以上、そうし続けたせいで、肩凝りがしてきた。
しかし、止まるわけにはいかない。このシステムが完成すれば、南郷もビリーも、もう苦しまずに済む。
それは、父に言われたからと言う無責任な理由からではない。彼女自身が、熟慮を重ねて、正しいと導き出した決断だ。
だから、周囲の数人に幸があらんとして、彼女はそのシステムを組み上げる。
全米の――全世界の――人類史の摂理をも転覆しかねない、危険極まりないシステムを。
道徳的観点から言えば。自分が今まさに生み出そうとしているシステムが、賛否の分かれる代物である事は、理解している。むしろ、“否”の方が多いであろう事も、理解している。
しかし、これは“義務”なのだ。放り出す権利は、自分にはない。
マナは、何の疑いもなくそう思っている。
義務だけではない。
彼女は、世界の賛同よりも、
今日まで育ててくれた優しい父と、かけがえの無い友と、
……愛する男の前途を選び取ってしまった。
このシステムの完成は、南郷愛次を、これまでの業苦から救ってくれる。それは、間違いない。
全米を震撼させる、とは手垢のついた文句だが……それを本当に可能とする行為の重みを実感するには、彼女はあまりに若すぎた。
経験値が、足りなさ過ぎた。
世界一のIQと、屈指の技術力を持つ少女は、結局のところ、その行動原理から言えば凡人でしかなかったのだ。
「そっか、今日クリスマスイブなんだ」
ふと、彼女は気づいた。
イブを例年通りに過ごせず、残念に思う。
「雪、ふってるかな」
窓一つ無く、外界から隔絶されたこの部屋からは、知る由も無かった。
乾浩司は、どこにでも居る普通の父親だ。
ただ、彼は人よりも余計に物事を知っていた。そして、娘は、人よりも余計に資質を持って生まれてきた。
この父子は、人よりも出来る事が多かったのだ。
だから父は、娘が最大限幸せな人生を送れるように願った。出来る事を、最大限しようと思った。娘が確実に幸せになれる世界を作る為に、娘自身をも利用した。
何もおかしい事だとは思っていない。
理想的な米国計画。
父が、娘を最大限幸せにするべく、発動した計画の名だ。
娘の手にかかれば、人のあらゆる脳活動を、デジタルデータに書き起こす事が可能。人の思考を精密に分析可能なサイコシルバーの才覚さえも、例外ではない。
これをソースとして、人間の思考を精密に検知し、正しい方向に修正させるプログラムが実現したのだ。
例えば、窃盗を目論む人間が、一人居たとする。
言うまでも無く、盗みは悪である。
被害者はもとより、不幸になる。社会も不幸になる。長い目で見て、窃盗犯自身やその家族さえも不幸になる。
ならば、彼が“盗もう”と思い立った瞬間を押さえる事が出来れば。その瞬間に、彼の思考が“盗もう”から“真面目に働こう”あるいは“俗欲を捨てて出家しよう”あるいは“自殺しよう”と言う物に書き換えられたとするなら。
彼が窃盗を実行に移す事は、絶対に無くなる。窃盗へと向かう意思が、全くの別物に書き換えられるのだから。
そして彼自身は、自分が納得した上で、盗み以外の選択をしたのだと感じる。
勿論、盗みだけではない。
殺人も、汚職も、喧嘩やいじめ、ほんの小さな諍いさえも、“意思そのものを強制的に書き換える”事で、予防可能となるのだ。
これを世界規模で普及させれば……真の平和が実現する。
お互いがお互いの“不快”・“苦痛”を与えないよう、システムが統治する事で、人類は新たな営みを得る事が出来る。
そうすれば、娘が万に一つも不幸になる事は無い。
事実、あの学校の連中は、無責任な流言を根拠に、娘を嬉々として傷つけたではないか。
また今後、気の狂った者が、拳銃で娘の頭を撃ち抜かないとも限らない。
照準が娘の方を向いて居なくても、流れ弾という可能性は否定しきれない。
偶然、娘と肩をぶつけてしまった通行人が、逆上して、彼女を刺し殺さないとも限らない。
男を横取りされたと勘違いした女が、娘を刺し殺さない保証はどこにある?
男女関係は、特に危険がいっぱいだ。
今のまま、南郷と言う人畜無害な好青年に惚れている分には良い。
だが。
その後、娘の中で心変りが無いとも言えない。仮に南郷と決別したとして、その次はどこの馬の骨ともわからない男に入れ込むかもしれない。
その結果、殺されてハドソン川に浮かべられる結末が、〇・〇〇〇〇〇一パーセントの確率でも、無いとは言い切れないだろう。
娘に振られた男がストーカー化し、思い余って、車で轢き殺す危険も否定しきれない。
もはや、これらの心配から逃れるには、彼女を束縛するしかない。だが、そんな事をすれば、彼女は不幸でしかない。
娘を愛する、平凡な父親として、どうしてそんな惨い事が出来ようか。
娘には、人として当たり前の幸せを得て欲しいと、乾は思う。だから、南郷と共にバーモントで一夜を明かす事にも、何ら反発は覚えなかった。娘には、自分の人生を好きなように選び取る権利があるから。
だが、その結果、娘の死や破滅に繋がる事が、欠片でも起きてはならない。
その可能性を全くのゼロとするならば、危険の源流を押さえる以外に手は無い。
この世の人間全てから、あらゆる犯罪的思考を奪い去る事で。
せっかく、娘には、それを実現可能な能力が備わっているのだから、利用しない手は無い。
また、彼女自身の手でこの国の新たな秩序を築き上げる事により。娘は、空前絶後の偉業を成し遂げた人物として、評価されるはずだ。そうすれば、彼女が食うに困る事は、万に一つも無くなる。
だから乾は、娘が物心つく前から、言い続けてきた。
お前はお前の好きな人生を、自分で選びとりなさい。
自分が良いと思った友達を作り、自分が良いと思った人と結婚し。
ただひとつ、将来の仕事だけは、お父さんの言うことを絶対に守る事。
これは、人としての義務なのだよ。
納税の義務。遵法の義務。
仕事は父の言いつけを守る義務。
娘がよその子達と違う点は、ただ一つだけだった。
全ては、
この際、黒幕が何を企んでいるのか。何のためにそうするのか。サイコシルバーにとって、そんな事はもう、どうでもよかった。
ただ、
「
南郷は、微塵の迷いも見せず、宣言した。
「俺が言いたい事を、言ってくれた」
ビリーもまた、少しの遅滞なく、南郷の言葉を肯定してのけた。
この世で唯一の半身同士。それでなくとも、今更確認し合うまでも無い。
「だが、マナを敵に回すことになるぞ。今回の件に関しては、アイジ。君が相手でも、彼女は容赦しない。
いや――」「俺が相手だからこそ、彼女は乾さんの計画に乗った」
ビリーが言いかけた事を、南郷が食い気味に代弁した。
何も、ビリーに言わせる事は無い。今回の事に関して、南郷は、一人で全てを背負う覚悟だった。
オイゲン・ブロスフェルトにとって、教師は天職だった。
教師が最も合っている……と言う前向きな理由ではない。
彼が、何かを生み出せる、恐らく唯一の生業が、教職しか見つからなかったのだ。
何故なら。
彼には“己の成功を極度に恐れる”悪癖があったからだ。
美しいトランプタワーを作れるほどの器用さがありながら。完成間近になると、それをぶち壊しにせずにはいられないように。
一体、いつからそうなったのかはわからない。両親共に、狂的なまでに厳格だったのが原因か。それは定かではない。
勉学にせよ、競技にせよ、創作にせよ。一番になれるだけの天賦があるのに、それを成し遂げる寸前、強烈な拒否反応を起こす。
そして、自分が築いた成果を、自らの手で破壊せずにはいられなくなる。
理想的な人間関係も、いくつか築き上げた事はある。良き女性と将来を誓い合った事も、一度ではない。
だが、その全てが完全に成就するより先に、ブロスフェルトは逃げたのだ。自分の手で、慕った人々を破壊してしまう前に。
祖国ドイツを捨てたのは、二十歳の時だった。その頃には既に、ヒーローとしての素質を認められ、サイコクロースの顔を持ち併せていた。
アメリカに渡ると、ヒーローとして世直しをする傍ら、教職を目指した。
だが、ここでも悪い癖が彼を苦しめた。
まず、教育学部に入学する事が至難を極めた。
能力不足では、断じてない。むしろ、まっとうにやっていれば首席は間違いない実力を持っていた。
ただ。
そつなく試験をこなした挙げ句、突然無言で会場を去り、失格となる事が三回あったのだ。
最終的には、ヒーロー結社の手を借りて、偽りの教職を得るに至った。
そして、彼は、星の数ほどの生徒を指導した。
ブロスフェルト教諭は、生徒と必要以上に関わらない。
彼とて人の子だ。
出来の悪い生徒。
教えた事をよく吸収してくれる生徒。
どちらも、愛おしい。
だが、彼らの未来をその手でぶち壊しにしてしまわないよう、コミュニケーションを取ってはならなかった。
ブロスフェルト教諭に師事した生徒が、その後、どうなったか。 そのほとんどを、彼は知らない。
一人だけ、社会学のフランクフルト学派における論文で世界的な評価を受けたOBは居た。
そのOBにとって、ブロスフェルトの教えが役に立ったのかどうかはわからないし、それ以上考える気もなかった。
それで良いのだ、と教諭は悟っている。
生徒からマシーン呼ばわりされるような、機械的な授業をする。それで少しでも生徒達が影響を受け、将来の糧としてくれるなら。
自分が決して成功できない
完成や成功から逃避し続け、何もかもを破壊してきた、そんな人生にも、いくらかの価値はあったのだろう。
そう、思う事が出来た。
中年も終わりを迎える程度には、長い時を生きた。このまま、教師として生きる事に満足していれば、何も問題はないだろう。
それでも、こうして余計な行動をしてしまうのは、どうしてなのだろうか。
昨日――二三日の事だ。
サイコクロースは、南郷の前に忽然と現れた。赤と白の、皆がよく知るカラーリングの姿で。
南郷は、今さら、これと言ったリアクションを見せない。
「南郷愛次。君は、お祈りが出来るかね?」
南郷は、穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
何と清らかな微笑だろう。
彼の方が、よほどサンタクロースに相応しいのでは無いかと、役体の無い事を考えながらも、
「イブには早いが、君にプレゼントが有る」
「ありがとうございます」
とても素直な子だ。
アメリカに移住してから、いつぶりの事だろう。サイコクロースは、メットから露出した口許に、淡い笑みを浮かべた。
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