第1話 いじめを阻止せよ!<前編>
二〇〇三年。
アメリカ合衆国ニューヨーク州、某所。
私立アインソフスクール・学生寮。
「愛次くん。いい加減、起きて。もう時間無いよ」
質素なベッドで眠る南郷を、学生服姿の少女が揺さぶる。
「……、ああ、マナさん、おはようございます」
その穏和な顔だけを向けて、南郷は、幼なじみの少女、
中学の頃の幼さが抜けきっていないような、柔らかな顔立ち。
そんな顔立ちで、南郷の顔を覗き込む少女。
こげ茶に染めたセミロングヘア―が、南郷の鼻先や頬をくすぐる。
この異国の地、日本人然とした童顔には癒される。
南郷は、心地よい眠気の中で、ぼんやりと思った。
「おはようございます、とか言いながら起きる素振りを見せていないじゃない!
ほら、さっさと、布団から出る!」
マナは、南郷を包んでいた薄手の生地を容赦なくひっぺがした。
早朝の
それを見届けたマナは、呆れた溜め息をひとつ。
「高校に進学してから、寝坊癖がひどくなってない?」
「日本にいた時は、飼い猫のケンタとケンジが顔にパンチして起こしてくれたんですが……今は、マナさんだけが頼りです」
「わたしの存在は、ペットのネコと同列ってこと」
「一寸の虫にも五分の魂。生き物の命に貴賤はありませんよ。
俺は、ケンタもケンジもマナさんも、大好きです」
「もうご託は良いから、ほら、着替えて歯を磨いて」
「あっ、今日の授業内容、まだ確認してません」
「ぅ、えっ……!? うそでしょ、信じられない!」
マナは、ついに頭を抱えて、部屋を右往左往した。
ここ、アインソフ・スクールの授業では、
まず、各教科の教師が、二日後の授業のテーマを受講生徒にメール送信する。
それを受け取った生徒は、二日後の授業に備えて考えをまとめるのだ。
ディスカッションへの貢献度によって評価が下され、その積み重ねが学業成績となる。
つまり。
南郷は、二日前に把握すべき事を何も把握していないまま、授業に参加しなければならないのだ。
「すいません、今、
「今さら見ても無駄だから! 君の速読力をもってしても!」
マナは、中腰になってウィンドウズXPを立ち上げだした南郷の襟首を引きつかむと、強引に引き止めた。
「愛次くんの今日の一コマ目は、わたしと同じでブロスフェルト先生の社会科でしょ?
去年の大統領がした一般教書演説でのaxis of evil――“悪の枢軸”発言がテーマだから!
さすがにあの時、愛次くんにも、何か思う所はあったでしょ。
ブロスフェルト先生にしてはありきたりなテーマで、命拾いできてよかったね! ほら、わかったら準備と並行して、考えをまとめて!」
「ああ、ありがとう。だから俺は、マナさんが大好きなんです。ケンタとケンジと同じくらい」
「それはどうも! 無駄口叩く余裕があるなら、少しでもクローゼットに近づく努力をして!
全く、この人と言い“ビリー”と言い、何でF評価をひとつももらわないのか、不思議でしかたがない」
F評価――つまり、内申点で最低評価を二回もらった生徒には、退学勧告が下される。
可愛げのある悪態をつきながら、自分の遅刻未遂に付き合ってくれる少女の背中を、南郷は横目で見やる。
――やっぱり、彼女、俺の事が好きなようだ。
南郷は、どこか諦めたような面持ちで、そう考えた。
常人であれば、自惚れでしかないこの思考。
しかし、南郷愛次のそれは、決して勘違いからくるものではない。
彼は、他人の発する声や挙動、言葉の文脈から、その真意を一〇〇パーセントに近い精度で分析する能力を持っている。
いわば、疑似的に他人の心を読む事が出来て“しまう”のである。
――結婚や、それに伴う周囲環境の変化、夫婦としての振る舞いまで視野に入れた現実的な“愛情”には、まだ達していない。
――漠然と、俺を伴侶・つがいとしたいという、中度の欲求による恋慕。
――この思考が今後、どう転ぶかはまだ読めないけど……。
嬉しくはある。
小学生の頃、祖国から遠く離れたアメリカで、偶然にも知り合えた日本人同士。
言葉もわからない、先の見えない心細さの中、隣の家に越して来た南郷愛次の存在は、マナにとっては出来過ぎるほどの幸福であった。
自分の存在によって誰かが救われたという事実は嬉しくもあるし、救われたのは南郷も同じである。
それに彼もまた、年頃の男だ。
同年代の、かわいらしい女子に好意を持たれて、舞い上がる気持ちが無いと言えば、嘘だ。
だが、それ故に。
――やはり、なんかこう、つまらない人生だ。
他人の心が読める、という能力は、誰もが羨む事に違いない。
だが、いざその立場に立たされてみると。
先に何もかもをネタバレされてしまう人生に、彼は
南郷の部屋は、地上七階の高みにあった。
だから廊下に出てすぐ、窓からこの学園の敷地を
鮮やかな新緑に彩られた平地に、赤レンガ造りの威容がたたずんでいる。
その巨大な学舎は、レンガという前時代的な素材で築かれているにも関わらず、真新しい。
外壁の角はことごとくが丸みを帯びており、洗練された黒塗りの窓枠が、高級ホテルのような貫録を与えているからだろうか。
一つ一つの窓は大きく、特に一階は、壁よりも窓の方が大半の面積を占めており、開放的な印象を与えている。
カフェテリアでは、大勢の生徒と学校関係者が朝食を求め、摂り、去ってゆく流れを一望する事が出来た。
広大な敷地の中心を、巨大な学舎が陣取る。
そしてその周囲を、体育館や講堂と言った関連施設が、衛星のごとく点在している。
これが、アインソフ・スクールの全体図である。
これ以上足を止めて景観に浸っていては、マナの叱責を免れない。
南郷は、されるがまま、彼女に手を引かれて連行されてゆく。
寮から出ると、肌寒さが容赦なく身を刺した。
また、南郷の耳には、非常に雑多な喧騒が轟いていた。
各種運動部が、朝練によって放つ掛け声である。
特に、アメフト部と野球部から放たれる熱気は尋常ではない。
こんな巨城じみた学舎の周囲を、何周も何周も何周も何周も走り回っているのだ。
もはや彼らに“寒い”という感覚は、微塵もあるまい。
「いやはや、完膚なきまでに健全ですよねぇ。
スポーツは素晴らしい」
わざとらしく身震いしながら、南郷はとぼけた事をのたまう。
「そう思うのなら、愛次くんも部活動やったら?」
「寒いから嫌です」
「予想を裏切らない回答、ありがとう」
そんな、脳を停滞させたようなやり取りをしながら、南郷は引っ張られてゆく。
が。
「……」
“あるもの”を目にした途端、彼は突然足を止めた。
「ちょっと? 今の君に、足を止める権利なんて――」
いつもの軽口を放とうとしたマナだが、
南郷の顔を見た途端、
口を噤んだ。
そして、つかんでいた手を、そっと放す。
にわかに真剣味を帯びた、南郷の顔。
彼がこんな様子を見せた時、決して邪魔をしてはいけない。
マナは、それだけは、誰よりも理解していた。
どうしたの? と聞くまでもない。
南郷の見ている方を自分も見れば、おのずとわかると、確信している。
南郷の視線を追った先には、
「おい、ペースが落ちているぞ!」
「そんなんじゃ、蟻んこはおろか、プラナリアにも勝てやしねえ!」
「馬とファックするくらいの気概を見せろ!」
アメフト部の男達六人がその広い肩幅を並べて、誰かに野次を飛ばしている。
彼らの視線の先では……ひどくやせっぱちな男子生徒が、腕立て伏せをしていた。
いや、もはやそれは、腕立て伏せとは言えないものだった。
どうにか体を支え、上下運動をするのがやっとという、死に体の様相だ。
「もう、もう、無理だよ……」
その声は虚ろで、とても生気が感じられない。
「甘ったれんじゃねえ! 無理なんて言葉は、本当に無理な状況に立たされてから言いな!」
「ほら、あとたったの十回だ。あと十回やったら、ノルマ達成って事にしてやる」
一、二、三、四、五。
やせっぱちな男子生徒は、くじけかけた。
しかし、あと五回だ。
あと五回、腕立て伏せをすれば、解放される。
六、七、八……。
「人生の試練に、上限は無い」
そう述べたアメフト部の一人が、やせっぱちな男子生徒の背中に足を乗せた。
「ぅ……」
「あと二回だ。ほら、あとたったの二回、やってみろよ」
体重八〇キロ以上はあるアメフト選手が、右足に体重をかける。
やせっぱちな男子生徒に、それをはねのけるだけの筋力はない。
「ひどい……! あんなの、無意味なしごきじゃない!」
南郷と共に事の成り行きを見ていたマナが、義憤に肩を震わせる。
けれど。
――わたしじゃ、何もできない……。
聡明な彼女は、残酷なまでにそれを思い知っていた。
この国では、学生間に絶対的な身分差が存在する。
いわゆる“スクールカースト”というものだ。
大抵は運動部のスターを頂点として、その取り巻きが、オタク・がり勉系の生徒を支配する構図である。
その構図を否とするならば、学園の全生徒に一人で敵対するも同じ。
どれだけ不条理な横暴だろうと、権威があれば通せてしまう。
権威が無ければ、甘んじて受けるしかない。
弱肉強食の、ヒエラルキー。
「きゅ、九……」
アメフト選手の脚力にあらがい、どうにか九回目の腕立て伏せを達成する、やせっぱち。
あと、一回。
「ねえ、愛次くん……」
マナは、傍らの南郷を縋るように見上げる。
こんな下らない階級支配を、外側からぶち壊し得る人間が居るとすれば。
南郷しかいない。
マナは、そう信じて疑わない。
「十……!」
ついに、やせっぱちな男子生徒は、アメフト部員に課せられたノルマを達成した。
「十回、確かに、やったよ……」
その声は、消え入りそうなほどに弱々しい。
まだ、一日は始まったばかりだというのに。
「よーしよしよし、よく頑張ったな。
リーダー格と思われる男が、不自然なほど甘ったるい態度で、やせっぱちをねぎらう。
そして。
「それじゃあ、今週のコーチ料三〇ドル、払いな」
「……」
がっしりと肩をつかまれたやせっぱちは、悲しげにうつむくしかない。
「今、今は、も、持ち合わせが無……」
「
「っ……!」
「なんだって、ひどい爆発音がして聞こえなかったが」
「すまんなぁ! こいつ、最近童心に帰り気味で、擬音を叫ぶのが止められないんだよ。
だから、コーチ料払えよ」
――スクールカーストとやらで言えば
南郷は、目の前の光景を、モルモットを見るような目で見据えていた。
――さて、これを黙らせるとなると……。
南郷は一考し、
――俺の器量では、不可能。
あっさりと結論付けた。
アメリカ的スクールカーストで言えば、南郷愛次の位階は“プレップス”であるらしい。
体育会系上位の世界においての、文科系の最上位と言ったところらしい。
もやし野郎の中でマシな方。
あるいは、金持ちのボンボン。
南郷の、学校の中での評価などその程度だ。
と、なれば。
「おや? あそこに居るのはもしかして……。
おーい、アグネスさーん!」
南郷が、光明を得たりと思って声をかけた女生徒。
アグネス・キンバリー。
長い金髪をたなびかせた、スレンダー美人。
彼女は、三人の取り巻きを連れ、凛とした所作で学舎に向かっていた。
当然、ただものではないが。
「ひッ!?」
南郷の顔を認識した途端、恐怖に顔をゆがめた挙句、逃げ去ってしまった。
「え? アグネス? どうしたの!? ちょっと待って!」
取り巻きが、慌てて彼女を追いかける。
「ああっ! 待ってアグネスさん、話くらいは聞いて――」
「い、嫌、来ないで! この、人でなし!
慌てて引き止めようとする南郷だが、その態度こそが逆効果であった。
アグネスは、このアインソフスクールでも、かなりの有力者である。
何といっても、女生徒のトップたる、
まさに、公爵クラスと言っても過言ではない。
彼女が一声かければ、アメフト部二軍程度の雑兵を黙らせることは容易であった。
だが。
そのチャンスを潰したのは、ほかならぬ、南郷自身であった。
去年、アグネスはマナをいじめていた。
だから南郷は、アグネスが二度とそんな悪事を働かないよう介入し、彼女を“諭し”たのだ。
それで、どうも、
アグネスは、予想以上に南郷を畏怖するに至ったらしい。
「まいったな。今気づきましたが、彼女はかなり繊細で脆い女性だったのですね」
彼女は本気で、南郷愛次を、
それもこれも、彼女にいじめられていたマナを救うためだったし、
マナをいじめる事で充足感を得ようとしていた、かわいそうなアグネスを救うためでもあったのだが……。
しつけ過ぎた。
一年前の事だから、その時の南郷は高一。
若気の至りがあったのも否定できない。
とにかく、味方として当て込んでいたアグネスに逃げられ、南郷は途方に暮れるしかなかった。
しかも幸か不幸か、アグネスのような有名人に罵られたことで、周囲の目が南郷に向いてしまっている。
当然、やせっぱちを
――まあ、俺に目が向けられている間は、いじめも止まるだろうから良しとしますか。
「マナさん。先に行ってください」
南郷が、静かに告げた。
マナは、
「……気を付けてね」
何一つ異論をはさまず、素直に従う。
「ありがとう」
清らかな笑みをたたえ、南郷は一言だけそう言った。
そして、例のリンチ現場へとまっすぐに歩み寄る。
「おいおい、キンバリーのお嬢様と痴話ゲンカしている猛者は、誰かと思ったが」
「アイジ・ナンゴー。二年生の、ちょっとした変わり種だ」
「カンフーできんのか? ねえ、カンフーやらせてみない? オレ、見たかったんだよ、本場のカンフー」
アメフト部の巨漢達が、口々に冷やかしながら、南郷を迎える。
「どうも、おはようございます」
間の抜けた挨拶に、アメフト部達は失笑を交わし合う。
そして、他の四人に視線を向けられた一人が、代表して南郷に胸板をつき出した。
「東洋の片田舎から、はるばるご苦労」
なるほど、彼がリーダー格か。非常にわかりやすくて助かる、と、南郷は思った。
「あいにく、アグネスの尻は、ここには無いぜ」
「彼女の
「では、俺達の尻に用があると?」
「尻だけと言わず、全身を求めたいですね。特に、あなたの」
「それで、何が言いたい?」
「今すぐ彼を解放して、二度と絡まないであげて下さい。
なぜなら、俺は理不尽な暴力が大嫌いだからです」
アメフト部達は、それぞれ肩をすくめたり、大袈裟に驚くようなジェスチャーを見せた。
リーダー格だけが、不気味なほど無表情だ。
そして、
「なあ、皆。こんな、丸裸でサバンナを歩き回るような奴が、
一年以上も食われずにいたのは、なぜだい?」
ゲラゲラと笑い合い、
足早に南郷の周囲を取り囲んだ。
大きな肉袋五つに密着されると、さすがに暑苦しい。
南郷は、それしか考えなかった。
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