ディストピア<後編>
一昨日マナに電話したら元気を取り戻したので、南郷は外に出た。薄い水色の寒空に、ガラス片のような日射しが心地よい。
深呼吸をひとつ。
長い引きこもり生活で、肺の中が埃まみれになったような錯覚を覚えた。外の冷たい空気によって、それが綺麗に浄化された気がした。
正気に戻って辺りを見回すと、今の惨状が改めて理解できた。
「今日の論題は、我々五人で、サーシャさんを三〇〇〇点分、幸せにする方法だ」
「確かに、新たな方法を究明する必要はありますね」
「ああ。従来の“献身パターン”では、彼女の満足度が減ってきている」
「前に、これを“抗体現象”と定義したよね。
何かをしてもらった時の喜びに、少しずつ慣れていくのは、当然だしね」
「何かしらアプローチを変えないと、彼女から支払われる報酬も減ってしまう」
「サーシャさんは優しいから、それで罰を下しまではしないだろうけど」
「いや、我々が力を合わせて、サーシャさんを幸福にしないと」
「彼女が幸せで、皆が幸せ。当然の義務だな」
有識者達の話を聞き流しながら、南郷は歩く。彼らはとても、ウキウキしていると思った。
一方で、地べたに座りながら、空を眺めて動かない生徒がいた。
非常に恵まれた体つきだ。本来は運動部だったのだろう。一応、外に出たはいいが、あそこで力尽きたのだろう。
何をやらかしたら、あそこまで身分が落ちるのだろうか。南郷は不思議でならなかった。だが今は、何もしてやれそうにない。
南郷は歩く。
「優勝! 優勝! 絶対優勝!」
朝練で走るアメフト部の一団が見えた。彼らだけは、良くも悪くもいつも通り――、
「優勝! 優勝! サーシャに勝利を捧げよう!」
「サーシャ・アベリナ万々歳!」
……南郷は、内心で前言を撤回した。
よくよく見れば、いつも先陣を切って駆けていたアダム王が居ないのだ。なのに彼らは、王が居た事など忘れたように、はつらつと走っている。
またも、薄ら寒さを覚えながら、南郷は歩く。
南郷は歩く。
南郷は歩く。
南郷は、まっすぐ歩く。
デジタル化された幸福論をもてはやす生徒達を横目で見ながら。
ポイントをうまく稼げず、無気力にうずくまる生徒達を横目で見ながら。
南郷は、歩く。
淡々と。
そして、サーシャの居る部屋へ、当たり前のように踏み込んだ。
「……!?」
タイラーを筆頭としたボディガード達が、素早く身構えた。
サーシャ本人は、身動きこそしなかったが、意外そうに目を見開いた。
「久しぶりですね、アイジさん」
「どうも」
「何か、ずいぶん元気そうで」
脳を直接操作し、無気力に追いやったはず。その相手が、元通りの振る舞いで、自分の眼前に現れた。
あり得ない事だ。さすがにサーシャも、いくらかの焦りは見せる。
「俺はこれで普通ですよ」
サーシャは、膝上に置いた浄化装置の端末をタッチ。
それを護るべく、タイラー隊が彼女の身辺を固めた。
南郷は、別段、なにもしない。
サーシャは南郷愛次の管理画面を呼び出して、唇を結んだ。彼の気力を示すグラフが、七割を超えている。常に空っぽになるよう、処置したはずなのに。
だが、
これで快楽は蒸発し、ストレスで南郷の脳が満たされるはずだ。
これだけ急激に脳を操作すれば、南郷に後遺症が残る可能性もあったが……今は、目に見えた変化が欲しいという判断だった。
それに。サーシャの予感が正しければ、
「無駄ですよ。もう俺に、その装置は効かない」
南郷を壊してしまう心配は無かった。
「何をしたんですか」
サーシャの声に、抑揚が消えた。
不正を検知したコンピュータのように、冷静にダメージを観測した声だ。
「“俺は”何もしてませんよ。ただ、気持ちがどん底まで落ち込んだから、ある人に電話しただけです。
極限まで落ち込んだ時、自分がその人に縋りつくであろう事を、俺は知っていた」
南郷は、携帯電話を取り出した。そうして、流れるような親指さばきで番号を入力。
発信。
「もしもし。ご苦労様です。ええ、今です。やってしまって下さい」
南郷は、ちょっとした用事を頼むように、電話の相手に言った。
サーシャ達は、背筋を強張らせて、南郷の様子をみつめる。
……。
……。
……、……。
何も、起こらない――、
いや。
「ぁ、ぁ……?」
最初に顔色を変えたのは、タイラーだった。生気に満ち満ちた面差しから一変、口をOの字にして、目を泳がせ始めた。
「どうしたの、タイラーくん」
サーシャがタイラーの肩を掴むそばから、
「ぅ……ぁ、あ?」
別の生徒がうずくまり出した。それに触発されたかのように、ボディガード達が次々に崩れ落ちてゆく。
「え? みんな、何?」
サーシャは、改めて南郷を見た。
「何をしたんですか」
「ハッキングですよ。その装置への。
俺には、優秀な助手が居た」
「ハッキング? 外部から、装置を勝手に操作したって事?」
「ご名答。スクール外に居る助手が、装置にアクセスして、まずは俺を元に戻してくれました。それでも、気力が戻り切るのに二日はかかりましたがね。
それで今、彼らの持ちポイントと報酬をゼロにした上で、システムから完全にシャットアウトしてもらいました。
タイラーさん達のように、報酬をたくさんもらっていた人ほど、ひどい虚脱感を感じているはずです。ハイな状態から、一瞬で現実に戻されるわけですから」
「あり得ない。この装置は、ローカルなネットワークで動いていた」
いくら能力の高いハッカーであっても、スクール内で完結しているネットワークに入り込むことなど出来ない。
「そう。だから裏を返せば、その装置はスクール関係者しか支配できなかった。出入りの業者にまで、あの“予防注射”を打つわけにはいきませんしね」
カフェテリアの食材を搬入する業者。
保健室の医療品を売りに来る営業マン。
ネットワーク構築の、工事業者。
「スクール外への“道”を作る事は可能だったわけです。“息のかかった他人”を送りこめたならね」
「それでも、あり得ない。例え侵入されたとしても、システム中枢のセキュリティは、ハッカーなんかに破れるものでは無かったです」
何せ、ヒーロー結社を介した技術なのだ。“非常に腕が立つ程度”のハッカーに、突破できる代物ではない。
「その口ぶりだと、わざわざ試したみたいですね。ハッキングなり、クラッキングなりが可能かどうか」
「もちろん」
最初はベンに試してもらった。ベンには不可能だとわかったので、インターネットを介して、何百と言う凄腕ハッカー達に挑戦してもらった。
結果。ネット上のアングラ界隈に“不可侵の用途不明システム”という、微妙な伝説を残しただけだった。
世界中の誰一人として、学校浄化装置に侵入できた者は居なかった。
「ですが、俺の助手は、稀代の天才なんですよ。
何せ、一〇歳の時にスタンフォードビネー知能検査でIQ二三〇を叩き出し、メガテストでは四八問のうち四七問正解で、IQ一八〇だか……もしかしたら、こっちも二〇〇越えてたかも?
特に、こういうIT関係の分野には非常に強い人でしてね。しょぼい校内
まるで詐欺師の口上だが、事実だから仕方がない。
「おっと。今のはやっぱり、忘れてください」
ギネスブックを紐解かれたら、南郷の言う“助手”の正体が、サーシャに露見してしまう。もっとも、知られた所でもうどうにもならないが。
「大体わかりました。
あの子、友達になれれば頼れるかなって思ってましたけど……そこまでモンスターだったなんて、予想外でした」
もうこれ以上、サーシャに抗弁の意思は残っていなかった。今、目の前でタイラー達のうずくまる姿が、何よりの証拠だ。
そして。
「サーシャ。日本の歴史には、三日天下と言う言葉がある。お前はさしずめ、ミツヒデ・アケチだな」
規則正しい足並みの配下を引き連れ、アダム王が入ってきた。
「どうだ? 俺とマリーの築き上げた王国は、お前には重すぎたろう」
「アダムさん」
「痛い目を見て、自分の身の丈を知るのもいい勉強だ。まあ、今回は俺にも言えた事だったが」
サーシャは、アダムの言葉を半ば聞き流し、
「まさか、あなたまで」
「そう。アダムなんかに一杯食わされたよ」
応じたのはアダム本人ではなく、その背後から進み出てきたクリスだった。
「アダムと共同で統治していれば、君にもチャンスはあった。そんな装置を使わなくても、より完璧にスクールを支配できた。
サイコシルバーが、その状況下であがいてくれれば、私は最良のデータが得られた。
けど、アダムは自分から王座を捨てた」
他人を支配するだけしておいて、リーダーとしての責任は果たさない。そんな暴君に成り下がって見せる事で、アダムはわざと支持率を落としたのだ。
「結果、アダムに頼っていた大勢の生徒が、君の下に流れ込んだ。
マリーを
そう。
だからだ。
サーシャが、この装置を使わざるを得なくなった、そもそもの理由は。
「アダムが、KINGを捨てるなんて、私には想像できなかった」
「結果、あんたは俺に負けた。井の中の蛙と、そんな風に侮っていた俺にな。
大局を見れば、KINGの地位なんぞよりも大切な事は、山とある。スクール外のあんたを負かすなら、俺の視野も外の世界に向けないとな」
アダムは、ようやく討ち取った仇敵を見据えて、宣告した。
「兄貴分としては、君の成長は喜ばしいのだが。
私の集めたデータはこんな風に扱われ、しかもあっさり破られた。しかも、本来の目的に使うには、まだデータが足りていなかった」
クリスの面差しもまた、焦りや悔やみといった色はなかった。
いつも通り、余裕然とした口振りで、しかし敗北は認めた。
サーシャもまた、肩をすくめた。
「結局、あたしが秘密兵器をもらって舞い上がってた時には、あなたたちの兄弟ゲンカのネタにされてたわけですね」
「兄弟などと言うのはやめてもらおう」
「まあ、アダムのような凡俗が、浄化装置のような技術を認知していたのはあり得ない。
アイジ君の入れ知恵だろうね。君達は、ホームカミング以降からグルだったわけだ」
南郷は、クリスに対して曖昧に微笑んだ。
「彼には、サイコシルバーの性能を、身をもって体感してもらいましたから。
あんな常識外れなパワードスーツが存在するなら、ディストピア製造機があってもおかしくはない。
自分で見たものをすんなり信じてくれるところは、彼の意外な美徳でしたよ」
クリスは、歩き疲れたかのように、手近な椅子に座った。
「負けたよ」
「あたしも」
サーシャも、クリスに倣う。
そして。
「ではサーシャさん。ちょっと、一緒に来てください」
タロットカードにおいて、一一番めのアルカナ――“正義”、あるいは“裁判の女神”。右手に剣を、左手に天秤を持つ、女裁判官が描かれたカードだ。
正位置において、公正・均衡・両立を意味し、
逆位置において、不公平・一方通行・被告人という意味を持つ。
これほどまでに、サーシャ・アベリナの末路にふさわしいモチーフも無いだろう。むしろ、ベタ過ぎないかと不安さえ覚える南郷であった。
「……」
その装置を見上げたサーシャは、リアクションに困った。どこから言及すれば良いのか、見当が付かない。
改装中の礼拝堂をバックに、二人の人間が、ワイヤーロープで吊るされていた。
左に吊られている男子生徒は、ベン。
右に吊られているゴス姿の女子生徒は、ケイトという友人だ。
当然だが、二人とも、恐怖で凍り付いている。下手に動けば殺されるという強迫観念から、彫像のようにじっとしている。
「二人とも、朝から見ないと思ったら」
サイコシルバーに拉致され、宙づりにされていたと言う事だ。彼と彼女の頭上をみやれば、ワイヤーロープは滑車のようなもので巻き上げられているらしい。
そして。サーシャを最も唖然とさせたものの正体は、ベンとケイト、それぞれの真下にあった。
人が入れるほどに大きい、ガラス張りのケースがある。透明なはずのそれを真っ黒に染めているのは、無数に閉じ込められたゴキブリの群れだった。自分達が閉じ込められているとも知らないゴキブリたちは、箱の壁面を滑るように駆けまわったり、硬質な羽を羽ばたかせて飛び交ったりしている。
この状況の元凶――銀色のヒーロースーツを着た加害者は、己の設計した装置を満足気に見上げている。フルフェイスのメットで顔が隠れているので、実際に満足気かどうかはわからないが……少なくともサーシャにはそう見えた。
「では、そろそろ」
サイコシルバーが、サーシャに、剣の形をしたおもちゃを手渡した。
「……」
手短に、装置の説明がされた。
装置が起動すると、ワイヤーで吊られたベンとケイトが、少しずつ下へ降下していく。
そのまま放置しておけば、二人とも、ゴキブリ満載のガラスケースに足をつける事となる。そうなるとケースの上蓋が開いて、サーシャの大切な友人たちはゴキブリ地獄に突っ込み、閉じ込められる事となる。
救う方法は、ある。
今しがた、サーシャが手渡された剣のおもちゃだ。これは、ベンとケイトを吊るワイヤーの昇降リモコンになっている。彼と彼女をゴキブリケースに落としたくなければ、リモコンのボタンを押せば良い。
ただし。ボタンは二つある。
一つ。
ベンを吊り上げるかわりに、ケイトの降下を速めるボタン。
一つ。
ケイトを吊り上げるかわりに、ベンの降下を速めるボタン。
どちらかを助けようとすれば、どちらかが、よりゴキブリ地獄へと近づくようになっているのだ。
助けられるのは、一人だけ。どちらかがゴキブリ地獄に落ちた時、もう片方は拘束を解かれる。
「それで、この二人か……」
サーシャが、どこか諦念したようにつぶやいた。
今にして、南郷が、みすみす学校浄化装置に支配されていた理由がわかった。サーシャを、この状況に追い込むための布石だったのだ。
ベンとケイト。この二人の生け贄は、何も無作為に選ばれたわけではない。
学校浄化装置において、この二人のポイントは全く同じ、一四二七ポイント。つまり今のサーシャにとって、この二人は等価の存在なのだ。
一ポイントでも違えば、低い方を切り捨てる事が出来た。だが、この二人のどちらかを犠牲にするなんて、サーシャには到底できなかった。
それでも。
「はい、スタート」
サイコシルバーが無慈悲に宣告し、装置の電源スイッチを押した。
滑車が、気怠い唸りを上げて回り出した。ベンとケイトは、同時に降ろされてゆく。
「ひ……、やめ、やめてくれ!」
「いや……サーシャ、助けて!」
サーシャは、どちらのボタンも押せない。
「ちなみに、この状況は動画撮影しているので。結果は、SBにて絶賛配信予定!」
サイコシルバーが、軽薄酷薄に追い打ちをかけてくる。
「っ……!」
サーシャは、ついにボタンを押した。
ベンを上げ、ケイトを下げるボタンを。
「ああァあアああぁァ!? やめ、やめて!」
一段階、降下速度が上がったケイトが恐慌状態に陥った。ゴキブリケースに向けて、まっしぐらだ。かなりの高さがあったように思えたが、ケイトの足はもう、ケースに届きそうで――、
「ごめん……」
寸前、サーシャは再びボタンを押した。
今度は逆。
ケイトを上げて、ベンを下げるボタンだ。
「あああああああああああ! アアアアアアア!? どうし、どうして、サーシャさん!」
過呼吸がちに放心するケイトが上がると同時に、ベンが急落下。
天秤は、瞬く間に逆転。
ベンが落ちる……寸前に、またボタンを切り替える。
もはや、ベンもケイトも、自分が落ちているのか上がっているのかの区別もつかないまま、半狂乱で泣き叫ぶ事しかしなくなった。
二人ともを“落とさない”のなら、こうするしかない。片方が落ちる寸前に、スイッチを切り替える。これを延々繰り返せば、二人ともがゴキブリケースに落ちずに済む。
だが。
いつ、ゴキブリまみれの中に突き落とされるのか。その恐怖の中、文字通り宙ぶらりんにされ続けるのもまた、二人には耐えがたい拷問だろう。
何より、生け贄が降下する速度は、かなりのものだ。サーシャの手元が少しでも狂えば、そのままケースに突っ込んでしまう。
そして、サーシャの神経が何時間も続くはずはない。これを続けていれば、必ず、“その時”が訪れてしまうだろう。
どちらかを、選ばなければならない。
だが、どちらも選べない。
何故なら、二人とも、ポイントが同じなのだから。
ここでどちらかを選べば、彼女の脊椎とも言える信念が、粉々に粉砕されてしまう。
考えなければ。二人ともを救う方法を。
だが、考える余裕など与えられようもない。サーシャは既に、リモコン操作で一杯一杯なのだ。
それでも。
この問題を打破する方法を、考えなければ。
この問題を、解決する答えを。
解決の答えを……。
サーシャは、はっとした。
そして、悟った。
「ごめん、ミスった!」
声高らかに言うと、目をつむってボタンをめちゃくちゃに操作。そして、どちらかの足がゴキブリケースに着地した音を聞いた。
約束通り、ケースの上蓋はスライド。生け贄は、ゴキブリまみれの中に放り込まれたのだ。
サーシャは、初めて友人を見捨てた。
何も見ない事で、どちらも選ばなかった体裁を繕い。
だから。
サーシャは今、ようやく救済されたのだ。
誰かと誰かを天秤にかけ、それを背負い込む事しか出来なかった苦痛から、抜け出す事が出来た。
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