生徒会からの刺客! 不正を裁け!<後編>

 “とりあえず”と言う気持ちで、サイコシルバーは跳躍した。

 イタチのように、しなやかな所作で、ギャラリーの柵を越えた。

 所詮相手は、一般人。

 ヒトは陸棲生物である以上、立体的な運動には適していまい、と、

「聞いていた通りの、蜘蛛男だな。

 二班、奴を追え。

 ほか、包囲網を構築。

 地形に惑わされるな。水平方向だけを考えろ」

 アダム王の命令に、四人が応じた。

 彼らが二班とやらに属するのだろう。

 サイコシルバーほど身軽では無いにしても、トレーニングマシンやサンドバッグを足掛かりに、二階へと躍り出てきた。

「彼ら、パルクールの世界大会に出られる」

 あっさり上ってきた二班の男達は、前後からサイコシルバーを挟みにかかる。

 一方、一階では、大振りな円陣が完成しつつあった。

 アダム王の勅命通り、アメフト兵達は、二次元的にサイコシルバーを包囲したのだ。

 このまま一階に降りれば、たちまち囲い込まれてしまう。

 入り口には四人のアメフト兵が投入され、鉄壁の守りを築いている。

 強行突破も不可能。

 かと言って、ここで立ち止まっていても、二班の男達に捕まる。

 サイコシルバーは、跳ばざるを得なかった。

 ただし、着地はしない。

 天井に張り巡らされたはりを掴み、ぶら下がる。

 無機質な鉄の梁が、サイコシルバーには、蜘蛛の巣に見えてきた。

 この状態は、なるほど、アダムの言う蜘蛛男スパイダーマンと言う喩えも、あながち間違いでは――、

「俺の精鋭をなめるな、ヒーロー気取り」

 二班の男達もまた、臆した風なく、壁伝いに登攀とうはんを始めた。

 一息に飛び付いたサイコシルバーに比べれば地味なものの、着実に梁へと到達し、ぶら下がる。

 そのまま、捕らえた獲物に這い寄る蜘蛛のごとく、サイコシルバーへと向かう。

「驚いた。まるでヒーローだ」

 呆然と呟いて見せるが、四人の蜘蛛男が、接近の手を緩める気配は少しもない。

「だが」

 合成音声に、自信の色が射した。

 サイコシルバーは、眼下を見下ろした。

 地上三階分の高さがある。

 そこから俯瞰ふかんすると、アダム王の陣形もミニチュアめいて見える。

 そう、ここから床まで、それだけの落差があるのだ。

 いかにアメフト部の精鋭であろうと、生身で飛び降りられるものではない。

 ――だが、こちらにはヒーロースーツがある。

 サイコシルバーは、振り子のように勢いをつけて、梁から手を離した。

「あっ!?」

 さすがの精鋭アメフト兵も、何人かが声を上げた。

 怪我をしたいのか!

 無謀すぎる!

 だが、それ以上に。

 サイコシルバーが着地したのは、よりにもよってアダムの背後。

「KING!」

「うろたえるな。四班、ギャラリーへ、

 二班は待機!」

 アダムは、すぐ背後にサイコシルバーが立つ状況にも関わらず、少しも動じなかった。

 慌てて捕まえようとも、まして、逃げようともせずに、

 サイコシルバーなどいないかのように、指揮を執り抜いた。

 事実、サイコシルバーの目的は、アダムの身柄では無い。

 そこから跳躍し、再びギャラリーへと上ったのだ。

 天井にぶら下がる四人は、すぐには降りてこれずに前線から離脱。

 再び二階へと跳び移り、更に一階の兵力を削って……と考えていたのだが。

「袋のネズミ、か」

 現在のサイコシルバーは、二階に居る。

 一階では依然、二次元的に彼を包囲するアダムの軍勢。

 二階では、四人の男が彼に向かって突撃している。

 天井の四人、ただ待機するだけではなく、四方を陣取り、サイコシルバーがどこにぶら下がろうと囲めるようにしていた。

「さすがの俺も若干は驚いたが……負傷覚悟で飛び降りるかもしれない、くらいの予測は、頭の隅に置いていた」

 仮にもう一度飛び降りた所で、奇襲は成功すまい。

 一階の円陣は、先程よりも内側に縮まっている。

 着地の瞬間、今度こそ捕まるのは目に見えている。

 円陣の外周に飛び降りたとしても、サイコシルバーから最も近い数名が本隊から分離、たちまち彼を包囲してしまいかねない。

 あの統率力だ。そんな出鱈目も大いに有り得る。

 現状。

 サイコシルバーは、卵の殻に包み込まれるように、前後左右上下すべてを囲まれているのだ。

 詰んだ。

 今の彼にはもう、その言葉しかない。

「貴方、生まれてくる時代を間違えていませんか」

「俺はこの時代、この国、この地域にアダム・ダフィとして生まれた。

 それを間違いとするなら、俺に対するこの上ない侮辱だ」

「そんな意図は毛頭ありませんが、気に障ったのなら謝罪します」

 サイコシルバーの負け惜しみをいつまでも立ち止まって聞いてくれるはずもなく。

 いよいよ、二階の細道ギャラリーに居たアメフト兵が、迫ってきていた。

「結構時間を稼いだけど、もう良いかな?」

 サイコシルバーが、呟いた。

【まだだ。まだ、半分と言ったところだ】

「そんな。もう、絶体絶命なのだが」

【ヒーローのピンチが最高潮になった時、助けが来る。

 それは、テレビやコミックの中だけの話さ、相棒】

 無慈悲な文字列が、サイコシルバーの目に浮かんだ。

「諦めたのか」

 アメフト兵の手がサイコシルバーに届くまで、あと一〇秒とない。

【いや、大事な事を思い出したんだ。

 時間さえ稼げば君の勝利だという、前提条件を】

「何だって?」

【天井だ。仮にあそこで捕まったとして、何の問題がある?】

 相棒の文章を即時、消化したサイコシルバーは、無言で跳んだ。

 先ほどと同じように、梁につかまってぶら下がる。

「悪あがきか」

 すでにぶら下がっていた二班の男達が、今度こそ捕獲した獲物を喰らわんと殺到する。

 さらに、今しがたギャラリーでサイコシルバーを取り逃した四人も、新たに天井にぶら下がる。

 もう、飛び降りて撒くという手も通じない。

 そして、そこから微動だにできないまま。

 サイコシルバーは、ついに、八人の蜘蛛男に、捕まった。

「チェックメイトだ」

 蜘蛛男の一人が、冷徹に告げる。

「それで?」

 サイコシルバーもまた、冷徹に応じた。

 その瞬間、アメフト部員達も気づいた。

 ここから、どうすれば良いのか、と。

 ぶら下がっている男から、どうやってスーツを剝ぎ取れば良いのか?

「それがどうした。握力が、いつまでも保つものか」

 それでもなお、KINGは勝利の青写真を捨てていない。

 だが。

 彼は、ヒーロースーツの性能を完全に知らない。

 サイコシルバーは、このまま、あと半日はぶら下がっていられる。

 最初から、時間切れになるまでここでぶら下がっていればよかったのだ。




 タイムオーバー。

 ぶら下がり続けるサイコシルバーの眼下で、新たな人間がジムに入ってきた。

「全員直ちに活動を止め、そこへ整列せよ」

 第三の入場者であるオイゲン・ブロスフェルト教諭が、静かに、しかしジム全体に行き渡る声で命じる。

「……手を打ったって、この事か」

【援軍が期待できる時は、徹底防戦。籠城戦の基本だ】

「よく、口説けたな」

 サイコシルバーが、あっさりと梁から手を離し、地上へ降りた。

 アダム王は、先の教諭の命など意に介した風もなく、

「捕らえろ」

 兵に命じた。

 兵もまた、教諭を気にしながらも、KINGの命令に疑問を持たずに従う。

 サイコシルバーは、たちまち、熊のような男達に囲い込まれてしまった。

「やめてください! 彼は――」

 マナが、喉を裂くような叫びで乞うが、彼女を護るアメフト兵によって取り押さえられる。

「私は、待ちたまえと言った。

 アダム・ダフィ、以下、アメリカンフットボールの部員よ」

 ブロスフェルト教諭が、重ねて告げる。

 あえて彼らの所属する部を口にした意図は、王にもわかった。

 だが。

 ――だからどうした。

 アダムのその思考は、サイコシルバーでなくとも、場に居る全員が理解していた。

「KINGは、脅しに屈しない」

 例え、ここに来たのが学長であっても、アダムは態度を変えなかっただろう。

「その男の正体を暴く必要がある」

「君にはその権限が無い」

「アメフト部のメンバーが、奴のリンチを受けた」

「生徒会長としても、権限外だ」

「では、教師は何をしてくれる?

 その男が、あんなかぶり物をしている以上、不審者には違いない」

「君の知る所では無い」

「不審者を放置して、生徒の言う事には耳を貸さない。

 教師は、不審者の味方か」

「彼は、我が校の雇った役者だ。

 月末の“ホームカミング”(OB歓迎パーティ)での催し物で、協力頂く。

 サムソンコーチと彼は、その打ち合わせをして居たのだ」

 アダムは、あからさまに肩を竦めて見せた。

「俺達は、子供だましの対象年齢外だ。

 それが、このスクールの教師のやり方か」

「私の言う事は真実だ」

【ホームカミングか。将来的に余計な仕事が増えた】

 相棒が、のんきな文面を寄越してくる。

 それを知るよしもなく、ブロスフェルト教諭は、マナへと目を向けた。

 それはマナを見たと言うよりは、マナの居る方向へ首を向けた、と言う方が正確な、無感情な動作だった。

「あちらの乾君は、どう言う事だ」

「そこのバスケ部コーチが彼女に対して狼藉を働こうとしたので、俺達が、奴の思い通りにならないよう、保護した。

 アンタら教師は、いつも肝心な時に肝心な人間を守らない。

 だから、俺がやる」

 アダム王の熱意もまるで無視して、ブロスフェルト教諭の口唇は滑らかに動く。

「私から見れば、君達が力任せに拘束して居る様に思えるが」

「……、…………」

 珍しく、アダムは反論出来なかった。

 言い掛かりだ、と返せばそれで済むはずなのに。

 それに、彼らアメフト部が、サムソンから――そして、得体の知れないサイコシルバーから、マナを護ろうとしたのは真実なのだ。

「君の言が正しいとして」

 ブロスフェルト教諭の声には、抑揚がほとんど無い。

 日頃の、授業と何らかわりない、淡々とした口ぶり。

「敵を暴く事に執心し、目の前で傷付いた生徒の事は二の次。

 それが君の、生徒会長としての矜持か」

 アダムは、何も返せない。

 ただ、マナの方を見つめている。

 ……。

 ……、…………。

 ――相変わらず、嫌な感触を覚える教師だ。

 職員にさえも膝を折らないアダム王だが、このマシーン然とした社会科教師に対しては、幾らかやりにくさを感じていた。

「……すみません、わたしは、自分で転びました。

 この場では、何もありませんでした」

 KINGにとっては駄目押しのように、マナが口を挟んだ。

 マナが、どう見ても無理のある偽証をした。

 この上、彼女の不正を暴く事は、造作もない。

 アダムは、生徒全ての頂点に居るのだから。

「……、…………彼女を、医務室へ」

 長い溜めの後、努めて淡々と、アダムは命じた。

「ごめんなさい……ありがとうございます」

 マナが、心底申し訳なさそうに言った。

 KINGが、自分の為に全力で動いてくれた事は、事実なのだ。

 サイコシルバーの為とは言え、それを裏切ってしまった。

 その事に、マナの思考は自己嫌悪で満たされた。

「丁重にエスコートしろ」

 アダムは、それだけを告げて、配下やマナ共々ジムを出て行った。

 サイコシルバーは、それをしばし、注視していた。

 そして、あの軍勢の足音が去ると、さすがに安堵の息を漏らした。

「ヒーローが、人前で溜め息を吐くべきでは無い」

 ブロスフェルト教諭が、冷たく円熟した声で言う。

「貴方は、敵なのか、味方なのか」

 つい、サイコシルバーは、正直な気持ちを吐露してしまう。

 彼はサイコシルバーが暴かれる事を防いだ。

 マナを助ける為ならいざ知らず、それ以上、サイコシルバーを助ける筋合いは、どこにも無いはずだ。

「私が味方をするのは、正義に対してのみ」

 授業においては簡潔をモットーとする彼が、珍しく、不明瞭な言い回しをする。

 そして、サイコシルバーにも、わかっていた。

 この男は、敵でも味方でもない。

 そして、どちらにも転びうる相手だと。

 ブロスフェルト教諭の身体からは、それ以上の情報が発信されていない。

「息をつくには早い。

 未だ、使命は残って居よう」

 ブロスフェルト教諭は、別れの挨拶もなく、それだけを言って去って行った。

「そうだった」

 全く血の通わない合成音声で言うと、サイコシルバーは、

「ひっ!?」

 どさくさに、ブロスフェルト教諭と共に去ろうとしたサムソンの肩を掴んだ。

「お、俺、俺はっ、ここでは何もしてない事にっ……! なったんだよなぁ……?」

 最前まで、自分の所業を悔いていたような思考を発散しておきながら。

 いざ、窮地に陥るとこの態度だ。

「あの女が言ったんだ!」

「ああ、可哀想に」

 あれだけの事をしておいて、

 保身の為なら、マナの、断腸の想いさえも利用するなんて。

 そこまで堕落していたなんて、

「貴方は本当に可哀想だ」

 もう先ほどのように、怒りに身を任せるような事をしてはならない。

 サイコシルバーは、自省した。

 被害者がマナだったからと言って、ヒーローが他人に殺意を抱くなど、あってはならない。

 罪を憎んで人を憎まず。

 マナから、アダム王から、ブロスフェルト教諭から、

 今日は大切な事を教わった気がした。

 だから、

「俺が責任をもって、貴方を救ってみせます」

 サムソンの肩をがっちりと掴み、連れ立つ。

「ぁ、ぃ、い、いっ……。

 いやだぁあァアあぁあァ!?」

 悲痛な叫びだ。

 ――きっとこの叫びは、己が中の邪悪に苛まれる、痛みの叫びに違いない。

 ――是が非でも、解き放ってあげなければ。




『サイコシルバー エンディングテーマ』

 鏡を見ると 君を思い出す

 自分は君で 君は自分

 違う大地で 生まれたのに

 僕らはすでに ひとりでふたりだ

 苦しみも 楽しみも

 二人のものとして――感じた

 君は僕の 僕は君の半身

 そう信じて 疑わず生きる

 この先に 何があろうとも

 その慟哭さえも 僕は 愛する




 真っ暗闇な中。

 もう何回、何百回、この曲を聴いただろう。

 今が何日か、昼か夜かもわからない。

 コンラッド・サムソンは、今や、己の肉体が本当に存在するかと言う感覚すら失っていた。

 彼は、石のひつぎに閉じ込められていた。

 食料は何日分かあるし、介護用と思われる排泄機械のお陰で、トイレには困らない。

 そして、唯一許された娯楽がある。

 この、iPodに一曲だけ入っている、サイコシルバーのテーマソングを、リピートで聴き続ける事だけだ。

 棺には、充電の為のコンセントも配線されていた。

 万全の環境だ。

 ほとんど身動きもできないし、何も見えないし、何も聞こえない。

 ただただ、コンラッド・サムソンという意識(と、サイコシルバーのテーマソング)がある事以外の感覚を全て剥奪された。

 その状況は、瞑想のようでもあった。

 最初の半日には、希望があった。

 こんな事をして、誰も気づかないはずがない。

 今、彼が幽閉されている石棺が置かれていたのは、スクール南棟・改築中の礼拝堂だった。

 こんな巨大な棺が突然湧いて出てくれば、工事の作業者は不審に思うはず。

 しかし……あれから一度として、工事の音や振動など、聞こえてこなかった。

 サムソンがここに閉じ込められて以降、一度も改築工事が行われていないのだ。

 どこか、どこかで歯止めはあるだろう。

 そう信じられたのが……確か、二日目くらいだったか。

 時間の感覚が完全に鈍麻したサムソンに、正確な事を思い出させるのは酷と言うものだ。

 女と“出来ない”事による飢餓感が、限界を超えたあたりだった。

 本気で死が見えたころだった。

 だが、サムソンは依然生きた。

 彼自身にとって、忌々しい事に!

 泣けど叫べど、その声は、棺の蓋に飲み込まれて消えた。

 サイコシルバーが置いて行った、非常用クラッカーとミネラルウォーターをちびちび消化しながら、サムソンはただただ待った。

 “解放”される日がいつかはわからない。

 そんな日は来ないと、思いたくはない。

 だから、食料は大事に大事に、一日に最低限度と思われる量だけを摂った。

 彼自身にも、自分がこれだけ生き汚い人間だったのは意外なほどだった。

 する事が無いので、サイコシルバーが言っていた言葉を何となく思い返していた。

 あのヒーロー曰く、


 貴方を苦しめているのは、いわば煩悩だ。

 それを取り除くには、かのブッダがカギとなる。

 つまり、彼の瞑想にならう事だ。

 サムソンコーチ、貴方を苦しめている煩悩は、ブッダの禅定を妨げんとした悪魔マーラのそれと同じ。

 思考の雑音こそが、貴方の人格にとって最も無駄なもの。

 つまり、貴方に必要なのは瞑想なのです。

 この棺の中で、俗世とのあらゆる関わりを絶ち、己が異常性欲を凌駕するのです。

 ああでも、全く娯楽から断絶されるのは、さすがに可哀想なので、iPodだけおいてきますね。

 それで、サイコシルバーは、棺の蓋を閉じたのだ。

 今にして思えば、あんな一〇〇キロ以上はありそうな、分厚い蓋を素手でスライドできるような、

 そんな超人と敵対した時点で、命運が尽きていた気がした。


 意外と耐えられるものだと、理解した。

 と言うより、あらゆる意味で“死”を意識し、越えてしまった今、彼は、自分の異常性欲がどうのとか、どうでもよくなってきた。

 生きて、日の当たる場所を歩けることは、何と素晴らしい事なのだろう。

 決して出られない棺に閉じ込められて、

 こんな状況に置かれて初めて、コンラッド・サムソンは、何でもない日常に感謝を覚えた。

 もはや彼が望む事はただ一つ。

 誰に賞賛されなくてもいい。

 金なんて要らない。

 まして性欲が満たされる事なんて、小さなことだ。

 ただ、太陽の光がある所を、当たり前に歩きたい。

 それだけ、それだけが叶えば、もう何もいらない。

 その渇望に気づいて、更にどれだけが経ったろう。

 クラッカーとミネラルウォーターの消費具合から考えれば、さほど時間は経っていないはずだ。

 だが、そんな事はただの理屈に過ぎない。

 コンラッド・サムソンは、もう、何十年の時を闇の中で生きてきたかのように錯覚していた。

 そして。

 その時は来た。

 ようやく、来たのだ。

 棺の蓋が、動いた。

「ぁぁ……!」

 サムソンには、己が輝かしい未来以外に、何も想像できなかった。


 光あれ。

 サイコシルバーは、サムソンの為に、そう唱えられずにはいられなかった。

 確かに彼は、己が本性の為に道を誤った。

 その為に、マナを、身勝手にも餌食にしようとした。

 それでも、開けた棺から彼が出てきた時、

 サイコシルバーは、彼の数奇な苦行に思いを馳せた。

 一体……一体、どれほど過酷な試練を与えられれば……人間はこれだけ変質するのだろうか。

 その哀れな姿に、さしものサイコシルバーも、目頭を覆いたくなった。

 体臭が酸化したような匂いを放ち、シャツは垢で全く変色し。

 頬はこけて、眼窩がんかは落ちくぼみ……。

 髪は襤褸らんるのように乱れ、フケをまき散らし。

「ぁー……ぁー、あー……」

 それが棺から起き上がって天を仰ぐのだから、どうひいき目にみてもゾンビにしか思えない。

 だが、彼のこの姿を見よ!

 自分の情欲を全くコントロールできず、少女たちに取り返しのつかない傷を刻みつけてもなお、自分の保身にしか関心を抱かなかった男が、

 この世の全てを、アガペーの愛で受け入れんとしているではないか。

 “死”を経ることで、サムソンは、善き魂に生まれ変わったのだ。

 彼が棺から這い出す姿はまさしく、タロットカードにおける“審判”そのもの。

 復活と発展を象徴するアルカナ。

 同時に、“再起不能”を暗示するアルカナでもある。

 哀れなサムソンコーチが、そんな、逆位置の未来を掴まずに済んだ事にサイコシルバーは心から安堵した。、

 コンラッド・サムソンはまさに、審判の正位置をその手につかんだのだ。

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