第7話 ディストピア<前編>
さすがのクリスも、唖然とした。
「やあ、クリスさんじゃないですか……」
南郷が、ぼそぼそ声で挨拶をした。目は虚ろで、焦点が定まっているかも怪しい。足取りも不確かだ。
見ている側から、もつれさせて転ぶ――、
「ヘイ、アイジ君! 一体、どうしたと言うんだい」
寸前、クリスが慌てて南郷を支えた。
「どうもこうも無いですよ……ただただ、
申し訳ないんですが、あんまり俺に話をさせないでくれますか……。
声を出すだけで、めんどくさいんですよ……」
クリスはそれを、知っている。なぜなら。
「バカな……こんな事が」
クリスが見渡す限り、同じように生気を失った生徒達が、無為にさまよっていた。
生徒どころではない。クリスから見える範囲で、三人、教師が同じように、魂の抜けたような面構えで夢遊しているのだ。
「あなたも原因の一人ですよ……。スクールがこのザマになった事のね……。
ビリーもマナさんも、もう戻らない。それでも頑張ったのに、結果がコレ……。
これ以上、無駄な事は、もうたくさんだ……。もうなにもしたくない……。
クリスさん、あなたの勝ちだ。
これで満足しましたか。満足したら、もう俺に構わないでください……。
めんどくさいんです……。もう、何もかもが……」
今、クリスはある確信を得た。その元凶の居所を目指して歩き出す。
やはりと言うべきか。ブロスフェルト教諭は、いつもと変わらぬ様子で平然としていた。
「貴方、何をしたんだ」
そんな教諭に、クリスは詰め寄る。
「私は何も」
「わかりました、言い直しましょう。
何を“させました”? サーシャに」
クリスは、珍しく焦りの色を浮かべていた。
ここに来る途中、アダムに遭遇していた。
あろうことか、あの傲岸不遜な男すらも、南郷と同じ腑抜けになり下がっていたのだ。
手下を率いる事もなく、落ちぶれた姿で、座り込んでいた。
――失せろ。アンタの相手はもう、うんざりなんだ。
――めんどくさいんだ。
――頭でも何でも下げてやるから、金輪際、俺の前から消え失せてくれ。
「あのデータを、使ったのでしょう? 私がサイコシルバーから収集したデータを」
「その通り」
「しかし、こんな事、組織の計画には無かった事だ。貴方は、裏切るつもりか」
「その問いは、ボスにするが良い」
「許可を得ての事だと言うのか? あり得ない。あの計画は、こんな事のために――」
「お引き取り願おう。君はもう、この学校の関係者ではない」
辺りを見渡せば、警備員がクリスを取り囲もうとしていた。彼らは、南郷やアダムとは逆に、生気に満ち溢れていた。
「ンフーっ、フーッッ!」
顔を紅潮させ、鼻息荒く、手足をそわそわさせて、落ち着かない。こんな、見るからに“
クリスは、何も言わずに踵を返して立ち去った。
今、スクールで起こっている事の全容。それをクリスは、半日と経たずに、完璧に調べ上げた。
サイコクロースが渡した装置によって、サーシャは完全にアインソフ・スクールを支配したのだ。
これまでの、人望と政治での統治を投げ出して。機械による“物理的”支配を選んだ。
今週始め、ブロスフェルト教諭の先導で、全校生徒と関係者に予防接種と称した注射が行われた。当然、それはワクチンなどではない。サーシャとブロスフェルト教諭を除く全ての人間に“ナノマシン”を注入する為の、ウイルス注射だったのだ。
ナノマシンを注入された人間は、サーシャの持つ“学校浄化装置”の端末によって、自在に脳内物質の量を操作されてしまう。
サーシャの意向に従った人間には、βエンドルフィンに代表される、快楽物質の分泌が促進される。
逆に、サーシャの意向に逆らう人物には、アドレナリン・ノルアドレナリン・セロトニンのバランスを徹底的にぶち壊され、無気力に追い込まれる。
人間は、誰一人として、己の脳反応に逆らう事は出来ない。気合や気力ではねのけようにも、自分の脳そのものが支配されては、それすらもままならないからだ。
目下、サーシャに対して最も反抗的だった二名――南郷とアダム――の変わり果てた姿が、いい証拠だろう。
彼らには、常人には持ち得ぬ、並外れた“信念”が存在した。だがそれは、サーシャによるただ一度の機械操作で物理的に剥奪された。稀代のタフガイたちは、機械によって、骨抜きにされてしまったのだ。
また、この“賞罰”の判断は、サーシャが手動で行う事もあるが、大半はナノマシンが自動的に行う。どれだけ本心を偽ろうとも、サーシャに対する利害の思考が完璧な精度で検知されてしまうのだ。
クリスが採取した、サイコシルバーの思考パターン。つまり、人心を完璧に把握する、稀代の才能。皮肉にもそれが、“学校浄化装置”のフラグ管理を担う、
このシステムを利用して、サーシャは、自分の王国を作り上げたのだ。
学校浄化装置をサーシャにくれたサイコクロースは、あくまでも親切だった。ナノマシンを注入された全ての人間に対し、“ポイントによる評価”を付与できるようにしてくれたからだ。
それは、大した機能ではない。ナノマシンを注入された対象者全てに
サーシャが気に入った人間には、得点が加算されてゆく。
サーシャの意に沿わない人間の得点は、減算されてゆく。
そして。スクールの人々には、その得点に応じて“階級”が与えられる。得点が高い人間が、より上の地位を与えられる。
得点の高い人間ほど、サーシャの
得点の低い人間ほど、何の責任も負わなくても良い代わりに、無気力状態に追い込まれる。
これが、サイコクロースにより、サーシャに対して与えられた“贈り物”の全容。
ナノマシンという技術は、明らかに、この二〇〇〇年代初頭には不自然な代物だ。
だが、誰一人として、それに言及する者は居ない。
クリスは、以上の報告を行った。自らの組織の頂点に立つ“ボス”に対して。
「……なるほど。やられたな」
琥珀色の照明だけが頼りの、薄暗い執務室。木材の宝石と称される
「完全に、私にとっては想定外の行動だ。サイコクロースのそれは」
「ならば、今すぐ――」
クリスが勇み足で進言するも、
「放っておけ。確かに奴の行動は、暴挙とも言えるが……我々の目的と競合するものでもない」
組織の“ボス”のこの反応に、クリスは唖然とした。
「競合しない、と仰りましたか? そんなはずはない。今のこの状況は、明らかに“我ら”の意図を逸しています。早々に破壊しなければ――」
「捨てて置け」
再び、しかし今度は有無を言わさない語調で。“ボス”はクリスに言った。
「あのナノマシンの技術は、ヒーロー結社でなければ実現不可能なものだ。むしろ、それを露呈してくれた事に、チャンスを感じなければならない。
我々は、それをいかに利用するか……。その為には、奴らの策にまんまと乗る事もひとつだ」
クリスは、それ以上何も返せなかった。
虎の仔を得る為に、その洞穴に踏み込むべきか、否か。それを確信するには、クリストファー・ヘイルという男は、あまりに若すぎた。
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