女帝を倒せ!<中編>

 あれから三日。

 ようやくマナは、この夜、南郷と会う事を了承してくれた。

 明日からは、復学できるらしい。

 出来るだけ優しく、マナの部屋のドアをノックする。

「愛次です」

「……入って、いいよ」

 ドア越しに聞こえるマナの声はか細く、聞き取るのがやっとだった。

「失礼します」

 いつにもまして柔らかい声で、南郷はドアを慎重に開けた。

 未だ癒えきっていない、心の傷。

 脊髄に刻まれた、他人への恐怖。

 その反応が最小限に抑えられる音域を、南郷は的確に選択している。

 マナは、うつむき加減で、ベッドに腰かけていた。

 南郷の姿を見ると、やはり僅かに身を強張らせた。

 しかし、顔を見た途端に、深い深い安堵を示した。

 ――よかった、本当に愛次くんだった。

 ――他の誰でもない、愛次くんだった。

 その思考を見た途端。

 南郷はなだれ込むように、しがみつくように、彼女を抱きすくめた。

「……!」

 マナは一瞬、サムソンに組み敷かれた事を思い起こして怯えた。

 だが、それも最小限の時間で済んだ。

 それよりも、あれだけ片思いだと思っていた南郷に抱きしめられたという、正の感情が、負の感情を喰らいつくしたのだ。

「やめたい……」

 南郷はただ、かすれた声で、マナの耳に呟いた。

「やめてしまいたい……」

 二度目のそれは、寒さに震えるようなものだった。

 マナの中で、これまで抱えていた恐怖や、先の見えない闇が一息に吹き飛んだ。

 やめたい。

 何に対してそう言っているのかは、聞くだけ野暮だろう。

 けれど、決して“やめる”事などできない。

 そんな事は南郷も、半身のビリーも、“他人”に過ぎないマナですらも知っている。

 子供の頃からの長い付き合いで、南郷が彼女にこんな弱音を吐いたのは初めてだった。

 いつもクレバーで、超然とした彼が。

 強さしかなかったと、勝手に思い込んでいた相手が、こんな。

 こんなに、脆かったなんて。

 ただただ驚愕し、

 ただただ、それを見せられた事を喜ぶ気持ちが湧き上がってくる。

 そうすることで、マナは癒される。

 マナが癒される事で、南郷は、自分を納得させたいのだ。

 ――俺は最低だ。

 マナの気持ちが掌の上にあるのを良い事に、

 彼女が少しでも幸福であれば、自分も幸福になれるというエゴの為に、

 こんな、極限の精神状態にあってなお、彼女を操作してのける自分自身を、南郷は激しく憎んだ。

 サムソンの暴挙は、南郷にとっても、本当に消耗を強いる事だった。

 もし助けが間に合わなかったらと思うと、恐ろしくて恐ろしくて、仕方がなかった。

 取り返しのつかない事になったマナの思考を、直視する事になったら、正気で居られたかもわからない。

 それこそサムソンを殺し、マリー・シーグローヴを殺し、このスクールの人間全てにマシンガンを撃ち散らしていたかもしれないのだ。

 全て、自分の中に湧き上がる嫌な思いを霧散させたいが為に。

 ――うれしい。愛次くん、わたしの事、ここまで……。

「俺は」

 今一番癒されるべき人にしがみつき、みっともなく癒しを求めている。

 マナは、そんな彼を優しく撫でる。

「わかったから、わたしは愛次くんの味方だから、ね?」

 そうする事で南郷を癒し、その事実がマナ自身を何より癒すと知っているから。

 それも、南郷は全て見越している。

 見越して、しまえている。

 今はただ、マナが“ここに居る”事を、腕から伝わる感触で確かめるだけだ。


 彼女には、これから更なる業苦が待っている事を、南郷は既に予見しているから。


 それさえなければ、南郷は、もう少し耐える事が出来たのだ。




 耐えきれず、ビリーは吐いた。

 まだ夕食前だったから、ほとんど胃液しか出なかった。

「ストレスでゲロ吐くなんて、はじめてだ」

 胃の痙攣がようやく収まったところに、お気に入りの眼鏡をかけなおした。

 絶え絶えの息を整えながら、ビリーは自嘲の笑みを浮かべた。

「人って本当に、心の傷で体がやられるんだな」

 今、ビリーを苛むのはビリー自身の傷では無い。

 南郷の心が軋み、ひび割れ、それでも形を保たねばならない重圧。

 そんなものを、一度でも我が身同然に共感してしまったせいだ。

 ビリーも、南郷の前では平静を装っていたが、無駄だったろう。

 南郷が、ビリーの前で吐かずに我慢していたように。

 ただ単に二人とも、一応の社会的礼儀として、人前の嘔吐を堪えたに過ぎない。

 南郷のストレス。

 自分のミスでマナを危険にさらした自責。

 これからも、マナが狙われるだろう、予感。

 単に言語化するだけなら、これほど簡単でわかりやすい事実もない。

 だが。

 南郷のような、クールなタフガイをしても、心が折れる事はある。

 やめたい。

 南郷は、そう願っている。

 その相棒であるビリーも、実のところ同じ気持ちだ。

 戦いを投げ出してしまいたい。

 サイコシルバーがあって、今の自分が居る。

 だが、もうサイコシルバーが居なくても、どうにか平和に暮らしていく事は可能だ。

 ヒーローの戦いは、国家間の戦争ではない。

 それどころか、敵味方に分かれた、チンピラの喧嘩ですらない。

 たまたま目についた“悪”を、ヒーローが狩るだけの事。

 そう、食いもしない獲物を狩るようなものだ。

 わざわざ自分から危険を冒し、そんな世界に首を突っ込む理由は、南郷にもビリーにもない。

 だが。

 今の戦いから脱落する事は、同時に、遠からず彼らの心を殺す事をも意味する。

 ビリーにとって、人の悪意と悲嘆が蔓延したこの世は、毒ガスに満ちた世界に等しい。

 その毒は、体ではなく心を蝕む。

 体が壮健でも、今のままではいずれ、彼は自覚無きままに道を誤るだろう。

 あるいは、自覚無きままに、廃人となるだろう。

 他人の心が理解できてしまう体質とは、そう言うものだ。

 悪を、人々の心にある悪毒を、完全に消し去らなければ。

 少なくとも、ビリーと南郷の目に届く範囲においては。

 それは、真に平和な世界だ。

 誰かが誰かを苦しめる事のない、皆が笑顔だけで暮らせる世界。

 無血の世界を求めるという事は、これまでの世界を否定すると言う事。

 不可能だと、思考停止してはならない。

 多数派が思考を止め、現状をよしとしたからこそ、今の殺伐とした世界ディストピアがある。

 世界の根底を変えるだけの理想モデルを実現出来るのは、一般人の定型から外れてしまった自分達だけだ。

 逸脱者であり、超越者であるヒーローが、大衆の前で悪を裁く。

 そうして世直しをして初めて、彼らにとっての毒ガスは晴れてゆくのだ。

 だからビリーは、南郷が逃げられない事を知っている。

 少なくとも、ビリーは逃げたい。

 そして、南郷にも逃げられるなら逃げて欲しい。

 ――アイジには、まだ逃げる余地はある。

 ――彼は、自分がマナに抱いている感情が何であるか、“感じて”いながら“理解”出来ていない。

 ――全く、どうして本人ではない男が、本人よりもその本心を理解できてしまうのか。

 ともかく。

 ――マナさえ居れば、アイジは大丈夫だ。後は彼が、それを真に理解するだけ。

 南郷にはマナと人並みに愛し合い、幸せになって欲しい。

 いずれ結婚して、その式に呼んで欲しい。

 ビリーとしても、そんな当たり前の幸福が欲しい。

 そのために自分が、南郷と言う類稀なる理解者を失っても惜しくはない。

 だが。

 ビリーが孤独に戻った時に感じる痛みは、南郷を殺してしまいかねない毒なのだ。

 南郷とビリー。

 お互いがお互いの幸せを願い、それを感じあってしまえているから。

 だから、どちらかが、どちらかを置いて脱落する事が許されないでいる。

 相棒が自分を無私の心で許すのに、自分が自分を許さないのだ。

 二人は、自分と相棒の意に反して戦い続ける。

 そんな戦いに早く終止符を打てれば。

 ビリーはそう考え、実際に策を思いついた。

 だからこそ、彼らは今になって、ヒーロー活動を活発にしたのだ。

 先日、アメフト部員の恐喝行為にサイコシルバーが介入したのは、その始まりに過ぎない。

 あの危険な生徒会にサイコシルバーを晒してでも、やらなければならない事がある。

 もう、後には戻れない。

 誰一人として。




 夜の廊下。

 数日後に控えた、ホームカミングの準備で、生徒たちが未だ沸き立っている。

 そんな中でも、一際目立つ一団がある。

 スクールの女王蜂クイーンビーが一人、サーシャ・アベリナは、躍る足取りで歩いていた。

 肩の高さに切り揃えた濃い金髪も、楽し気に躍っている。

 無邪気な子供を思わせる顔の全て――特に、抜けるような空色の瞳が、躍っていた。

 その周囲を取り囲む、五人の取り巻きも、浮き立つ心を隠しきれなかった。

「さあさ、つまんない飾りつけなんて速攻で終わらせて、水曜日の“イタズラ日”に何するかを考えましょー!」

 両腕を開き、クルクル回りながら、サーシャは取り巻き達に言った。

 彼女の取り巻きは、他のジョックやクイーンビーが連れるそれとは違っていた。

 統一感が無いのだ。

 例えば、アダム王のようなスター選手の周囲を固めるのは、やはり筋骨隆々のスポーツマンばかりだ。

 そうでなければ、華やかな女達か。

 確かに、サーシャの側にいる五人のうち一人は、よく引き締まった筋肉の長身――女子バスケットボール部の部員である。

 しかしもう一人を見ると、血の気が感じられない白貌に、黒い口紅を塗った少女だ。

 全身を暗く病的な黒衣に包む彼女は、“ゴス”と呼ばれるカースト階層に所属する人間だ。

 世間一般的には“敗者ルーザー”と嘲笑される人種ではある。

 もう一人は、ゴスの少女と対照的に、どこまでも存在感を薄めたファッションだった。

 無地のトレーナーに、無個性なジーンズ。

 化粧気の無い、そばかすだらけの顔に、実用一辺倒の野暮ったい眼鏡をかけた少女。

 その赤毛ジンジャーもろくに手入れがされておらず、痛みきっている。

 その笑顔はおどおどとしていて……それでも、サーシャに目を向けた時だけは、素朴で素直な笑みを浮かべていられた。

 不思議少女フローターなどと呼ばれて、どこにも所属できなかった少女。

 彼女の居場所は、サーシャの側でしかあり得なかった。

 彼女は誰に対しても親身だ。

 同時に、誰に対しても厚かましい。

 誰からも頼られ、誰の事をも頼る。

 カースト最上位の存在としては、まさに異色の存在。

「あ、あの、サーシャさんっ!」

 勇気を振り絞るように、一人の男子生徒が声をかけてきた。

 祭りの前日だと言うのに服装の冴えない、目にクマを作った男子。

「やー、ベンくん! この前はほんとありがとうね」

 ベンというこの少年には、先日、パソコンを自作してもらっていた。

 態度こそ軽いが、サーシャは、彼に会うたびに感謝の意を表し続けていた。

 ベンだけではない。

 彼女は何かあるごとに誰かを頼り、それぞれの持つ能力を自分の為に発揮してもらっていた。

「お、俺なんて、下らない男を使ってくれるの……サーシャさんだけですから」

 ベンは、サーシャから目線を外して、こぼした。

 彼に目を付けたジョック達からオカマ野郎ファゴットと罵られ続けて一年余り。

 彼はすっかり、自分を無価値だと思い込むようになってしまっていた。

 そんな彼の顔をドアップで覗き込む、サーシャ。

「またそんなバカなこと言って!

 いい? 社会に出たら、あなたみたいにパソコンを部品から作れるような秀才タイプが、人の上に立つの!

 あのジョブズだって、学生時代はGeekオタクだったわけでしょ?」

「ジョブズは、実は、そうでもない……」

「ああもう、つまらない揚げ足を取らない!

 世の映画に出てくるジョックは横柄な馬鹿が多くて、クイーンビーは胸が大きいだけのパーが多いのは、なんでだと思う?

 大抵、そういう人物から、サメに食われたり銃で撃ち殺されたりするのは、どうして?

 世の才能ある映画監督の大半が、そういう連中に虐げられたから、自分の作品の中で仕返しするんでしょう?」

「それは、まあ……否定、できない、かな」

「将来!

 ああいう、現状に満足して、勉強もスポーツも半端な所で止まってる連中を、今度はあなたが率いなきゃならないわけ。

 だからもう、自分を卑下するようなことは言わないの。

 “この船沈むに決まってる”なんて言う船長、ベンくんだって怖いでしょ?」

 諭すようなサーシャの言葉に、ベンはただ、黙ってうなずく。

「頑張る、よ」

「まあ、よろしい。

 “やってやるぜ!”くらい言ってくれれば最高だったけど。

 あなたはあたしのパソコンを――あんないいやつを一生懸命作ってくれたんだから。

 だから、いじめられたら、あたしに言ってね?

 そいつをまた、ビンタしてやる」

 それは、ジョークなどではない。

 ベンが、誰かにいじめられたのであれば、彼女はKINGが相手でもビンタを喰らわすのだ。

 何故なら、ベンは、そのスキルをサーシャの為に振るってくれたから。

 ただ一度、パソコンを作ってくれただけ。

 それはサーシャにとって、自らの権限全てをもって、彼を護るに足る理由となる。

 彼女のビンタには、物理的ダメージ以上に、スクール内の政治的価値がある。

 それは、単なる痛み以上の価値だ。

 人は持ちつ持たれつ。

 親しき中にも等価交換。

 一方的な支配も、逆に、絆だけに甘えた関係も、サーシャにとっては健全なものではない。

「そ、そんな事より、サーシャさん、今度、主役やるって聞いて、おめでとう……って言いたくて」

 そう。

 サーシャ・アベリナが所属するのは、演劇部。

 先日、主役を務めるはずだった、かの“女帝”が降板した事で、ナンバーツーのサーシャにその鉢が回ってきたのだ。

「ありがと。一生懸命頑張るから、ベンくんもきっと観に来てね」

 弱々しいパソコン職人の肩をぽんぽんと叩くと、サーシャはまた歩き出した。

 サーシャ・アベリナ。

 彼女自身がロシア人の留学生である。

 同じエスカレーターで上ってきたアメリカ人の生徒達に混ざっていた入学当初は、アウェーな存在だった。

 誰よりも助け合いの温かみを知り、

 誰よりも助け合いのドライな本質を知る。

 だから、

「さーて、千載一遇のチャンスだ。

 “女帝”だのKINGだのに右へならえの、こんなディストピアとも、そろそろお別れしなきゃね」

 彼女は、マリー・シーグローブを追い落とすつもりだ。

 そして自分がスクールに君臨し、摂理を変えて見せるつもりでいる。




 オイゲン・ブロスフェルト教諭は、自室でトランプタワーを作っていた。

 五段目に到達したその未完の塔は、機械が作ったかのように整い、美しい。

 この塔は六段にするつもりだ。

 あと二枚、同じように立てるだけで、完成する。

 オイゲンは、生来、器用で徹底的な男だ。

 今更これを完成させることなど、造作もない。

 だが。

 最後の二枚を持った手が、ひどく震える。

 普段、生徒に無感情なマシーンとすら評される顔が、強張っている。

 発作を起こしたように過呼吸を繰り返し、

 そして。

 彼は何を思ったか、タワーの下層を手で払い、崩してしまった。

 それなりの時間を消費し、培ってきたものを、壊してしまった。

 しばしそれを呆然と見やり、教諭は、

 悲しげに、頭を振った。

「タロットカード、か」

 不意に、あの後輩ヒーローが始めた児戯の事が頭をよぎった。

 自分が彼に処刑されるとしたら……そのアルカナは“塔”以外にあるまい、と。

 いや。

 もう既に彼は“塔”の宿命に縛られているのだから、そんなことをされても無意味だろう。

 正位置にも逆位置にも、希望はない。

 自嘲の笑みが、こぼれる。

 生徒には決して見せない、豊かな表情の変化がそこにはあった。

「南郷愛次。君は必ず、私の思い通りになる」

 一人の生徒にこれだけ固執するのは、生まれて初めてだった。

 だが、オイゲンにとっての希望は――南郷にしか果たせない。

 だから。

 次のホームカミングで、全てが動き出す。

 それを、見届けねばならない。

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