いじめを阻止せよ!<中編>

「Noooooooooooooooooooooooooo!?

 Wait! Wait! No! Noooooooooooooooo!」

 まだ灰色がかった早朝の青空に、男の野太い絶叫が轟いた。

 マンハッタン五番街の天空を、サイコシルバーは跳ぶ。

 ビルからビルへ。

 ベランダや、わずかなでっぱりを足掛かりに、次々飛び移る。

 やせっぱちをいじめていた、あのアメフト部員を、脇に抱えながら。

 時速五〇キロ。

 高度は、正確には測りかねるが、概ね市街地を見下ろせる高さだ。

 洗練されたもの、歴史を感じるもの、太いもの、細いもの……様々な外観のビルが林立しているマンハッタンだが。

 この高みから何となしに眺めていると、レゴブロックのように矮小で画一的な景色に見えてくるから不思議だと、サイコシルバーは思った。

「Nooo! Wait! Wait! Please!」

 サイコシルバーの腕の中、アメフト部員は、ただただ原始的な単語を叫び散らしている。

 人間は極限状態にさらされた時、培ってきた語彙ごいのほとんどを失う。

 そして、幼児のように、ひたすら乞う事しかできなくなるのだ。

 おおっと、足を踏み外しそうになった。

 サイコシルバーが、屋上の縁で大きく体を転倒させかけると、

「Nooooooooooo!」

 アメフト部員は、この世の終わりを迎えたかのように、より一層魂の叫びを引き絞った。

 死を突き付けられる事は、生を見つめなおすきっかけとなる。

 安穏と生きてきた日常。

 平穏をつまらないとこぼし、倦怠感を覚えながら生き続ける日々が、本当はどれだけ素晴らしいものだったのか。

 それを知れた彼は、まさしく幸福だろう。

 サイコシルバーは、本気でそう考えている。

「Noooooo!」

 二人のすぐ脇を、くすんだコンクリートの巨壁がよぎる。

 新幹線とすれ違った時のような、圧倒的迫力だった。

 そして、落差五〇メートルの屋上に着地。

 そして、また跳躍。

「どうする、ビリー」

 サイコシルバーが、メットの下で小さく呟いた。

 すると彼の視界に、突如文字が浮かび上がった。

【エンパイア・ステート・ビルにしよう】

 これは、サイコシルバーのメットに内蔵された、インスタントメッセージ機能である。

 サイコシルバーには“相棒サイドキック”が居る。

 彼は、スクールの同級生でもある。

 その相棒は、遠く、アインソフ・スクールからサイコシルバーの視界をモニタし、助言を文字で送っているのだ。

 非力ながらもヒーローを助けるサイドキックの存在は、アメリカンヒーローには欠かせないものなのだ。

 あえて連絡手段を音声通話にしないのは、サイコシルバーの趣味だ。

 彼の速読力であれば、ほぼ遅滞なく、相棒の助言を消化できる。

 イントネーション等の他要素を消化しなければならない口頭よりも、文字の方が簡潔だ。

「オーケイ、やるならとことん、だな」

 天を穿つ、巨大注射針のようなビルは、もう既に見えていた。

 一〇〇メートル超の高層ビルですら、エンパイア・ステート・ビルと比べれば短いものだ。

 ひときわ強く軸足を踏みしめ、サイコシルバーは高らかに飛び上がった。

 エンパイア・ステート・ビルの壁面へ、真っすぐに突っ込む。

「Wait! Wait! Wait! Please!」

 サイコシルバーは、見事、突き出た壁に足をかけた。

 そこを足掛かりとして、真上に跳躍。

 重力を突き破って真っすぐ飛び上がる感覚たるや、上方向へ落ちているようにしか感じられない。

 マジックキングダムのアトラクション・タワーオブテラーや、スプラッシュマウンテンの滝壺落下ですら、ここまで出鱈目な勢いではない。

 鼻先で、窓と壁が、滝のように落ちてゆく。

 そんな所業を、サイコシルバーは淡々とこなしてゆく。

 上へ。

 上へ。

 上へ。

 空へと。

 屋上に着地。

 地上一〇二階、高度三八一メートル。

 強化されたヒーローですら、平衡感覚を失いそうになり、めまいのする光景だ。

 向こうに見えるハドソン川は、あまりに緩やかに流れている。

 あそこは、時が止まっているのではないか、とサイコシルバーは錯覚しそうになる。

 アメフト部員は、あそこに浮かぶヨットの、誰一人として自分たちに気づいてくれない事を呪った。

 サイコシルバーは、この上さらに空を見上げた。

【やるならとことん、だ。電波塔の先端がいい】

「オーケイ!」

 サイコシルバーは、再び跳ぶ。

「!?」

 アメフト部員の叫びは、もはや声にもならなかった。

 あまりの高さに目を回しながらも、この“強制ニンジャ体験”は終わったものと思っていた。

 僅かに安堵がさしていたのだ。

 それさえも裏切られ、更に天空へとけん引されていく。

 希望があって、絶望はある。

 絶望があって、希望はある。

 突如拉致され、このマンハッタンを振り回される絶望。

 アメフト部員の心はわずかにマヒし、恐怖に適応しつつあったのだ。

 そこへ、これで終わったのか? という、なけなしの希望が、心のマヒを解いた。

 今度こそ、アメフト部員の心は死への恐怖に塗り固められた。

「死にたくない、死にたくない! 死にたくない!」

 それは、“生きたい”という言葉と同義。

 生きている事は、とてもありがたい事。

「この経験は、確実に彼を変える事だろう」

【全面的に同意するよ】

 いじめっ子は、力で制圧される事の痛みを知った。

 生きている事がどれだけ素晴らしいかを、死なずして知れた。

 明日からはもう、あんな稚拙であくどい事はしないはずだ。

 一人のいじめっ子を、自分は救ったのだと、サイコシルバーは確信した。

 打ち負かす事によって、救ったのだと。

 さて、仕上げだ。

 ここが真の頂点。

 高度四四三・二メートル。

 足の踏み場も乏しい先端で、サイコシルバーはアメフト部員の体を手放した。

「Ahhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhh!?」

 頭を下に、さかさまになるようにして、放ったのだ。

 しかし、落とすわけではない。

 そんな非道な事は、考えもしない。

 ただ、足をつかめるように、持ち替えただけだ。

 かくして逆さづりとなったアメフト部員。

 次にサイコシルバーは、腰に備えた、太いワイヤーのようなものを取り外した。

 それを片手で器用に操ると、あっという間にアメフト部員の身体を塔に縛り付けてしまったのだ。

「これで良し。完成だ」

【さすがだ。仕事が早いな】

 相棒も、満足気に賞賛文を送ってくれた。

「それじゃあ、しばらくこの、稀少な眺めを堪能すると良い」

 親切に告げると、サイコシルバーは飛び降りた。

 逆さ吊りになったアメフト部員を置き去りに。

 “動”の恐怖は、もう充分堪能してもらった。

 次は、あの高みから微動だにできない“静”の恐怖を感じてもらう。

 風にあおられて、いつ、ワイヤーが外れてしまうかもしれない恐怖を。

 頭上で、野太い絶叫がほとばしる。

 ところで、サイコシルバーは思った。

「この状況、何かに似ているような?

 エンパイア・ステート・ビルに、屈強な男がはりつけ」

 何か、思い出せそうで思い出せない。

 もどかしい気持ちが、サイコシルバーを見舞う。

【キングコングかな? 屈強な存在が、エンパイア・ステート・ビルの頂点にしがみついて野生をほとばしらせる。

 とてもそっくりだと思わないかい】

 相棒のメッセージが表示される。

 しかし。

「確かにその通りだけど……俺が似てると思ったのはもっと抽象的な――」

 言いかけて、サイコシルバーは気づいた。

「ああ、わかった。

 タロットカードの、“吊られた男”だ。

 正位置の意味は、忍耐・試練・努力、そして理性的な抑制。

 逆位置の意味としては“欲望に負ける事”というのもあるから、まさしく彼にぴったりだ」

【なるほど、言われてみれば確かにそうだ】

 自分の半身とも言える相棒が、やはり今度も全面的に同意してくれた。

 これは良い。

 今後の仕事は、タロットカードをモチーフとして仕上げてみるのも一興だと、サイコシルバーは思った。

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