第3話 女帝を倒せ!<前編>

 アダムがサイコシルバーを取り逃してから三日。

 スクールの女帝マリー・シーグローヴは、長らく姿を消していた。

 アダムの来訪すらも拒否し、今に至る。

 そして。

 三日ぶりに彼女の部屋を訪れたアダムは、

 このスクールに入学して以降、はじめて、

 呆気にとられた様子を見せた。

 女帝は、ベッドに腰掛けていた。

 ただでさえ細身の彼女が、今は余計に痩せて見えたのは……事実、彼女は、頬がこけるほどに疲弊していたからだ。

 入ってきたアダムに少しも目を向けず。

 ただ、自分の膝へ視線を落としていた。

 また、両腕の袖口から、包帯らしきものがちらついているのも、アダムは見逃さなかった。

「……何から話せばいいものか」

 このKINGを騙し、マナを餌にした事。

 正直な所、非常に憤慨を覚える所だが、彼女の勝手な暗躍は今回がはじめてでは無い。

 今は何故か、あの件を聞くのは違う気がした。

 女帝の肌はいつにもまして白く、静脈が見えそうなほどに青ざめている。

 まるで亡霊のように――とアダム王が考えていた矢先、女帝は彼を向いた。

 その切れ長の碧眼は、そこだけは、変わっていない。

 何かが、彼女の身に起こった。

「何があった。君に」

 アダム王は訊いた。

 マリーの、いつもより赤みを増したような口唇が、弓なりに歪んだ。

「私は、サイコシルバーの件から手を引きます」

「何だって?」

「私はもう、彼とは戦えない。彼に関わってはいけない」

「……」

 アダム王は、理解した。

 マナの件から、この三日。

 女帝は、彼の預かり知らぬ所で、

 倒されたのだ。




 ある輸入業者の事務所。

 表向きはそう言う事になっている部屋で、異様な光景が演出されていた。

 真っ白な絨毯の上、白人の少女が……マリー・シーグローヴが、一抱えほどの水瓶を持ち上げる所だった。

 水瓶の中は、真っ黒な墨汁で満たされている。

 それを、もう一つ置かれた水瓶に移し変える。

 すると、空になった水瓶を床に置き、

 今しがた自分が墨汁を注いだ水瓶を、持ち上げる。

 そして、また、もう一方の水瓶に墨汁を注いだ。

 それを、延々と繰り返していた。

 まるで無意味な行動だ。

 しかし、彼女はそれをしなければならなかった。

 何故なら。

 手を止めたら殺すと言われているからだ。

 彼女の周りを取り囲む、黒服姿の五人に、

 屈強な要人警護を思わせるその五人を率いた“南郷愛次”に、

 そうしないと殺すと、言われているから。

 手を止めれば、殺して埋める。

 墨汁をこぼしても、殺して埋める。

 一滴でもこぼしたら、殺して埋める。

 その為の白絨毯と、黒い墨汁だった。

 筋金入りの男達に命を握られたマリー・シーグローヴは、ただただ、水瓶の墨汁を移し続けるしかない。

 南郷が“よし”と言うまで、延々と。

 南郷は、ストップウォッチを手にしていた。

 墨汁の一往復に、一定時間以上をかければ、やはり即、殺すと言ってある。


 この処刑法のモチーフは“節制”。

 タロットカードの大アルカナのうち、一四番目に当たる。

 節制のカードに描かれているのは赤翼の天使が、水瓶から水瓶へ水を移している絵だ。

 瓶から瓶へと渡るたび、水は浄化される。

 あるいは、霊薬の製造風景とも言われている。

 正位置での意味は、調和や節度、献身。

 逆位置の意味では、分不相応な消費、波乱。

 南郷がマリーに再現させている事の意味は、それだ。

 いかにスクールで無敵を誇る“女帝”と言えど、実力行使に出た南郷組員の手にかかれば、無力な少女に過ぎない。

 女帝として君臨しているだけならよかった。

 その権限で卒業まで何をしようが、末端の一生徒に過ぎない南郷の知る所では無かった。

 仮にマナが陰湿ないじめを受け、登校拒否や、最悪退学になったとしても、南郷はここまではしなかっただろう。

 薄情なようだが、学校社会で淘汰されてしまうのは運命であるし、学歴が人生の全てではない。

 だが、女帝は南郷のその、甘すぎる許容範囲すらも越えて、してはならない事をしてしまった。

 南郷にあるのは、怒りではない。

 女帝がこのまま報復を受けずに終われば、第二第三のサムソンをマナに仕向けられるかもしれない。

 サイコシルバーと言えども、彼女を守り切れる保証はどこにも無い。

 ヒーローは、彼女ヒロイン一人を守る事だけが仕事ではないのだから。

 そう低くない確率でマナを害される。

 その危機感しか、無かった。

 となれば、女帝は早々に処刑する必要があった。

 明日から分不相応な振る舞いをさせず、節度を持ってもらうために。

 堅気かたぎの人間を拉致し、拷問にかけた。

 しかも、米国こちらへ出張に来ていた組員を、実質無理やり呼びつけて、加担させたのだ。

 これは、南郷愛次本人の、完全な独断である。

 サイコシルバーではなく“南郷愛次”が起こす反社会的行動に関して、ヒーロー結社が関与する事は不可能だ。

 しかし、この方法には別な問題がある。

 南郷の父は、仕事に関して、例え相手が跡取り息子でも特別扱いをしない。

 この一回であれば“若気の至り”と言う事で、どうにか許される確信が、南郷にはあった。

 だが、二度目は無い。

 二度、同じ失敗をすれば、南郷の組長は容赦のない処罰を下す事だろう。

 まず間違いなくスクールは辞めさせられ、本国へと呼び戻される。

 二度とアメリカの地を踏む事はできなくなる。

 ヒーローですらも不可能な、一撃必殺のカード。

 それを“一般人”南郷は、たかだか生徒会副会長という程度の身分しかない少女に、ぶつけてしまったのだ。

「思い切った事をした」

 南郷の傍らには、相棒であるビリーもいた。

 共に肩を並べて、女帝の作業を眺めていた。

「苦言?」

 それまで冷酷な無表情を作っていた南郷が、にわかに自嘲の微笑を浮かべた。

「違うとわかっているくせに」

「ああ」

 ビリーに相槌を打つ声もまた、元の気楽な調子が戻っている。

 やはり、あるべき所に自分の身がある安心感からだろうか。

 自室のベッド、恋人の胸の中、猫で言えば飼い主の膝上。

 特に今は……ビリーの存在が、隣に必要だった。

 一方。

 マリーは、未だ、墨汁を移し替えていた。

 かれこれ何時間もそうしているのだが、驚いたことに、彼女の顔には屈する気配が一つもない。

 一定時間内に墨汁を移さなければ、マフィアに殺される。

 かといって、一滴でも墨汁を垂らせば、やはりマフィアに殺される。

 迅速に、しかし、水一滴の扱いすらも精密に。

 しかも、そこまで命を削ってやっている事なのに、何一つ生産性が無い。

 かのドストエフスキーの著作“地下室の手記”にある、穴を掘らせては埋めさせるという拷問は有名だ。

 それに似た無為な作業に、一つもミスを許さない緊張感を加えてやれば、どうなるかは歴然。

 二十歳にもならない少女の心を壊すには、過剰なほどの威力があったはずだ。

 実際、彼女から発せられる思考の波動からも、いつ正気と生気の糸が切れるかもしれない、極限状態がうかがいしれた。

 それでも、そんな彼女を支えているのは、ただただ女帝として大勢の人間を統べる者の矜持。

 ここを無事に生還するという、力強い女帝のイメージ。

 それが、マリー本人の感覚をも騙し、大の大人でも卒倒しかねない極限の拷問を耐え抜かせているのだ。

 女帝は、予想を超えて頑張りすぎている。

 刑の執行者である南郷本人も、予想以上に疲労する羽目になった。

 何せ、彼女を監視しなければならない身だから、ずっと棒立ちで居させられるのだ。

 なので、

「もう良いですよ、マリーさん」

 刑の終了を告げた。

「水瓶を落としても、何もしません。

 殺すなんて、嘘ですよ」

 いつものように柔らかい口調で教えてやると、マリーは、手にしていた水瓶を落としてしまった。

 真っ白な絨毯に、墨汁の波がどんどん広がっていく。

 震えのおさまらない両腕のまま、彼女はその場に座り込んだ。

「降参です。あなたの勝ちです。俺はもうヘトヘトに疲れました」

 脱力したまま、しかし顔つきだけは依然、無礼者を糾弾する女帝のそれで、

 マリーは南郷を見上げた。

「大したものです。本当に感服しました」

 ならば、こんな暴挙に対する償いをする覚悟はあるのか?

 殺されるというのがはったりにしろ、本気にしろ、

 自分がここから生還したのなら、マリーは南郷も、ビリーも、そしてやはりマナも許す気は無かった。

 スクールの範囲では済まさない。

 どこまでも追い詰めて、社会的な死を――、

「けれど、あなたの弟さんやお母さんは、どうなんでしょうね?

 同じことをされて、あなたのように耐えきれますかね?

 何せ、彼と彼女は“女帝”その人ではないのですから」

 南郷のその言葉で、マリーが抱いていた逆転勝利への青写真は跡形もなく打ち砕かれた。

 

 そして理解したのだ。

 自分が手を下そうとした女生徒は、南郷にとって、それほどまでにかけがえの無い存在だったのだと。

 ――私が餌にしたのは、この悪魔サタンが禁忌と定めた存在だった。

 

 南郷は、一瞬、押し黙った。

 ふむ、なるほど。

 女帝マリーの、自分に対する考えを感じ取ったことで、

 今まで、どこか消化不良のままにしていた答えを、直視した気がした。

 盲目のコウモリが、岩壁に超音波を発し、その反射を感じる事で行く手を見据えるように。


“他人”の貴方が踏み込んでいい領域ではない。


 マナは、ビリーとは違う。

 ビリーのように、自分の同一存在とすら言える無二の存在には程遠い。

 所詮は、他人だ。

 けれど。

 自分に自分を見る事は出来ない。

 自分を真に見得るとすれば、それはやはり他人でしかないのだ、と。

 南郷はただ、寂しい微笑みを返すだけ。

「彼女を解放します。

 古田さん、わがままばかり言って申し訳ありません。

 けれど、くれぐれも、丁重にエスコートして下さい」

 忠臣・古田は、言葉も無く一礼する。

 そして、女帝にとって死を司る五人は、一転して鉄壁のSPと化して、彼女を寮に帰したのだ。

 組員も女帝も去り、

「節制の意味――“献身”か」

 唯一南郷のそばに残ったビリーが、静かに呟いた。

「そう。彼女は、弟さんやお母さんの為の“献身”として、この大アルカナ“節制”の裁きを、これからも背負うんだ。

 もう彼女が、マナさんに手を出す事は出来ない。

 それどころか、アダムさんや他のスクール関係者が彼女に手を出せば、潔白を証明するために“女帝”がそれを阻止しなければならないだろうね」

 他人事のような口ぶりで、南郷は応じた。

「アイジ、時々君が恐ろしくなる。

 まさかあの女帝を、こんな電撃戦で倒してしまうとは」

「テレビやコミックのヒーローのように、配下から順に倒していく筋合いはないからね。

 ボスを先に倒せるのなら、それに越したことはない」




 そして、女帝は今。

 両の腕を満足に動かせないでいた。

 いや。

 実際には全く後遺症はないし、少しの疲労も残ってはいない。

 ただ、器から器へ水を移し替えていただけなのだから。

 腕そのものは、いつも通り、動く。

 問題は、メンタル面。

 女帝がいう所の“腕の役者魂”が満足に動かないのだ。

「残念ですが、再来週の舞台は降りなければなりません」

 演劇部部長マリー・シーグローヴ。

 彼女が部長として、筆頭役者として、スクールの女帝としての地位を得た根幹には、その圧倒的な演技の実力にあった。

 彼女は舞台に出ると決まってから、いつも、役を演じる人物になりきるため、日常から精神を調律する。

 それこそ、自分の肉を、演じる人物の肉に作り替えるようにして。

 ナイフとフォークを持つときの握力、歩調、声の使い方。

 それは精密過ぎて故障と紙一重の、機械を調律するようなものだった。

 南郷から受けた“節制”の刑は、彼女が、次の舞台が決まってからずっと調律してきた感覚を狂わせてしまったのだ。

 日常生活には何の影響もない。

 凡人が同じ変動を起こしたとしても、全く気づきさえしないほどの、小さな狂い。

 仮にこのまま舞台に出たとしても、マリーは完璧に、その人物の役割を演じ切る事だろう。

 ただ、マリー本人が、その程度の――ミクロンレベルの――妥協を、自分に許さない。

 だから、本番までもう日が無いし、彼女の中ではもう、次の降板が確定してしまっていた。

 南郷のやり方は、そこまで徹底していた。

 マリーの演技に対する人知れぬ特質さえも見抜いた上で、“次の演技”さえも破壊してのけたのだ。

 もう二度と、どんな間違いがあっても、マナに危害を加えられないように。

「アイジは、下衆な手を使う奴だった」

 アダム王は、失望と、静かな怒りを込めて呟いた。

「事実、私はそれだけの事をしましたから。

 自分の手を汚さず、何の落ち度も無い女の子が強姦されるように仕向けるのは、弁解の余地もありません。

 そこまでしなければ、アインソフスクール屈指の暗君が、あのサタンに誘惑されて居ました」

「ああ、君は大馬鹿だ。

 ジムへの誘導はメッセンジャーにやらせたとしても、最初に、野獣サムソンと一対一の状況で交渉したのも君だ。

 君は、一見して自らの手を汚していないようで、最も危険な仕事を、自分でやったんだ。

 それくらい、俺にはお見通しだ」

「何も知らないで自分を賭けらベットされたマナに比べれば、最悪の覚悟をする権利があった私は幸福なものでした。

 それに、あの様子では、アイジもそれくらいは把握して居ます。

 全てを知った上で、彼は私を許さなかった」

「信じられない事だらけだ。

 君とアイジの馬鹿さ加減も、君がこうも簡単に敗れたという事実も」

 KINGとして、唯一対等と位置付けても良いと思えた相手。

 それが、女帝マリー・シーグローヴだった。

 彼女が自分以外の誰かに膝を折る姿など、アダム王には想像もできなかった。

 あるいは、想像したくなかったのかもしれないが。

「私、意外と苦学生なのですよ。

 このスクールに入れたのは、多少、巡り合わせに恵まれたからに過ぎません。

 弟と母と三人、身を寄せ合って生きて来て……シングルマザーの母は死に物狂いで、私を育ててくれた。

 例えアイジの言った事がブラフであっても……彼女の命を秤に掛ける選択等、出来はしません」

「初耳だ。君はいつも、情報を小出しにする」

「これを説明する、戦略的意味合いが今、初めて生じたものですから」

「依然、君にとっての俺は他人か」

「ええ。貴方は強いから」

「複雑な誉め言葉だ」

「だから私は、サイコシルバーの件から手を引きます。

 それどころか、マナを守る為には貴方であっても始末しなければならない」

 アダム王は、その広い体躯を転回。

 女帝に背を向けた。

「俺に弓を引く力が、その時の君に残っていればの話だがな。

 君が次の舞台を降りるとなれば、間違いなく、あの成りたがりワナビーがしゃしゃり出るはずだ」

 ワナビー。

 表向きは、ジョックやクイーンビーの取り巻きサイドキックスだが、隙があらば自分が王位に就こうと、成り上がりを目論む者達の事だ。

 時に、クーデターを起こしてでも。

「貴方こそ、再来週は“ホームカミング”だと言う事をお忘れ無く。

 “あの二人”なら、今や部外者と言っても、必ずサイコシルバーの件を嗅ぎ付ける筈です。

 私が敗れた事を理由に、興味を持たずには居られない」

 ホームカミング。

 アメリカの学校において、秋学期に、卒業したOBを迎えて行われる祭典の事。

 女帝マリーが再来週、出演する舞台も、その為のものだったのだ。

 アダム王はただ、ふん、と鼻を鳴らした。

「過去の亡霊どもが。

 奴らは気に食わん。

 だから、俺のスクールに干渉はさせん」

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