エレインの休日 1/4

(2008年頃、「20世紀ウィザード異聞」完結前に書いた短編が元になっています。いちおう1952年の8月ですから時系列では本編の3章あたりのはずですが、本編のオーリとエレインとは距離感が違うし、ステファンがちょっとませてるし、いろいろぶっ壊してるので、if 世界の話だと思ってください。恋人未満のデート話を書くつもりがどうしてこうなった……)


 * * *


 夏の空は移ろいやすい。

 オーリローリ・ガルバイヤンは、明るい水色の目を窓の外に向けた。画家という職業柄か、絵になる雲の形につい見入ってしまうが、懐中時計を確かめて彼は立ち上がった。

「絵筆の後片付けを頼むよ、ステファン」

「どこかへ出かけるんですか?」

「まあね。今日は新月だからエレインの休日だし、散歩にはいい季節だ」

 彼は黒いローブと愛用の杖を手にした。

「なんだ、デートか。頑張ってね先生」

「……10歳の子どもに言われるとは思わなかったよ」

 まだ幼い弟子にアトリエを任せると、彼は長い銀髪を揺らしてローブを羽織った。


 一階ではさっきから家政婦のマーシャと守護者エレインが、何やらもめている。

「オーリ聞いてよ、マーシャったらまたあたしにスカート履けって言うのよ!」

「エレイン様には青がお似合いなんですよ。それにせめてお二人でお出かけの時くらい、身ぎれいになさいませ」

 竜人の娘、エレインは断固として首を振った。いつも狩猟神のように自在に森を駆け回っている彼女には、ひらひらして動きにくい『スカート』など、人間の多い街中に出かける時だけ渋々身に着ける仮装のようなものだ。オーリは笑いをこらえるのに苦労した。

「そのままでいいよ。別に街に出かけるんじゃなし、散歩に出るだけだから」

 エレインは『スカート』なるものから解放されて喜んだようだ。

 マーシャはため息をつき、エレインのために見立てた青いジョーゼットのスカートをまだ残念そうに見ている。

「まあ君がドレスアップした姿も見てみたい気はするけどね」

「ドレス……なに?」

「いいよ、人間のたわごとだ。さて、出かけますかレディー」

 オーリはわざとらしく腕を差し出した。


 黒々とした針葉樹の森を越えると、小さな湖を抱いた谷がある。

 竜人である彼女の故郷を思い起こさせるこの場所に、時々オーリはエレインを誘って出かける。故郷を忘れないために、とオーリは言う。

 けれどエレインには複雑な思いがある。

 かつて豊かな森の恵みに満ちていたエレインの故郷は、2年前の新月の夜に消えた。

 正確には、人間共に奪い取られた。


 竜人の魔力が消える新月の日には、どうしようもなく哀しく、消えた故郷や消えた仲間のことが思い出されてしまう。

 それを知って、わざわざオーリは遠い湖まで『飛んで』くれる。

 オーリは画家である前に魔法使いでもあった。

 彼の魔力がどれほどのものかは知らないが、二人分の瞬間移動は相当に力を消費するだろうことは予想できる。だがオーリはこともなげに『散歩』と言ってのける。


 人間の世界はいろいろと理解しがたいことばかりだが、思ったほど酷くはない。

 オーリは自分を大切にしていてくれる。マーシャは好きだし、7月に来たステファンはかわいい。

 けれど、とエレインは思う。

 ここはやはり、自分の世界ではないな、と。


「時々は思慮深い顔もするんだねえ」

 オーリが感心したように言った。

「時々? ときどきとは何よ! あたしがいつもどんな顔してるって?」

「いや、いい顔してる。ほんと、竜人は哲学的だ」

 クックッと笑いながら、オーリは肩越しに背後を指差した。

「ちょっと見せたいものがある」


 オーリが向かったのは、湖の番人の小屋だった。

「や、ボリス。景気どう?」

「……良いわけないやな」

 ボリスと呼ばれた髭づらの男は薪割りの手を止め、うさんくさそうにエレインをちらっと見た。

「近頃は人間以外にも、妙なやつらが水を穢しに来るんでな」

 熊のような身体を揺すって、ボリスは皮肉な笑いを浮かべる。オーリは肩をすくめて応じた。

「そりゃ問題だ。君の仕事も増える一方だね」

「ああ、カネにならん仕事ばかしさ……ところで、舟かい?」

「もう修理できたころかと思ってね」

 ボリスは黒髭の顎をしゃくって小屋の裏手を示した。

「出来てるぜ。勝手に乗り回すなりしてくれ。俺はもう帰るから、後は好きにすりゃいい」

「恩にきるよ、ボリス。これで飲んでくれ」

 オーリが幾許かの代価を払うと、髭づらの男は独り言のように、

「今夜は月の魔力が消える。妙な呪いを受けにゃあいいがな」

 と意味ありげに言い残して、小屋を後にした。

「やな感じ! なーにが呪いよ」

「気にしない、エレイン。いろんな人間がいるんだよ」

 軽く聞き流すふうで、オーリはエレインを促して小屋の裏手に回った。


 湖に続く小屋裏には、細い三日月型の小舟が係留されている。

「すごいだろ。革張りだよ革張り!」

 オーリは宝物を見せる子供のように目を輝かせた。

「ど、どうしたのこれ?」

「この地方の先住民が乗ってたのと同じ舟だよ。作りっぱなしで放って置かれたのを貰い受けたんで、ボリスに修理を頼んでたんだ」

「ははん、人間の道楽ってやつね」

「なに言ってる、立派な研究だ。絵の資料だよ」


 オーリはエレインを先に乗せ、舟を湖に押し出した。

「エレイン、竜人はどんな舟を作った?」

「さ、さあ。あまり覚えてない……ひゃーっ!」

 いきなりオーリが飛び乗ったので、小舟はグラグラと揺れる。

「なーにがひゃーっ、だ。泳ぎは得意だろ?」

「知らないの? 陽が落ちたら泳いじゃいけないのよ。魔物に足をひっぱられるんだから」

「竜人にも迷信があるのか」

 笑いながら、オーリは櫂をとった。

「迷信じゃなくて、先人の言い伝えなの。他にもあるんだから!」

「呪いの言葉とか? 調べたことがあるよ。ええと、カミナリに罰をくらうんだった?」

「そういうのは特別な……オーリ!」

 エレインは前を見つめて息をのんだ。

「すごい……なんて光」

 雲を従えた夕陽が山の端にかかり、今しも沈もうとしている。

 光の矢が幾筋も湖に投げられ、湖面が黄金色に染まる。

 舟はその金波の中を分け入って進んでいく。

「いいね、一度こういう中を漕いでみたかった」

 櫂を操るオーリの背で、銀髪さえも夕陽の色に光る。


 やがて夕陽がすっかり姿を隠してしまうと、湖はしんとしてしまった。

 まだ辺りは明るいが、空の色は刻々と変化してゆく。紫色の雲の端に、僅かな夕陽の名残がある。

 オーリは櫂を操るスピードをゆるめた。

 三日月型の小舟は光る波をかき分け、ゆったりと湖を進む。

 エレインは舟べりから身を乗り出して水に手を遊ばせている。

「あんまり乗り出すと危ないよ、エレイン」

 オーリは笑って櫂を止め、舟べりに引き上げた。

「漕がないの?」

「ああ。さっき一気に漕いだから、飽きた」

 そういうと、オーリは舟底に長々と寝転がって夕空を見上げた。

「これだからね、もう。舟、流されるよ」

「流されてるねぇ」

「帰れなくなったらどうするの」

「それもいいな。このままずっと流されてみようか?」

 黄金の夕陽に心地よく目を射られて、オーリは目を閉じた。

 手を伸ばせば、愛しい人に届く。

 けれど彼はこの2年間、敢えてその想いを封じ込めてきた。

 

 竜の心と人の心を合わせ持つエレインは、後ろを振り向くことを良しとしない。人間のように感傷を引きずることをせず、『今』を全てとして生きている。まるで太陽が決して後戻りすることなく空を翔るように。 

 その強さを自分も手にしたいとオーリは願い、同時に恐れてもきた。

 魔法使いの心はどこかに闇を宿しているものだ。その闇が太陽に暴かれて、弱さや醜さを晒してしまうのが恐ろしかった。だから心に閂を掛けて、エレインに対しては家族のように、親友のようにしか接してこなかった。


 けれどそんな卑屈な自分は、もう終わりにしよう。

 この夏、ステファンという幼い弟子を迎えて、オーリは自分の中のこだわりが解けてしまうことに驚いた。10歳の少年は、自分を偽ることをしない。悲しみも、怒りも、臆病心でさえもそのままに表し、泣きたいだけ泣いて、怒って、そして笑う。この率直さ。本物の『童心』。それはオーリに力を与えた。

 今日、この金色の風景の中で、自分もまたありのままの心を取り戻そう。そしてエレインに告げるのだ、余分な飾りの無い言葉で――


「エレイン?」 

 伸ばした手が空を切る。いや、エレインの気配さえ無くなったような気がして、オーリは跳ね起きた。ついさっきまで傍に座っていたはずの姿が消えている。

「どこだ、エレイン」

 オーリは湖面に目を凝らした。まさか、水に落ちた?

 いや水音はしなかった。万が一、落ちるようなことがあったとしても、エレインなら泳ぎは達者なはずだ。

「エレイーン!」

 湖面に声が吸い込まれていく。目を凝らしても、彼女の影どころか波紋すら見えない。


『わたしはここよ……』

 ふいに声がして振り向くと、舟から離れた湖面に、まるで水面を歩くかのようなエレインの姿が浮かんだ。

『オーリ……』

 水上の彼女が手を差し伸べる。

 オーリはじっとそれを見ると杖を取り出し、迷うことなく光を放った。

 光がエレインを貫く。立ち昇る水柱の陰から、暗い声が響いた。

『やれやれ。可愛げのない』

「ヴォジャノーイ!」

 湖面に現れたのは、暗緑色の蛙のような姿をした水魔だった。

『魔法使いなど喰えぬ存在とは聞いていたが、まっこと。せっかく声色まで使って誘ってやったのに』

「あいにくうちの守護者は『わたし』なんて上品な言葉は使わないのでね。ヴォジャノーイ、悪戯が過ぎるぞ。エレインをどこへやった?」

「さあねぇ」

 オーリはすかさず杖を振った。水魔の腕は見えない何者かにねじ上げられ、水藻を潰したような音をたてた。

「この国の言葉が通じないか? どこへやった、と訊いている。それとも、テリトリー外に出没した咎で罰されたいか?」

『ヒッ! ヒッヒッ!』

 水魔はひきつったように笑うと、

『今さらテリトリーも何もあるかね。わたしらは人間どものせいで年々少なくなる住処を争って生き残らねばならない。お前の愛しい竜人は、新月の日には魔力が失せて普通の娘にもどる、そのくらい知っているよ。今宵は我らも新月の祭り、にえとして置いて行くがいい・・・ヒィィィィ!」

 水魔ヴォジャノーイは放り上げられたかのように宙に浮かび、青白い炎に包まれた。

「エレインを喰らおうというのか!」

『暗き水底に……湖底の城に……』

 詠うようなしゃがれ声が応える。

『紅き髪の……竜の娘……いざ我らが糧となりて……』

 炎に包まれたまま、水魔はべしゃっと湖岸の岩に叩きつけられた。

「しばらくそうしていろ!」

 言い捨てると、オーリは舟の中央に立ち、水面に垂直に杖を向けた。

「くそっ……湖底まで届くか……届け!」

 そのまま湖底に向かって光を放つ。

 杖の先から発した金色の光の帯は、湖面を揺らすことなく水の中を一巡し、やがて一方向に伸びていった。


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